髙木 僕が入学した1969年当時、書道学科はまだありません。日本文学科で学びつつ、書道部に在籍していました。僕の時は「ベビーブーム」の最盛期。書道部員は、何と約500人もいたのです。「貪欲に取り組まないと、置いていかれる」。そんな怖さを常に感じていました。1週間に600枚書いた日々も……。競争心を煽ってくれたからこそ、今の私があると思っています。
中塚 岡山から上京した私が、入学して驚いたのは、先輩方から「一」の練習をひたすらさせられたこと。筆の持ち方、弾力の使い方……。置いてきぼりになりそうな時、先輩方はちゃんと引き上げてくれて、アドバイスを下さったんです。そんな環境は大東文化大ならでは。
髙木 当時から先生方は日本を代表する作家ばかりで、近寄りがたい存在。師匠の先生とお話しするのに2年以上かかったなあ(笑)。口をきいてもらうには、どうしたらいいか、日々考え続けていました。今の環境はずいぶん変わったね。
中塚 入学当初、パニックに陥ったことを覚えています。というのも、書道にはいろんな流派があって、筆の持ち方一つでも流派によって異なることを知ったから。同じ古典を勉強するのに、こんなにも多くの流派があるのか、と。髙木先生に出会い、めざす道を照らしてくださったことを感謝しています。
髙木 この学校の先生は、立派な人ばかりなんですよ。先生が10人いたとして、ある先生が「こうしたら」と指導、その後他の先生が違った批評をすると学生側に迷いが生じるのは大きな問題だと思うんです。でも、こんなふうに捉えていきませんか。学生は、拠り所となる先生の「支柱」1本さえしっかり持っておけば、いかに周りの先生が別のことを言おうとも、多少参酌して採り入れることができるはずだ、と。「支柱」さえあれば、周りの意見もある程度採り入れられる。美点は採り入れて。けれど、1本の「柱」は守って。これが肝要ですね。
中塚 私はその「柱」となる髙木先生の作品にほれ込みました。古典を学び、余白や筆遣いも学んだうえで、時代背景も考える。書道を美術品などとリンクして捉えられました。