市・市場:市場考イラン「絨毯聖者」の市

山田 稔

西アジアの市場といえば、たとえばアレッポの「スーク」とか、イスファハーンの「バーザール」とか、都市の常設市が、イスラーム世界の都市性と商業性を特徴づけるかたちで、とりわけ文明史的に語られる場合が多いようである。都市の常設市が、遠隔交易のネットワークの拠点にもなるのにたいして、定期市とか大市(歳市)は地域的で間漱的な場であり、土地に根ざした社会・文化的特性と機能をふくむものとみることができよう。はなしがすこし横道になるが、1978年春、イラン南部の秘境ラーレスターンの方言調査をおえた筆者は、イラン東北部のホラーサーン州でいまだ作動している千年来の風車(asiyabadi)の存在を確認しようと、州都マシュハドに入った。「マシュハド」は、アラビァ語で「殉教の地」という意味があり、州都マシュハドは、シーア派第8代イマーム(イマーム・レザー)の、黄金のドームをもつ聖廟のあるイラン国内最大のシーア派(12イマーム派)巡礼地である。ちょうどノウルーズ(nouruz:新年=春分の日)にあたって宿の確保も至難なほどの雑踏であったが、この時のマシュハドはそれ以前に見たマシュハドではなかった。イマーム・レザー廟を円形に取り囲んでいたはずの市場や巡礼宿や土産物屋の雑然とした広大な区画と特有の喧騒が忽然と姿を消し、かわりに聖廟を中心に丸い緑のヴェルト地帯ができあがっていた。あちこちの地方都市でも、伝統的で地方色豊かなバーザールが近代化の名のもとに一律に取り壊され、どこに行っても同じような商店街と似たような商品しか見られなくなっていた。そしてどの町の中央広場にも王(シャー)の銅像が据えられていた。イラン最大の聖廟とそれを取り囲む緑のヴェルトを、モスクワの旧赤の広場にたとえた人もいるが、筆者には、近代空間が聖域を虎刈りにして、緑のペンキを塗りたくったように見えたのである。イラン革命のちょうど一年前のことである。旅(巡礼)を介在にして、聖〔聖地、聖廟〕と俗〔商業、情報〕が有機的かつ不可分に結びついていたからこそ、マシュハドはマシュハドであったはずである。

前置きが長くなってしまったが、以下に紹介する「市場」の舞台もマシュハドという名がついている。シーア世界では、イマーム(emam:シーア派の霊的最高指導者)あるいはイマームの末裔の殉教の地をマシュハドというのであるから、イランでは、この同名の地が複数ありうる。ここでとりあげるマシュハドは、ホラーサーンの州都のマシュハドではなく、正式には、Mashhad-e Ardehalといい、イラン中央部の都市カーシャーンの西方約35kmに位置する行政村(19のむら=ガルエ ghal'eを含む)である。筆者はこれまで、この村での大市(祭礼市、縁日)を実際に観察する機会に恵まれていないが、たまたま昨年のイラン地域研修のおりに、学生諸君の同意を得て、カーシャーンから寄り道してこの村を訪れることができた。しかし大市の日はとうにすぎていて、大市で賑わったはずの広大な空間は閑散として秋風が吹いているのみであった。「巡礼地メッカは、イスラーム最大の大市である」といった一般的解説以外に、イランについても具体的事例の情報がすくないので、1995年も大市が盛大に行われたことを確認できただけでもよしとすべきか。

この大市については1938年にH.Masseによって紹介されているが、王政期には、外部からはほとんど忘れられた存在であった。しかし革命後、この聖地にも舗装道路がしかれ、1992年には中央のワクフ省の直接の管轄下におかれるにいたって、政治・行政的にもその存在が注目されるようになった。したがって、こと宗教性をおびた祭市の復活には、地域の自立的な活力以上に、体制側の強力な挺入れがあることも無視できない。ギーラーン州の定期市の報告にもみられるように、革命後の経済状況のもとでは、一般の定期市もすたれるどころか一層活況を呈しているのではなかろうか。

いずれの実地調査の候補地の紹介の意味をこめて、ここでは、一イラン人作家の1964年の観察にもとついて、その輪郭を概観してみよう。数字などは当時のものであるから現在とは相当のずれがあるだろう。以下地名は単にアルデハールと呼ぶ。アルデハールは、標高1770mの山麓にあり、冬は温暖で、夏はフィーン(カーシャーン郊外)やデリージャーン周辺の人々の避暑地ともなる。この村はメロン、西瓜などの夏作物(seyfi)がとれる程度の土地であるが、この村を際立たせているのは、聖者廟とそれにまつわる年1回の大市である。聖者の名をSoltan ?liといい、シーア派第5代イマーム、バーゲル(733没)の子で、第6代イマーム(ジャファル=アッ=サーデク)の兄弟であると信じられ、「絨毯聖者」として知られる。この廟は典型的なイマームザーデ(emamade:イマームの子孫、あるいは子孫と信じられている者の墓)であり、集落からはるか離れた荒涼とした谷間(枯れ川)に、重厚なドームが象眼細工の宝石のように浮かび、周囲には多くのミナレットがある。この廟の中庭や周囲の広大な青空広場で、毎秋7~10日間、大市がひらかれ、1964年には500ほどの出店があり多くのテントが張られたという。

この市の「場」が聖廟およびその周辺であり、川べりである点、いわば異界域にあたり、特定の支配の及ばない自由(あるいは無縁の)空間であることは明らかである。この定期市(bazar-e makare)で取引されるものは、この土地や隣接する地域からの農産物、衣料、雑貨、農具類で、たとえばナジャファーバーディーのナイフであるとか、カーシャーンのカシミヤ布、アーシュティヤーンの石鹸、ヤズドのカルダモンや酸性白土(洗髪用)あるいは各種の鋤にまでおよぶ。伝承によれば、この市で買物をすると縁起(shogun)がよい。この市で娘の嫁入り道具(jahiziye)を買い揃えると、娘は翌年のうちにかならず嫁げるのだという。土地の庶民の祈願・願望がこの聖者市にこめられているのであろう。市の管理、秩序維持、取引の形態については手元に詳しい情報がなく、ワクフ(寄進財)の維持・管理をめぐる史的考察と実地の調査が重要な意味をもつが、ここではいきおいその儀礼的側面にふれるにとどまる。

この市のたつ期間のうちに祭礼市にふさわしい「絨毯洗い」(qalishuran)の行事がおこなわれ、近隣の町村から数万人の人々が、市での売買をかねて物見遊山におしよせるのだという。この聖廟に祀られている「絨毯聖者」=Soltan ?liは、他のイマームやその子孫の例にもれず、やはり殉教の聖者とされている。(10世紀頃この近くの村で殺害されたといういいつたえがあるが、そうすると、年代的に第5代イマームの子ではなく、その子孫ということになる一これはあくまでも歴史ではなく縁起・伝承なのである)イマームやその血筋のものの「殉教」(shahadat)はイスラーム防衛といったスンナ派的ジハードの枠のなかでの殉教というより、むしろ義に殉じるというイマーム的殉教色(蹟いによるメシア性)が濃厚である。イマームザーデからこうした殉教色を差し引いたら、イランのシーア信仰はその基盤を失うといったら誇張であろうか。とまれ、この聖者も殉教したのであるが、ユニークなのは、その遺骸を洗う(ghosl)ために、絨毯の上に乗せられて、川岸に運ばれたという伝承である。(殺され、絨毯にくるまれてこの廟のある地点まで運ばれた、という説明もあるが、川べりと聖廟との位置関係をみるとき、水に関連させたほうが説得力があるるだろう。そして農村部では「水辺」(lab-e ju)が「死体洗い場」のことを意味することも想起されてよい)。そしてその絨毯が聖にして霊験あらたかな遺物としてこの廟に残されていることになっているのである(筆者がその実物の確認を求めたとき、すでに行方不明であるというそっけない返事がかえってきた)。遺物とされる絨毯を聖者の命日に洗う行事が、この祭市のメイン・イベントとしての「絨毯洗い」である。

絨毯は、まずなにより、イラン中部のこの地域が、その主要な生産地域であること、カーシャーン、ナーイーン、ナタンズ、コム産の絨毯は、国の内外に名声を得ている銘柄であることは周知の事実である。この祭市において、土地の織物の伝統技術が聖者に結びつけられ、ひとつの聖性を帯びたシンボルになっていることが注目されよう。それはまた大地の延長としての象徴としてとらえることも可能である。

死体を水辺で洗う習慣と、絨毯を水辺で洗うことが、この聖者伝承を媒介にして結び付けられ、水のイメージがさらにバラカを増大させるのではないか。テヘラン郊外のレイにある「アリーの泉」(Chashme ?li)における絨毯洗いは、観光名物にもなっているものであるが、この泉地も古代からの聖地である。シーア派の総本山ともいうべきコムのファーティマ廟を、その脇を流れるコム川との関連でみるとき、ファーティマ(シーア派第8代イマームの妹)も、水の女神アナーヒーターに置換できないこともない。そしてなによりも、このコムとカーシャーンとが、古くからのシーア派の宗教的避難地であったことを思い起こすとき、イスラームを表層とするイランの文化的古層の存在を意識せざるをえないのである。

さて、この「絨毯洗い」の行事は、祭りの当日朝9時ころ、巡礼に来た約2,000人(1964年)余りのフィーンの住民を中心に、河原に集合するところからはじまる。かれらはおのおの木の棒を手にして、はじめは早足で、やがて聖廟に向かって駆け出す。その間、手にした棒を振り回しながら、目に見えぬ敵(殉教者の殺害者)を威嚇する。(フィーンとハーヴェの住民は、シーア派の教えの流布のためにこの聖者を招き、味方したという。棒ふりの演技は、一種の闘争儀礼として農村部の結婚式などにも演じられる)棒ふりの集団は、近くに張ったテントに引っ掛かったり、見物人にぶつかったりするが、これは祭りであるから公然と許される。かれらは、廟の高い階段をかけのぼり、境内がひとで埋まる。やがてアーホンド(akhond:宗教儀礼の指導者)が説教壇(menbar)にのぼり、廟の縁起と聖者の徳を語り、説教(va‘z)をおこなうが、聖者の殺害者にたいする呪いが、おきまりのようにカルバラーの荒野の受難(第3代イマーム、フサインがウマイヤ軍によって虐殺された。880年)につなげられる(これをgorizという)。この間、フィーンの主だったひとたちが、信徒からそのふところ具合に応じて金をあつめてまわる。この金(1964年では、年間4~5,000トマンだった)が、この廟の出納人(khazanedar)に手渡される。(革命政府の直轄となった現在は、かなりの行政的介入がありうる)ちなみにこの廟は周辺のむらから、小規模ながら、農地とカナート(qanat:地下水路)の水のワクフを得ており、ワクフ文書も存在するという。出納人との取引がすむと、「聖者の絨毯」が取り出され、巻かれ、黒い布で覆った絨毯をフィーンの人らが担ぎ出す。カルバラーの儀礼でいえば、nakhlにあたるだろう。nakhlとはアラビア語で「ナツメヤシ」の意であるが、カルバラーの悲劇の英雄ホセイン(イラン人はフサインと発音しない)の遺体を運ぶのに用いられた「枢」のことである。地域によって、格子状で両面が衝立のような大型のnakhlもあり(ケルマーンなど)、縁飾りがほどこされ、幟や布きれ等がとりつけられている。しかし、バニー・アサドというアラブがホセインの遺体を埋葬地に運んだころは、ユーフラテスにちかい土地がら、nakhlはナツメヤシの枝でつくられ、そのうえに「こも」が掛けられていた程度のものであっただろう。「こも」を「絨毯」に置き換えたのが、この聖者の場合であり、ここにアラブに対するイラン人の誇らしげな自負心をよみとることもできよう。この絨毯は遊牧的な文化環境であれば容易に「フェルト」にも置き換えることができる。

さてこの絨毯運びには、喪の旗(‘alam)や輿(‘amari)が付随し、従う民衆は胸を打ち、哀悼の句をくちずさむ(nouhe)。アーシューラー(カルバラーの事件の劇的な再現の行事)と基本的にかわることがなく、ひとつのヴァリエーションなのである。しかしながら、1点だけ、根本的に異なるところがある。この行事が、モハッラム月の10日といった、イスラーム暦(大陰暦)にしたがった祭りでないことである。シーア派でもイマームや聖者の命日は、かならずイスラーム暦による、というのが大方の通念であるのに反して、このアルダハールの聖者の命日は、なんとイラン古代からの農業暦でもあるノウルーズ暦(太陽暦)によって、年の197日目(土地のひとはメフル月の第2金曜日としている)とされていて、きわめて異例なことである。しかし、ここにこそ、イスラーム暦による規制やタブーを超えて、農業暦を主張するたしかな根拠がある。新年(ノウルーズ)を春分にあてるのと、まったく同様に、この聖者の命日はまさに秋分にあたる。秋の収穫祭としての祭りを、イラン人は古代よりメフルガーン(mehrgan)の祭り(メフル月のメフル日=イラン暦7月16日)として祝ってきたし、「メフル」とは太陽、契約、友情をあらわす、ゾロアスター以前にさかのぼる神格であって、「ミトラ」「ミスラ」あるいは「ミロク」(弥勒)などの語は、われわれにも親しい。そしてこのメフルガーン(小=16日、大=21日)のころに市がひらかれ、果実や夏物野菜がたべられ、とうぜん水祭りも存在したはずである。こうして「聖者の絨毯」は、水辺にまで担がれて運ばれるのであるが、この時の足取りは、廟に殺到した時とちがって、おごそかである。葬送の再現だからである。しかし前と同じく棒をふりまわす仕種はつづく。この棒は「絨毯洗い」にも用いられる、とあるから水に漬けた絨毯を叩くためのものであろう。かくして聖なる絨毯は河原で洗われて、翌年のこの行事のために廟内に戻される。枯れ川となって水がなく、給水車の手配などが考えられるようなこともしばしばらしく、たんに水を打つ真似で済ますことも多いようだ。絨毯を疑人化すれば、「水による沐浴(vozfu)」に代えての「砂・土による浄め(tayammom)」だと、観察者のイラン人作家の評である。

この「絨毯洗い」の行事の主要な役が、ほとんどフィーン住民によって独占されているいるのが注目される。フィーンは、カーシャーン郊外の泉地であり、カージャール朝期の宰相アミーレ・キャヴィールが暗殺された場所としても知られるが、近くにテペ・スィアルクという先史遺跡をひかえているところである。フィーン人は、カーシャーン人である前に、この先史遺跡の住民の末商であるという自己のアイデンティティーを、この「絨毯洗い」の行事で主張しているのだという。はじめフィーン人はスィアルクの遺跡の付近にアブー・ローロー(Abu Lo‘lo‘)(第3代カリフ・ウマルを暗殺したペルシア人奴隷)の墓をつくったが、これだけでは充分ではないと、遺跡の一方にイブラーヒームというイマームザーデを埋めたが、それでもなお充分ではない。より血統性のある縁起をもとめて、できあがったのがこのアルデハールのイマームザーデなのである。日頃「臆病もの」といわれるフィーン人が「絨毯洗い」の祭りの独占権を買って、年に1度、勇猛かつ晴れやかに、聖者の祭りを演ずるのである。そしてフィーン人がなうての絨毯職人であることはいうまでもない。

イラン

以上、市場の話というより、市をめぐる文化的背景の話になってしまったが、イランにおいてはどちらかというと「建前」(zaher)のイスラームが先行して、内奥(baten)の文化構造をみえにくくして面があり、民俗学や人類学とは縁のない文化圏のようにも思われてきた。しかし、ここに紹介した例のようにともすれば他愛なくみえるこうした土地の伝承と行事に、幾重にもみごとな、シンボルや民衆的メタファーが織り込まれているいるのをみいだすことができるだろう。伝承の虚構性をあげつらうあまり、庶民の意識に根を張りしかも永続するその力をみのがしてはなるまい。土地の伝統技術の粋としての絨毯、水と絨毯、両者にかかわる聖者、そして農業暦による季節祭、それが祭市として結集し、土地のひとびとの存在とくらしに意味を与えているのである。

しかし、民衆の聖なる意識が、王制期とは逆の政治的ヴェクトルで体制側に巧妙にとりこまれてきていることも、同時に想起しておきたい。

〔参考文献〕

イスラム圏における異文化接触のメカニズムー市の比較研究Ⅰ―東京外国語大学 A.A研 1988

IRANIAN STUDIES 2.ギーラーンの定期市 同 1988

Arzyabi-ye shetabzade J.A.Ahmad Tabriz 1965

Mashhad-e Ardahal聖廟 パンフレット 1995

初出誌情報

山田 稔1996「市・市場:10.市場考イラン「絨毯聖者」の市」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第6号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.144-149.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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