市・市場:25ルピアの世界

福家洋介

私がこの10年ほど関心を持ってきたもののひとつは、ジャワの「小さな民」の生業や暮らしなどに関するものである。とくに後半の5年ほどはジャワ島を飛び出した彼らを追って、インドネシアの辺境地域、さらにマレーシアまでも歩くようになってきた。彼らの生業や暮らしは陸上だけで行われるとは限らない。海を生業や暮らしの場にしている「小さな民」がいる。彼らは戸口から戸口ヘモノを行商して歩くモノ売りであったり、島から島を帆船で移動して交易に従事する海の行商人でもある。「小さな民」が暮らす路地裏のワルン(屋台)やモノ売りに注目しながら、「小さな民」の生き方、彼らにとって怖いものなどについて述べてみたい(ここでは紙幅の関係から海の行商人については触れない)。場所は私が80年代前半の2年間を過ごした西ジャワ州スメダン県のとある町の路地裏界隈である。その後も、私はしばしばこの路地裏をモノ売りのように俳徊し続けている。

日本の路地裏と比べると、モノ売りを始め人々の行き来はジャワのそれの方がはるかに多い。モノ売りの仕事を日本では自動販売機が担っている。路地裏はきれいになったが、何とも味気ない。かつてモノ売りや人々が排徊していた頃の様子を想像できる「物件」を探す路上観察学が日本では流行である。このような日本の路地裏からジャワのそれを見ると、路地裏は「小さな民」の生活場所であり、仕事場である。混沌としていると言われるが、私には納得できることのほうが多かった。

ワルンで流通する貨幣単位は

バンドンに住む劇作家、詩人であるサイニさんの作品の中に『5ルピアの世界』というのがある。70年代に書かれたこの劇作品では、5ルピアで何とかなった当時のインドネシア民衆社会が描かれていた。私が暮らした80年代前半になると、5ルピアでは何ともならなかった。サイニさんが描いた世界は『25ルピアの世界』と言い換えたほうがよかった(しかし、現在では50ルピア以上になっている)。

ワルンは食料品、野菜、魚、駄菓子、薬、化粧品、オモチャ、燃料、惣菜、タバコなどおよそ生活に必要なのは何でも揃っている小さな店のことである。路地裏の家の片隅を利用してワルンを開いている場合もあれば、移動式の屋台になっている場合もある。私がよく利用したワルンではおよそ200種類の商品が並べられたり、積まれたり、天井から吊されたりしていた。商品の値段は25ルピアから2000ルピアの幅があった。このうち25ルピアで買えるものが全体の商品の約3分の1を占めていた。200ルピアを越える商品は高級料理油、化粧品、魚の缶詰などであった。米は精米で400ルピアで売られていた。

25ルピア硬貨、50ルピア硬貨、それに100ルピア紙幣が数枚あれば、毎日の生活は何とかなりそうに思った。ワルンで販売される商品の単位は1回分、あるいは1日分の単位である。味の素はパッパッと振りかければすぐになくなってしまうぐらいの量が袋に詰め替えられている。薬やタバコ、蚊取線香も箱を開けて1錠、1本、1巻単位で売られている。パサール(市場)ではこんな小さな単位で商品は売られていない。パサールで買う方が割安なのだが、そのためにはまとまった金が必要になる。

私がここで暮らし始めた頃、ワルンの流通貨幣単位を知らなかったので、しばしば5000ルピア紙幣や1万ルピア紙幣をワルンの親父やおばさんに支払って迷惑をかけた。こんな高額紙幣を出されると、おばさんはおつりを工面するために、あっちこっちのワルンやお店を走り回らなければならなかったのである。私には当面必要なものだけを買うことができたり、ツケ買いのできるワルンを便利だと思ったが、私が暮らしていた路地裏の人々のワルン評は違っていた。「あそこのワルンは高い、ワルンの親父はケチだ」と言いたい放題だった。しかし、なんやかんだケチをつけても、ワルンを利用しているのである。

そのうち、「小さな民」には「頭痛持ち」が多いことがわかってきた。彼らはカネの問題でいつも「プシン(頭が痛い)、プシン」とぼやいている。しかし、頭痛のタネであるカネは金額的に見て決して大金ではない。むしろ小額である。少額であっても「頭が痛い」から、そのカネの重さは非常に重いといえる。彼らの間で流通しているカネは、よれよれで数字すらよく読み取れなくなった、そして汗の湿っぽさが残っている100ルピア紙幣だった。当時(80年代半ば)ワルンで、500ルピア紙幣、1000ルピア紙幣を見ることは少なかった。硬貨では5ルピア、25ルピア硬貨が主流だった。アルミ製の5ルピア・.硬貨はすり減ってツルツルになっていた。100ルピア硬貨もあったが、それほど利用されていなかった。重いからだ。それは財布代わりのシャッやズボンのポケットを傷める。だが、こうしたカネは残念ながら彼らのポケットに長く留まってはくれない。汗の湿りが乾かないうちに、ほかの人の手に次から次へと渡っていく。

ミ・バソ売りに声をかければ

路地裏を行く天びん棒のミ・バソ売りに「バソッ」と声をかけてみる。ミ・バソとは、バソ(牛肉のすり身とシンコン芋の澱粉を丸めてゆでたもの)入りのラーメンのことである。このミ・バソに100ルピアから300ルピアの間に50ルピアごとに5段階のバリエーションがある。50ルピアの違いはラーメンに入っているバソの大きさと個数によっていた。路地裏の人々の「バソッ」には何ルピアのバソとは指定していない。しかし、ミ・バソ売りは声を聞くだけで何ルピアのバソが注文されているのかを理解している。彼はせっせと100ルピアのラーメンを作る。しかし、路地裏の住民の1人である私が「バソッ」と言っても、出てきたラーメンは決まって300ルピアだった。さすがである。

天びん棒には前と後に箱がついている。前側の箱の上部には食器、スプーン、調味料(味の素)、酢、ソース、サンバル、サレッドリ(きざみ野菜)の入った瓶や缶が無造作に置かれている。箱の内部は3つに分かれていた。1段目にはミ(麺)、もやし、ミーフンが入っている。2段目には調味料やソースのストックが納められる。この段はまた金庫の役目も果たし、ぼろぼろの100ルピア紙幣や硬貨が投げ込まれる場所である。3段目は、食器やスプーンを洗うバケッが入るところだ。後の箱にはスープの入った鍋と、鍋を温めるための灯油コンロが備え付けられている。麺やもやしはこの中でゆがかれる。鍋の底にはバソが潜んでいる。

箱の部分は熱に強いチーク材を使っている。チークも天びん棒(竹)も、彼らが中部ジャワのソロからもってきて、自分たちで作ったものだ。チーク材はソロのほうが安いし、天びん棒の竹もソロのほうが強いというのがその理由だ。およそ10年は使えるという。私も路地裏ではミ・バソ売りの固定客の1人と思っていたが、ほかの住民と比べるとミ・バソ売りとの付き合いは短い。私がこの路地裏に住み始めたのは82年だが、当時のミ・バソ売りのサティマンさんの叔父にあたるスディノモさんがソロからスメダンに来てミ・バソ売を始めたのは50年代初めのことだった。サティマンさんが叔父さんに連れられてスメダンにやってきたのは56年だったから、路地裏の住民との付き合いは25年以上にもなる。私が住んでいた路地裏界隈には当時8人のミ・バソ売りがいたが、すべてスディモノさんと親戚関係にある。ここではミ・バソのことをバソ・ソロとも呼んでいる。

ジャムゥ売りについて歩けば

スディノモさんはやはりソロ生まれの妻マシナさんとともにスメダンにやってきた。彼女は路地裏でジャムゥ(生薬)売りを始めた。インドネシア各地で活躍しているミ・バソ売りとジャムゥ売りの関係は夫婦である場合が多い。8人のミ・バソ売りのうち2人の独身者を除くと、6人の妻はみんなジャムゥ売りに従事していた。

路地裏界隈の戸口から戸口ヘジャムゥを売って歩く彼女たちを、人々は「イブ・アユ」(ジャワ語で美しい女性の意)と呼び止める。ミ・バソ売りが「バソッ」と声をかけられるのとは大いに違う。これは彼女たちの営業用の服装によるところが大きい。イブ・アユたちはジャワ女性の正装のクバヤと呼ばれる薄い生地の上着、腰の線がくっきりとわかるバティック(ジャワ更紗)のサロンを腰に巻つけている。生薬が入った7、8本のビンを竹籠に入れ、これにスレンダン(肩掛け)を掛けて背中と腰の中間あたりで背負う。そして右手にはコップの洗い水が入っている小さなバケツを持つ。歩いていても籠の中のビンがカチカチと音をたてることはない。この姿を見てイブ・アユとわからない人はいないだろう。私の知る限り、きちんと正装したモノ売りはこのイブ・アユたちだけである。

美しく装っている彼女たちにもそれなりの苦労がある。背中や腰で籠を背負うから、クバヤは2ヵ月でダメになるし、スレンダンやサロンは1年ももたない。サンダルは1ヵ月に2足もはきつぶす。竹籠だって1年に2回は取り替えなければならない。

ジャムゥ売りのあとについて少し路地を歩いてみた。あさ6時半ごろ家を出ると、まず私の下宿の隣に住んでいるウキおばさんの家の戸口へ行った。ウキおばさんは固定客のようだ。ジャムゥ売りはウキおばさんのような固定客を数部落にわたって100人近くもっている。「イブ・アユ」はウキおばさんが戸口に現われると、いつも彼女が愛飲しているジャムゥ(100ルピア)をコップに注ぐ。コップをおばさんに差し出すときは、両膝をついて右手にコップを持ち、それにそっと左手をそえる。そのしぐさは自然なものだが、一瞬、その姿に気品が漂う。

ジャムゥを飲む客はほとんどが現金払いだが、しばしば、彼女が手帳になにやら記録していることがあった。それは生薬の売り上げを記録しているのではなかった。ジャムゥ売りが客の注文に応じて、ソロでバティックを仕入れてくることがある。客はそれを分割払いで手にすることができる。彼女は客の分割払いの集金を記録しているのである。ジャムゥ売りは生薬だけを売っていると思っていたが、バティックも商っていたのである。バティックは生薬の材料を仕入れにソロに帰るときに買ってくる。

ベテランのジャムゥ売りになると、バティックの売り上げが生薬の売り上げを上回るという。ジネムさんは75年からガンディン部落でジャムゥ売りを始めたが、5年目からはバティックも商うようになった。中部ジャワのソロからインドネシア各地に散らばっているベテランのジャムゥ売りのほとんどが、バティックも併せて売っていると思って間違いない。生薬もバティックもジャワの有名な商品である。その商品は、彼女たちが路地から路地を歩き回って、路地裏界隈の人々の手に届けているのである。彼女たちの正装は、バティックという商品の見本を見せて回ることでもあったのだ。粗末な見本では商売にも響いてくるに違いない。

イブ・アユ」の家を訪れた時、ジネムさんに混じって、2人の若い女性がソロから来ていた。もちろんスディノモおじさんやジネムさんとは身内の関係にある。彼女たちは近いうちに、この路地裏ででジャムゥ売りとして生活を始める。その準備として、スンダ語の勉強をするためにジネムさんたちの家に居候しているという。路地裏のある西ジャワ州では日常語としてスンダ語が話されている。ソロではジャワ語が日常語である。同じジャワ島内の言葉であるが、その違いは大変に大きい。共通語としてのインドネシア語はまだソロでもスメダンでも根を下ろしてはいない。

モノ売りが増えて、さらに「開発・近代化」が進めば

88年、ジャワ島から北東へ約1700km、東部インドネシアのマルク州に属するバチャン島の港町ラブハでソロ出身のミ・バソ売りに会ったことがある。もちろん奥さんはジャムゥ売りの仕事をしている。バチャン島に来てまだ11ヵ月ほどだという。ここに来る前、彼らはスラウェシのメナドで2年間働いていた。メナドから移ってきた理由は、そこにはすでに数百人のミ・バソ売りがいて競争が激しかったからである。バチャン島に来たのは、奥さんの甥がバチャン島でミ・バソ売りしていたが、今度彼がモロタイ島(バチャン島から北へさらに800km)に移るのでその代わりであるらしい。当時、ラブハにはこの2人のほかに独身のミ・バソ売りがひとり、2人のジャムゥ売りが働いていた。ここではまだバティックを商っていなかった。それまでにはまだ年月がもう少し必要だろう。言葉は働きながら少しずつ覚えているようだった。同業のモノ売りが同じ地域で仕事をする場合、競争をできるだけ回避するために時間をずらしたり、地域を分割したりする。それでもモノ売りが増えてくれば、一定以上の利益を上げるために、新たな場所を探さなければならない。ジャワ島でのモノ売りはすでに限界近いのではないだろうか。バチャン島のミ・バソ売りのように、ジャワ島を離れ、スラウェシ島へ、さらにバチャン島からモロタイ島への移動が進んでいた。辺境に行けば行くほど人口は少なくなり、小さな市場でモノ売りが飽和状態に達する時間は短い。そうなればもはやインドネシアを飛び出す以外に方法はないだろう。80年代後半からマレーシアがその場所になりつつある。

都市や町の「開発・近代化」がモノ売りの数を増加させる一方で、都市や町の「開発・近代化」が彼らを排除しようとする。モノ売りの営業場所がどんどん狭められている。ジャカルタやバンドンなどの大都市では路地裏が都市再開発でなくなっている。そのため路地裏にすむ人々も追い出されている。営業場所はさらに狭くなっている。つまり「小さな民」は増加しているのに、彼らの活動場所は減少しているのである。マレーシアではインドネシア人モノ売り(多くの場合、彼らは「不法」就労である)の排除を始めている。いまや「小さな民」のもぐらたたきはインドネシアだけで見られる現象ではなくなっている。

〔注〕

なお、本稿は佐竹庸子編著『アジアを考える本③はたらくアジアの子どもたち』(岩崎書店1995年)のなかの拙稿と一部重複することをお断りします。

初出誌情報

福家洋介1996「市・市場:8.25ルピアの世界」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第6号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.135-139.

お読み下さい

ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

市・市場:目次