飲料:日本(1)すたれるお茶、いつでもどこでも何でも

小島麗逸

1.お茶は手あかで揉んで作った

山村生まれ(1934年)の山育ちの小生が小学生のころ飲んだ飲料で、強烈な印象が今も残っているのにラムネがある。小学生時代は第2次世界大戦の最中、物資が極度に不足した時期である。長野県南部の飯田市まで歩いて約1時間半、バスはあったが日に2、3本。小学校2、3年のころだと思うが、腕を脱臼して母親に連れられ飯田市内の整骨医まで行った。その帰りに市内でラムネ1本を買ってくれて、これがウマカッタ。腕は大体よくなっても、もう1回飲んでみたいと思い、腕が痛むと飯田市行きを頼んだことがある。ラムネの瓶は特異な形をしていて中にガラス玉が1つ入っていた。これもお目当ての1つだった。何しろ我が人生では見たことがないシロ物だったからだ。

飲物を購入するなどというのは、数十年前の日本の山村ではめったになかったのではないかと思う。一般には、井戸水か小川の水を飲んでいた。今では川の水を飲むなどということは全くありえない。現在住んでいる山梨県大月市の山中の集落でも、御多分にもれず、ゴミ問題は深刻である。ゴミを出す集積場所には、各農家から出された飲料缶やペットボトルがうず高く積まれる。この20年間くらいで飲料は完全に商品経済に巻き込まれたと言えよう。

では数十年前、農村は生水だけだったのかと言うとそうではない。最も多いものが緑茶であった。ところがこの緑茶は自家生産の茶で、購入する茶はごく少なかった。とくに山村はそうであった。田や畑の土手に何本かの茶が植えられていて、5月にバアさんや主婦が摘み取り、家で製茶した。蒸して手でより、日蔭干しする簡単なやり方で作っていた。茶は亜熱帯性の植物で、寒いところでは栽培できない。日本でも東北の岩手以北は栽培されていなかったのではないか。これはまだ調べていない。

我が家は五反百姓。数十年前、本州の農家の平均的耕作面積が五反(0.5ha)であったことから、日本の小農はこうした俗称で呼ばれた。但し、北海道は広面積である。父が養蚕の技術指導員で、農業は母と子供でやっていたので、我が家では茶の木はあったが5月の最中に茶摘みをし、家で製茶する時間はなかった。そこで何を飲んでいたか。オサ湯である。ご飯を食・竪あと、オサ湯を茶碗に注ぎ飲みそれで終わり。では、茶が家の中に全くなかったかというとそうではない。お客様が来たときだけ、購入して来た茶が供された。家族が茶を飲めるのは、お客が帰ってからその出がらしを飲む程度であった。茶・は貴重品だったのだ。

我が家の情況が特別だったかというとそうではなく、当時集落の他の家をみても大方こんな情況であった。飯田市内に行けば、比較的豊かであるからこんなことはなかったと思うし、米中心の天竜川べりの平地の農村は購入した茶を日常的に飲んでいたであろう。

長じてから、東京である出版社の編集者と茶の話をしていたときに、福島県山村出身の彼から、似たような話を聞いたことがある。農村は都市より貧しかったし、農村の中でも平地に較べると山村はかなり貧しかったので、我が家のような情況は多分日本の30%前後の比較的低い層の飲料の情況だったのではないかと思う。購入する茶を飲める階層は日本の3分の2程度ではなかったかというのが筆者の印象である。つまり、数十年前までは日本の農村では購入する茶は贅沢品の1つに入っていたのではないかということである。

のちに、中国経済研究者になってから、中国の農村社会ではこの点がどうであったかにつき関心を持ち続けた。中国では1950年代の前半から都市住民にはお茶が配給されるようになった。それを茶の‘工業券’と呼んだ。茶を工業券というのは腔に落ちないと思う人がいるかも知れないが、製茶された茶は工業的に作られるのでこう呼んだものと思う。配給制度とはそもそも需要量が供給量を上回るときに導入される。当時、工業化が本格的に始まり、茶は外貨獲得のための重要な商品であった。そこで政府は輸出用茶をまず横に確保した上で、そのあまりを都市の人々に配給する制度を導入した。日本は昔から山紫水明、生水が飲める風土である。ところが世界の大部分の国では水が飲めない。飲めば必ず下痢をする。日本の兵隊が中国で最も悩んだことの1つにこれがあった。中国語で`開水'というと一旦煮沸した湯を魔法瓶に入れたものをいう。中国での魔法瓶の発展に大変長い歴史があるのはこのためである。中国では揚子江の北部の秦嶺山脈と准河を結ぶ線以外は乾燥地帯で、四六時中この‘開水’を飲んで水分を補給する。このときに、茶の葉をコップに入れ、その上に‘開水’を注ぐ。何回でもこれを繰り返して飲む。茶がいわば体力維持の必要品である。

このような伝統の下で、工業化のための外貨獲得のためにお茶を持っていかれると、民へ供給する量が不足する。そこで採用されたのが茶の配給制である。農村にはこの制度はどうも導入されていない。1979年から改革開放政策がとられるようになり、それまでのすべての統制が緩み始めた。そこで発生した面白い現象がある。茶の配給券が金券となって流通し始め、ブローカーが出現し、都市でそれを集め、農村に売り渡す。農民がそれを持って茶を購入するという現象である。農民はおそらく郊外農民で富裕な者に限られようが、この現象は中国の一部の農民に茶を飲む経済力が出てきたことを示す証左である。日本の山村でいえば、1950年代前半の現象である。日本経済は朝鮮戦争(1950~52)以後急速に回復、発展軌道に乗る。この過程で、底辺の3分の1の山村にも商品としての茶を家庭で飲めるようになった。中国では富裕農民が80年代初期にこの段階に達したのではないかと思われる。

2.50年間の飲料革命

日本の高度成長は1957、58年から始まる。都市では騒音のドームに入ったように建設の槌音が各地で聞かれ、給料はどんどん一L昇して行った。ここで発生したのがコーヒーの普及である。小生が我が人生の中で初めてコーヒーを口にしたのが1956年大学1年生23歳のときであった。在籍した大学が国立市にあり、国立駅を下りて左に行ったところにエピキュールという喫茶店があった。ここがその大学の学生のタマリ場となっていた。ゼミの先輩に誘われて入った喫茶店で初めてコーヒーというシロ物を飲んだ。初めて口にしたとき、何とケッタイな飲物や、喫茶店というのに茶(緑茶)がメニューにないのは何故や、といぶかった。そして高かった。50円した。ラーメン一杯が40円、理髪料が60円のときだ。喫茶店とはコーヒーを飲むところだということがわからなかったのでこんな印象を持ったと思う。田舎人ははなはだ幼稚であった。都会の風習や文化にことごとくビックリした中の1コマである。このコーヒーの普及が都会での人と人とのつきあいの場とともにもたらされたのが第1回の飲料革命といってよかろう。

第2回のコーヒーに関しての驚きは1970年前後だったと思う。東京大学に用事があり、めったに行ったことがない本郷三丁目を訪れたとき、地下鉄駅の近くでコーヒー店に入った。和田コーヒー店という名前だったと記憶する。‘コーヒーを下さい’といったら、‘何にしますか’と来た。‘コーヒーです。’‘モカですかコロンビアですか’と来た。こりゃ入るところを間違えたのかなと思った。コロンビアは国名としては知っていた。モカという言葉は我が鼓膜には全くなじみがなかった。とっさには理解できなかった。ご主人を見ていると、豆状のものを指さす。先客のコーヒーを挽いていた。そこで初めて、コーヒーの種類らしいことが了解できた。こりゃ赤面の至りである。歳はすでに30をかなり越えて、1956年から東京入になっているのに、コーヒーにいろいろな種類があるわいと知ったのがこのとき初めて。田舎人であることから抜け出していなかったことを自覚させられた。今思うと、今でいうブレンドー本のみがコーヒーと信じきっていたための赤面である。新しい喫茶文化はやはり東京から来るらしい。客の好みに応じて、各種のコーヒーを給仕するというコーヒー内の多様化が始まっていたことを知らなかったのだ。

この変化を第2段の革命といっておこう。

第3回目の飲料革命は高度経済成長が終息し(1973年の第1次オイルショック)、鉄鋼生産にかげりが出はじめることで始まった。日本の鉄の生産量をみると、1960年が年産 2,210万t、1970年には 9,330万tへと驚異的な飛躍をみた。76年が最高で 10,740万t。以後はそれ以下で、今日では 9,000万t前後に低迷している。鉄鋼業は完全に衰退産業になった。生産能力が過剰になり、新しい鉄鋼の需要が必死になって探られる時代に入った。その中で出て来たのが飲料缶である。これが飲物の容器革命である。この容器革命が飲料革命を起こしたのだ。炭酸飲料、ジュース、コーヒーから緑茶に至るまで、あらゆる飲料を飲料缶に入れて自動販売機で売るという新しい飲物文化が生まれて来た。これには先駆けがある。それは缶ビールである。缶ビールが初めて登場したのが新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された1964年である。ビール缶はアルミであるが、あのスタイルに圧延製缶する技術はできていた。これが鉄に応用された。鉄の方がはるかに安い。この容器がでることにより、完全なる最終消品として各種飲料を末端の消費者の口に届けることができるようになった。ここで消費者の口に、しかも直接路上でも供給できる技術をあみ出したことがすごい。人件費が高くなっているので、コーヒーを挽いたり、粉コーヒーを他人の労働で(すなわちサービス労働で)供給するというやり方を自動販売機と缶で消滅させ、いきなり消費者の口に供給するというシステムを作りあげた。これがすべての飲料に応用できるようになった。

これが飲料の多様化である。そして第3回目の飲料革命である。

第4回目の飲料革命は人間の生理現象から出始めた。食品産業の方々に伺うと、惣菜でも飲物でも新しい商品として定着させるには1つの法則があるようだ。それは既存のものより若干味を濃くする。これで消費者の舌に印象を強くする。しかし、これを長期に引き延ばしてはいけない。人間は本来動物であるから、生理的に味の濃度の許容限度がある。濃い味は長期的には生理的に拒否される。消費者にはわからない程度に濃い味を薄めていく。このタイミングが商品として定着させるか否かを決める。これは大変微妙なもので、商品開発の最も難しい点である。

味の中で比較的濃いものに使われるのが甘さである。小生が小学生のころは砂糖は一種の薬であった。1950年代、砂糖が出回るようになった直後、牛乳に砂糖を入れたり、トマトに砂糖をつけて食べるという現象が見られた。中国の都市でこの現象を見たのが1980年代の前半である。しかし、日本では現在の30歳以下の人々は、大福やキンツバなど甘い和菓子はあまり食べない。アンミツ市場が減少したのもこの現象である。要するに味の淡白化傾向が主流になっている。

飲物についても同様で、コーヒーは砂糖を入れるという1960、70年代の飲み方は次第に衰退し、コーヒーにつけられた砂糖袋も15gから3gのものへと変化した。そしてブラックが主流になりつつある。缶ジュースなどから甘さが抜けていくのは1980年代以後である。そして自然の味に近づけるという努力が積み重ねられてきている。ウーロン茶というあのゲンノショウコのような茶が何故売れるか、天然水がもてはやされるのは何故かは、この生理的拒否反応によってかなり説明がつく。

つまり、第4回の飲物革命は飲物の味を淡白化するという自然回帰への革命である。これは生理的な変化というより、飲物の質的変化とみてとよいと思う。内味の新しい多様化であろう。

3.量的にみた飲物の変化

以上で述べてきたことを、日本全体で量的に観察することにする。図1は生活水準の向上により、伝統飲料の主役がコーヒーによって駆逐されていった様相を示す。

緑茶の消費量は都市より農村の方が高く出ている。この中には自給部分が入っている。1963年の自給部分の比率は43.2%、4年後の1967年には34.2%に低下している。1983年では、32.9%、1988年には32%に低下している。自給部分は少しずつ落ちついてる。大方70%が購入部分、80年代では30%が自給部分とみてよい。

図1が教えることは、緑茶消費は30年間ほとんど増加しないのに、コーヒーはうなぎ登りに増加したという点である。伝統飲料の王であった緑茶は1970年からコーヒーにその首座を奪われていったことが知られる。

今度は他の飲物を入れて、各家計調査から出た飲料購入額を追ってみよう。図2で示す。1971年を100とした指数で示した。金額で最も伸びたのがジュース。これこそ、第3回目の容器革命で引き起こされた飲料革命を示す。1990年には71年の実に9.5倍の売りLげとなっている。80年代末からの伸びは、新たに野菜ジュースが参入したためと思われる。野菜ジュースはウーロン茶や天然水と同様に、自然への回帰、味の稀薄化の一環と捉えられよう。

全飲料の購入費が71年に比し、1993年は2.43倍であるのに、コーヒー、ココアは堅調である。これに対し、乳酸飲料と緑茶、炭酸飲料は低迷している。伝統飲料の緑茶は金額では2倍以上になっているが、数量では3分の2以下に低下している。炭酸飲料も緑茶についで戦後普及したが、消費拡大が見込まれる商品ではなくなった。

お茶の中で、ウーロン茶は紅茶の中に分類されており、これだけをとり出すことはできない。もし、これだけの統計が得られると、80年代のうなぎ登りの拡大が描かれよう。

振り返ってみると、この50年間に発生した4回の飲料革命は、明治以後の日本の外貨獲得に重要な役割を果たしてきた茶産業を衰退させてきた。明治の中期まで、日本の主要な輸出品は、茶、米、蚕卵、雑貨であった。緑茶の世界市場への供給者は中国が1位であったがそれを追い越した時期もある。この50年間で茶栽培農家、製茶工場など縮小に縮小を重ねている。緑茶産業が栄光を担っていただけに、その寂輿を禁じえない。

図1 緑茶とコーヒーの1人当たりの消費量 図2 1970年代以降の世帯の各種飲料購入金額の推移

図1 緑茶とコーヒーの1人当たりの消費量 [出所]:『コーヒー関係統計』 全日本コーヒー協会 1994年、19ページ。『ポケット農林水産統計』1969年版275ページ、1974年版276ページ、1987年版289ページ、1990年版291ページ、1995年版305ページ及び世帯人口数は人口問題研究会編集『人口の動向 日本と世界』1985年版63ページと『日本国勢図会』1993年版64ページより算出。[注]1.コーヒー消費量は生豆換算の輸入量を消費量とみなす。2.緑茶の1人当り消費量は世帯人口数が都市(5万人以上)と農村につき不明であるので、全国平均の世帯人口数を用いて算出した。したがって都市の消費量は過小に、農村は過大に出ている。

図2 1970年代以降の世帯の各種飲料購入金額の推移(1971=100) [出所]:『コーヒー関係飲料』 全日本コーヒー協会 1994年、72~73ページ。[注]緑茶(量)の線のみ数量、他は金額。

初出誌情報

小島麗逸1995「飲料:日本(1) すたれるお茶、いつでもどこでも何でも」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第5号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.92-98.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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