飲料:パーキスターン

片岡弘次

1.紅茶

カラーチーのウルドゥー・バーザールにある行きつけの本屋に行くと、まず「タンダー、ピーエンゲー、ヤ、チャーエ」と挨拶がわりに言われる。それは「コーラにしますか、それとも紅茶にしますか」の意味だ。遠慮していると、ものの5分もしないうちに、店員がどこからか甘い紅茶を持ってきてくれ、それから店主がこれはいい本だ、あれは出たばかりの本だと言って棚から下ろして見せてくれる。

本屋に限らず知り合いの所に行くと必ず、「紅茶でも」と言われる。しゃれた家だと紅茶をティー・ポットに入れ、ミルクと砂糖を別々の容器に入れて持ってくるが、普通は手製のミルク入りの紅茶が出てくる。時々、お皿の上にビスケットが花びらのように並べられて出てくることもある。そして砂糖はいくつにしますかと聞かれる。2杯という意味で「ドゥー」と言うと、スプーン2杯入れてくれるが、最近ではときどき、聞いた本人が砂糖なしで飲んでいることもある。

学生のときカラーチー大学の寮にいた。部屋に来る友達に日本茶を出すと、一口飲んだ後、「おい砂糖はあるか」と言ってみんな砂糖を入れて飲んだ。日本のお茶と向こうの紅茶とは大分違うが、20年後の今、パーキスターンの人も甘さを控えるようになったのか、日本茶を砂糖なしで飲み、自分の家で入れる紅茶も砂糖なしで飲む人が少なくない。

だが長距離列車の止まる駅の売店で売っている紅茶、人込みの町のど真ん中で冷房装置も何もなく、道に面している所がすべて入口であるような店で売っている紅茶は、いかにもパーキスターンの紅茶という感じがする。それはミルクも紅茶の葉も砂糖もすべて一緒に入れて煮出しているからだ。高級ホテルになればなるほど、ミルクも紅茶も砂糖も別々の容器に入れられて出てくるので、パーキスターンの味がしなくなる。

5年前、カラーチー大学のゲスト・ハウスにしばらく泊まっていたときのことだ。ゲスト・ハウスには夜も寝ずの番をしなければならないチョーキーダール(門番)がいて、毎日2人が昼夜交代で門番をしていた。市内の衣料品店に勤めている人が月2500ルピーと言っていたとき、2人の給料は1000ルピーであった。そのうちの1人はカシミール出身の単身赴任者で市内に住んでいたが、口癖のように給料が安い安いと言っていた。もう1人は子供が10人いたが、大学構内の官舎に住んでいたせいか給料のことはあまり口にしなかった。

2人は勤務交代のとき、よく入り口の木の下で紅茶を沸かして飲んでいた。側を通るといつも飲んでいけ飲んでいけと言う。3回に1度ぐらいご馳走になったが、紅茶を鍋から注いでくれるときはいつも誇らしげだった。給料は安いが2人には俺達は特製の紅茶を飲んでいるという自負があったからだ。

2人は贅沢にも水を使わないで、紅茶の葉とミルクと砂糖だけの紅茶を飲んでいた。彼らのミルクはそんなに新しくはなかったが、搾りたての水牛の乳と紅茶の葉で作る農村で出されるものと同じであった。

2.紅茶をめぐる話題

パーキスターンでは紅茶の葉は生産されておらず、スリランカやケニヤからの輸入に頼っている。だが人々はとにかくよく飲み、パーキスターンでは紅茶なしの生活は考えられない。そこでそれぞれの家で入れられる紅茶にも微妙な味の違いがあり、紅茶をめぐる話題も多い。

ある日、わが家でパーキスターンの客人に、パーキスターン式に煮出して作った紅茶を出したら、「スィーダー・ジャンナット」と言ってくれた。それは「まっすぐ天国へ」という意味で、紅茶をうまく入れて出したときの誉め言葉らしい。その人の出身地はラーホールから汽車で3時間ぐらいで行けるラボワという所であった。カラーチー大学のアキール先生は、紅茶を出すことは相手と愛を分かち合うことだと言った。紅茶(チャーエ)のチャーの部分にヒンディー語で愛の意味があると言う。アキール先生はもともとインドのハイデラーバードから避難民としてカラーチーに来た人である。

ウルドゥー語の名詞には男性・女性の区別があるが、その性を取り違えると文全体がおかしくなる。パーキスターン人でもその扱いをときどき間違える。いつも使っていながら、急に紅茶の性が分からなくなり聞いてみると、女性が入れたら女性名詞、男性が入れたら男性名詞にすればいいと、笑って教えてくれた人がいた。

3.紅茶を飲むときに

パーキスターンで紅茶を飲むとき、いまだに分からないことがある。少し高級なレストランで紅茶を注文すると、紅茶の入ったポット、ミルクの入った容器、砂糖の入った容器とそれぞれ別々になって出てくる。そんなとき、一緒に行ったパーキスターン人の多くは紅茶をカップに注ぐ前に、どういう訳かひとさじ、砂糖をポットに入れてかきまわす。その後で紅茶をカップに順々に注ぐ。そして好みの分の砂糖とミルクを入れて飲む。そのようにして入れられた紅茶を何度も飲んだが、その訳をいまだに聞いていない。

パーキスターンのレストランには女性の姿がない。ウエートレスもいない。

カラーチーのど真ん中にあるエンプレスマーケットの時計台の前の一番にぎやかな曲がり角の所にあるレストランは、いつも混んでいるにもかかわらず、女性の姿がなくなんとなく殺風景である。たまに赤や黄色の派手な女性客がいることがあるが、それはアメリカやヨーロッパの方から来たヒッピーである。華やかな衣装を身につけたパーキスターンの女性は1人もおらず、ときどき黒いチャーダルで身を包んだ人が脇の階段を隠れるようにして登っていく。2階に家族席があって女性はそこでだけ、食事ができるからである。だが初めてパーキスターンに来た外国人にそんなこと分かる筈がない。

とにかく、騒々しい店の中に次から次へと入ってくる男達の注一文を聞いては、ウエイターは調理場の方に向かって叫ぶ。そしてカウンターに現れる料理をいくつも腕に乗せて、客席の間を縫うようにして運ぶ。そしてさあ食べろ、さあ飲めという風に乱暴に置いていく。客の方も馴れたもので、少しぐらいこぼれても気にしない。受け皿にこぼれた紅茶もすすって飲んでしまう。私もあまり気にしない質で、床に落ちた物でもそのまま拾って食べてしまう。だが食べる前にわざわざ落として、それを拾って食べるようなことはしない。だがパーキスターンではときどき、紅茶を飲むとき、わざわざそうしている様に見える人がいる。インドでも同じである。

もう14、15年も前のことになるが、賢島で合宿をしたとき、古賀正則先生がロンドンの土産話を嬉しそうにしてくれた。それはイギリス人の紅茶の飲み方についてであった。古賀先生もインド人やパーキスターン人の紅茶の飲み方が以前から気になっていたらしく、ロンドンでイギリス人が紅茶を受け皿にこぼして飲んでいるのを見たと言う。それは古賀先生には大発見であったらしく、イギリス人が受け皿に紅茶をこぼして飲む様子を身振り手振りを交えて話してくれた。ロンドン大学に留学していた田辺先生にそのことを話すと、先生もそれを見たと言う。私も大分前になるが学生のころ、池袋の地下街の本屋で立ち読みをしていたとき、誰の小説だったか忘れたが、そのような飲み方が描写されているのを読んだ。

紅茶はもともとインドやパーキスターンの物ではなかった。19世紀の初め、東インド会社のイギリス人が紅茶をインドで栽培し始めた。それを広めるためにただでインドの人々に飲ませたことがあると言われている。またイギリスはインドで紅茶を栽培する前に、中国からウーロン茶を輸入していた時期があり、当時それは大変高価で貴重品であった。

とすれば誇り高いイギリス人がインドで人々が受け皿にこぼした紅茶を飲むのを見て、真似たのではなく、茶を高価なものとして考えていたイギリス人がしている光景を見てインド人が真似たのではないだろうか。

4.町で売られるジュース

パーキスターンではさまざまな果実ができる。バナナ、マンゴー、柑橘類などの生産は多く、かなりの量が輸出される。

生産される果物は土壌や気候により異なる。パンジャーブ州やスィンド州ではバナナ、マンゴー、柑橘類が多く、バローチスターン州や北西辺境州ではりんご、ぶどう、あんず、桃、ざくろが取れる。

町にはそれらの果実で作るジュース屋が多い。みかん、バナナ、りんご、マンゴー、ざくろ、それににんじん、砂糖きびで出来たジュースが季節によって人々の喉を潤す。それは果汁10%、果汁30%の表示がある缶入りの日本のものと違い、すべて100%本物である。

15年ぐらい前までは、カラーチーのサダルとバンダルロードの間に路面電車が走っていたが、始発所の前には学生時代によく通ったジュース屋があった。そこでジュースを飲み、電車に乗って本屋のあるウルドゥー・バーザールの方へ行った。

りんごやざくろのジュースは高かったので、飲むのはいつもバナナのだった。店主はまずタイヤのチューブに氷を入れて叩いて砕き、その氷とバナナと牛乳をジューサーにかける。1分もしないうちに出来あがり、コップになみなみと注いでくれる。みかんやりんごは押し潰し、果汁だけを容器に集め、後はチューブで砕いた氷を入れて出来あがりである。その店も今は息子に代替わりとなったが、店の構えは20年前と同じで、駅の売店のようで、道に立って飲まなければならない。

ざくろやりんごのジュースは相変わらず高く、ざくろは1杯20ルピー、りんごは1杯13ルピー、バナナは1杯5ルピーである。パーキスターンの人がよく飲むのは砂糖きびのジュースである。これは安く、町はずれの道端でも大きな鉄の動輪のついた圧搾機を置いて搾って売っている。そのサダルの店にもカウンターの隅に圧搾機があり、客がいなくなると店の前に積んだ2mほどの砂糖きびを搾り始める。緑がかったカーキ色の汁を大きな氷の入った容器にためて、客が来るまで冷しておく。

パーキスターンの人はそれをパーキスターン式ビールと言うが、砂糖の原料となるだけあって実に甘い。1杯飲めば簡単に疲れなどふっとぶ甘さで、肝臓にもいいと言われている。

もうひとつ町で売っている代表的な飲物はラッスィーである。カラーチーの6、7月は毎日40度を越す。部屋中の金属製のものまでが我々日本人には想像できないほど熱くなってしまう暑さだが、ラッスィーを飲むとその暑さの中でも体全体が冷える。

初めてラッスィーを飲んだのは今から25年ぐらい前になる。授業が終わるとよくバスに乗ってサダルに行き、路地の隅々を犬のように歩き回った。当時カラーチーで一番にぎやかな場所は、エンプレス・マーケットからさほど遠くないボーリーバーザールであった。細い路地が幾つもあり、呉服屋、パン屋、雑貨屋と間口2間ぐらいの店が、ごたごたと幾軒も並んでいた。そんな中で間口が他よりも広く、一段と高くなっている店があった。店の中の右側の壁にはパ一キスターンでは珍しくレスラーが力こぶを作っている絵が掛けてあった。店の中にはテーブルや椅子が見えたが、いつも店の前に立っている人の方が多かった。そして人々の目は、店の真ん中に座り、壺を両足で押さえ、すりこぎ棒で壷の中をごりごりしている人の方に向けられていた。しばらくごりごりすると、今度はその中から白いジュースのような物をガラスのコップに注ぎ、前に立って手を差し出している人に順々に渡していた。一度に10杯分ぐらい出来たが、飲み終わった人のコップに白いかすがついており、何か気味悪そうに見えた。

いつもその光景を見ながらその店の前を通り過ぎていたが、たまたま友達と一緒に飲むことになってしまった。息を殺して一息で飲むと、多少ザラザラする感じがしたが、冷たく甘酸っぱかった。そしてそれがラッスィーであることが分かり、それ以来、サダルに行くと、ときどき飲むようになった。

それは牛乳を醗酵させて作ったダヒーを土製の底の深い壼に入れ、細かく砕いた氷と多少の水、そして牛乳を加えすりこぎ棒でかき混ぜたものである。ラッスィーには砂糖の入った甘いものと塩の入った甘くないものとがある。最近は足で壺を押さえて、すりこぎ棒でごろごろする代わりに、ミキサーであっと言う間に作ってしまう。そしてあのザラザラする感じもなくなり、飲んだ後、コップにつくかすもなくなってしまった。ラッスィーの店特有のびしょびしょ濡れた感じはなくなり、どこのラッスィー屋もきれいになってしまった。そしてサダルの路地裏にあったあのラッスィー屋は今はなくなってしまった。

5.酒

イスラーム教の聖典『クルアーン』5章90節91節には、「酒は人間の間に敵意と憎悪を起こさせ、礼拝を忘れさせる」ものとして禁酒の勧めがある。ほとんどの人がイスラーム教徒であるパーキスターンではこの教えに従ってか、酒を飲まない人が多い。また酒屋も見当たらない。しかし酒に対する関心は持っており、その証拠にパーキスターンに行くと、「日本では女性も酒を飲むのか」とよく聞かれる。

今日パーキスターンでは酒は簡単に手に入らない。私の知る限り、ここ25年の間、ズルヒカル・アリー・ブットーが首相であった1970年代後半まで、町で酒を買うことが出来た。パーキスターンがイスラーム教徒の国であるとは言え、当時、町に酒屋があり、バーもあった。バーに行くだけの勇気のない人は、中華料理店に行き、「スペシャル・ティー」と注文すればよかった。ジャスミン・ティー用のポットに栓が抜かれたビールが入って来るからである。

パーキスターンでの禁酒は、政権担当者がイスラーム教をどの程度、政権に反映させるかによって変わってきたと言えよう。ブットーの後、ズィヤー・ウル・ハックが政権を握ると、イスラームが政治の前面に押し出され、以後今日に至るまで、人々の酒との関係はますます薄くなってしまった。

初出誌情報

片岡弘次1995「飲料:パーキスターン」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第5号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.129-133.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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