葬儀:イラン

メフディ・ターレブ

イスラーム以前、墓地(qabrestan,gurestan)は現在のような形でイランに存在していなかった。しかし、イラン各地でおこなわれた考古学的発掘調査は、イランの東部にある“シャフレ・スーフテ”(「灼熱の町」)とザーヘダーン近郊で紀元前、約5000年前に墓地が存在していたことを報告している。

都市の周辺や村の中の大部分の土地は昔から死者の埋葬に割り当てられていた。それゆえ、墓は今日、村の周辺や都市の内部に存在している。かつての墓は都市の拡大によって、都市の内部に位置するようになった。

イスラームの教えにより墓は南に向けて造られている。どの墓の上にも石が置かれている。石の上には死者の名前、家族の名前、父親の名前、生年月日、亡くなった日付が記されている。男性の墓石の上には数珠が、女性の墓石の上には櫛が彫られている。

墓石の上には人々がその上を通るためコーランの一節とイマームたちの名前は書かれていない。

シーア派・イスラーム教徒は自分の墓を経済的状況や、社会的立場に応じて作っている。墓石の種類、サイズ、値段により、おおよそのかれらの経済的、社会的差異を推し量ることができる。

尊敬の対象となる人々や聖職者たちの墓はより立派で、通常墓の上に部屋が建てられている。遺体は自分の町や村の墓地に埋葬されるのが普通であるが、シーア派教徒は遺体をイマームたちの墓やイマームザーデ(聖者廟)の近くに埋葬することを望んでいる。イラン人は遺体をマシュハド(12イマーム派第8代イマーム、イマーム・レザーを祀った廟がある)や、コム(イマーム・レザーの妹、ファーティマの廟がある)、カルバラー(イラク中央部の宗教都市で、シーア派の聖地。シーア派第3代イマーム、フサインが殉教した地)に埋葬することに関心を持っている。

これらの都市に遺体を埋葬することは輸送費と墓の購入費の点から庶民にとっては大変な費用がかかることなのである。最近これらの聖地都市では遺体を下の層から上へ埋葬し、墓を何層かにして作っている。

テヘランのべヘシュテ・ザフラー墓地(大きな墓地と殉教者墓地で有名)は、土地が少ないため墓を2層に利用している。イスラーム革命後、殉教者の墓地は他の墓地や聖地と区別するために別の場所に作られている。殉教者墓地には「殉教者の楽園」、「殉教者の花園」などの名前がつけられている。墓の上には殉教者の肖像画が置かれ、まわりは鉄製の枠で囲まれている。

イランでは次のような習慣がある。死体を埋葬した後日、早朝、日の出前に祖父と遺族たちが死者の霊を弔うために墓参りに行く。

イランの法事は各地域で違いがある。家族と友人たちは通常3日目、8日目、または最初の金曜日に墓参りに行く。さらに、第3金曜日に加え第5、第8金曜日、または40日目の夜にも墓参りをする。通常、死者に子供が1人いれば39日目、2人ならば38日目というように、40から死者の子供の数を引いた日におこなわれる。1周忌の夜、3日目、8日目、40日目の夜には死者を弔う儀式がおこなわれる。墓地が近くにある村や小さな町においては故人の家族はお茶を飲んだ後、イスラーム聖職者と一緒に墓参りに行くのが習わしとなっている。テヘランなどの大都市では、法要は普通モスクか墓のそばでおこなわれ、その後参列者の会食がある。最近は都市部においては参列者をレストランやホテルに招待したり、料理をレストランから運ぶようになってきた。

イスラームの教えにより、人々は金曜日の夜、死者の霊を弔うために墓地へ行くのが習慣となっている。年末の金曜日の夜も人々は新しい服を着て墓地へ行く。

今日、都市部では市が墓地を管理している。そして墓は故人の家族からの徴収金で運営されている。墓地の中にはテヘランのべヘシュテ・ザフラーのように特別な墓があるところもある。それはひとつの部屋になっており、その中には親族のいくつもの墓がある。

イスラームやイランの慣習によると、墓は1イスラーム世紀(つまり33年間)を過ぎれば遺族がこの墓を再び利用することができる。今日、都市の中の墓地に死体を埋葬することは制限されているため、郊外に埋葬するようになってきた。

訳:藤井美穂(93年春国際関係学科卒業)

荒野の墓地(1986年8月イラン東部)

初出誌情報

メフディ・ターレブ 1993「葬儀:9.イラン」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第3号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.175-177.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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