大東文化大学の歴史大東文化大学の歴史

contents #03 ヒストリア

Historia

大東文化学院「学生歌」の誕生と児玉花外
一、
丈夫死すとも楯となる
靖国神社を囲みつゝ
万朶の桜咲くところ
大東文化の源泉に
朝百錬の鉄を錬る
意気こそ徹れ真心の
雪に聳ゆる芙蓉峰

大東生に親しまれたこの「学生歌」は、自然発生的なものとされ経緯は不詳ではあるが、実際に完成し認知されたのは1929(昭和4)年頃であったと言われる。作詞は児玉花外、作曲は梁田貞である。

大東文化学院が小さな九段校舎からスタートした頃、大東生たちは神楽坂近くの粗末な下宿に住む詩人児玉花外と懇意となった。花外は無類の酒好きであり、大東生や大東文化学院の教員と何度も酒を酌み交わす中で、彼らの情熱に動かされて作詞を引き受けたと言う。

花外は1874(明治7)年京都に生まれ、キリスト者であった父の影響で新島襄が設立した同志社英学校に入学するも中退、その後札幌農学校(現;北海道大学)や東京専門学校(現;早稲田大学)等に入学するも中退を繰り返し、明治30年代から社会主義的な詩を発表するようになった人物である。初期の作品はキリスト教社会主義の立場から権力への反抗や貧富の差への憤りをテーマとしていた。社会主義詩とは言え過激な表現はほとんどなく、評論家からも高い評価を得ていた詩人であったが、刊行予定の詩集はなぜか連続して発売禁止処分となっている。1907(明治40)年以降は社会主義詩を手掛けることはなくなり、細々と英雄詩や勇壮詩といった愛国詩を発表するようになるが、生活は常に厳しかったようで、総じて不遇の生涯であった。花外は明治大学校歌「白雲なびく」の作詞を手掛けたことでも有名であるが、この花外の代表作とも言える明大校歌完成は1920(大正9)年のことであった。

大東文化学院学生歌は花外晩年の作品に当たり、その他にも花外は学院誌『大東文化』に晩年の数少ない貴重な詩歌を数本発表している。花外が急性腸炎で亡くなるのは1943(昭和18)年9月20日、奇しくも大東文化学院創立20周年の日のことであった。

因みに、一番の歌詞の最期の部分「雪に聳ゆる芙蓉峰」は、誤植で「雲に聳ゆる芙蓉峰」と記載されたことがあり、以降しばらくの間「雲」の表記が混在してしまっていたことがあった。同窓生からの指摘もあって訂正され、現在は「雪」に統一されている。

二、
理想の月の照る清く
梧桐の高窓青年の
亜細亜に伸ぶる快手腕
世界を抱かん力ある
侠骨一片よしさらば
誰にさゝげん男の血
史上に残る美名かな
三、
仁義を説きし先人の
徳の足跡したひつゝ
勇み励みて武士道に
さきがけをせん荒き駒
雲の旗手に神州の
正気動かし青年の
団結を見よ九段坂
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