葬儀:マレーシア・インドネシア―サンダカン(サバ州)とチコネン村(西ジャワ州)―

葬儀:マレーシア・インドネシア
―サンダカン(サバ州)とチコネン村(西ジャワ州)―

福家洋介

〔サンダカンの葬列〕

1992年8月、東マレーシアのサバ州サンダカンにある華人墓地に隣接した日本人墓地を訪ねていた。その途中で、《マレー人》の葬列に出会った。強い日差しのなかを重そうな棺を先頭に現地の人々がぞろぞろ後から埋葬場所のある丘を上っていた。彼らは《マレー人》だったので、戦前の日本人墓地の場所を聞いてみた。彼らは「へえー、そんなのがあるの。知らなかったわ」と、びっくりしていた。私の方は、華人の棺を見送っていたのがほとんど《マレー人》だったので、不思議な感じがした。そして派手な葬列ではなかったが、彼らに見送られて埋葬された華人はどんな人だったのかに興味を持ったのである。

その夜、雨上がりのナイト・マーケットを歩いていて、昼間、日本人墓地の場所を聞いた《マレー人》に再会して本当にびっくりした。「日本人墓地はあったかい?」と、屋台のおばさんから声をかけられたのである。屋台をのぞき込むと、昼間、墓地で会ったおばさんがいた。おばさんの屋台はトゥラン・ブランと呼ばれるピーナツ入りパンケーキを焼いて売っていた。おばさんの屋台の横ではやはり墓地で会った別のおばさんが手羽先焼き、おじさんは魚の鉄板焼屋の店を出していた。おばさんたちと話をしているうちに、彼らがインドネシアのスラウェシ島ピンラン県(南スラウェシ州)出身のブギス人だとわかった。サバ州に渡ってきてすでに20年になるという。

サンダカンに来る前に立ち寄ったサバ州都コタキナバルでも、市場の屋台はほとんど《インドネシア人》とくにブギス人たちが活躍していた。埋葬された華人は、同じ市場で屋台を出していたおばあちゃんだったそうだ。このおばあちゃんが何屋さんだったかを聞き忘れたが、彼女はおばさんたちと一緒に毎日市場に屋台を並べて助け合って生きてきたのだろう。

サバ州ではその周辺地域から国境を越えてさまざまな人々が「自由に」流入している。サバ州で会った《インドネシア人》にはブギス人、ブトン人(南東スラウェシ州のブトン島、鍛冶屋列島出身者)、ジャワ人、《フィリピン人》には“海の漂海民”と言われるバジャウ人、フィリピンのミンダナオ島からサバ州に連なるスルー諸島の島民たちがいた。さらにサバ州の内陸部には“山の民”がいて、これに華人、インド系の人々が加わる。サバ州はそこに住まう人々の国籍や入国の手続きにこだわる役人からみればなんともやっかいな問題を抱えた州だが、屋台のおばさんたちの間にはそのような問題はないように思えた。彼らには「屋台のおばあちゃん」で通じ合うものがあるのだろう。私にはサンダカンの日本人墓地を訪れたことよりも、この葬列に会えたことの方が意義深いことだった。

〔チコネン村の葬儀〕

サンダカンの「屋台のおばあちゃん」は交通事故で亡くなったという。偶然にも、ちょうど同じ時期に、インドネシアの私の友人の奥さんと1歳の子供がやはり交通事故で亡くなった。友人が二人をスクーターの後部座席に乗せて走っている途中で、トラックと接触事故を起こしたものである。奥さんは即死、子供は病院で死亡したという。幸いにも、友人は軽傷で事なきを得た。事故はジャワ島の西ジャワ州スメダン県で起きた。

サンダカンの交通事故の統計は知らないが、インドネシアの交通事故については若干の統計がある。1988年のデータによると、インドネシアには約800万台のクルマ(オートバイを含む)があり、交通事故による死亡者数は約1万人(実態はもっと多いと予想される)であった。死亡者数の6割以上がジャワ島に集中している(クルマも集中している)。死亡者数は日本のそれとほぼ同じだが、クルマの数は日本の方が約7倍(オートバイを含まず)も多い。インドネシアではクルマは日本以上に“凶器”である。この“凶器”に共通する点がある。それはどちらもほとんどが日本製であることだ。このことはサンダカンでも同じである。

友人は葬儀を奥さんの生まれ故郷、チコネン村(スメダン県)で行った。村の人口は約2,600人、800世帯からなっている。ほとんどの世帯が農業で生計を立てている。スメダン県ではごく普通の村のひとつである。友人は葬儀の模様を彼の印象を含めて書き送ってくれた。

遺体は水できれいに清められた後、白い布(Kafan)で包まれる。遺体を水洗いし、遺体の中の残存物を捨てる作業は家族のメンバー、あるいは村の宗教役人(Lebai)が行う。水洗いを担当するヒト(Tukang Ngaweredonan)は、遺体が男性の場合は男性が、遺体が女性の場合は女性でなければならない。遺体の下にはバナナの幹が枕替わりに敷かれる。水洗いが終わると、遺体は白い布で包まれる。その際、白檀の木片、香油が添えられる。そして遺体は棺(Kurung Batang)のなかに安置される。棺といっても、上は布で覆われ、下は花を敷いた簡単なものである。そして遺体を前にして祈りが捧げられる。死者への祈りはLebaiの仕事のひとつである。

棺は4人で担ぎ上げられ、墓地に向かう。墓地ではすでに穴が掘られている。村には墓守り(Juru Kunci)がいる。彼が墓地を管理している。遺体は頭を北に、顔が西(メッカの方角)を向くように横にして埋められる。埋葬に必要な墓地の土地は基本的に村びとであれば自由に利用できる。墓堀りに対する費用が必要だが、この費用が払えなければ必ずしも払う必要はない。もし払うとすると、ひとりの墓堀りにO.5リットルの米と500ルピア(約30円)である。0.5リットルの米はルピアに換算すると約250ルピアだから、合計しても750ルピア(約45円)である。

村でもし金持ちが死ぬと、たくさんの村人がお悔やみを言いに訪れる。彼らは短時間(約3分間)出席しただけで1,000ルピア(約60円)を得ることができるという。墓掘りの賃金よりも多い。弔問客が反対に香典を死者から受け取るのにはびっくりした。富の再分配のひとつなのだろうか。しかし反対にもし貧しい人が死ぬと、弔問に訪れる村びとは少なくなる。金持ちの葬儀のように得るものがないことがわかっているから。友人はこの様を見て、村びとは「質が悪い」と書いているが、私には村びとの貧しさがその背後にはあると思える。だから、村びとは少しでも「質の悪さ」を解消しようと積極的に遺族の手伝いをする。もちろん、彼らは手伝い賃を目当てにしている。

しかし近所の住民たちは香典として米(約2リットル)を持ってきたり、現金1,000ルピアを包んでくる。やはり、こういう事態に頼りになるのは生前に死者と交流のあった近所の人びとである。何かを持ってきた人はその名が記録され、翌日、食べ物が香典返しに彼らに配られる。友人は他村の出身だからチコネン村の村びとに対する見方が少し厳しいかもしれない。だが、村びとの相互扶助(Gotong Royong)というと美し過ぎる気もする。

〔「開発・近代化」と平均寿命〕

インドネシア人の平均寿命は1985年で男性が59.1歳、女性が62.7歳である。1980年と比べると、男性で8.2歳、女性で8.7歳長くなっている。友人の奥さんは35年も寿命を残して亡くなったことになる。ちなみに日本人の平均寿命は1985年で男性が75.2歳、女性が80.9歳だったから、男性で約16年、女性で約18年ほど日本人の平均寿命がインドネシア人より長い計算になる。

インドネシア全27州(及び特別区)のうちこの平均寿命を上回っているのは9州でしかない。スマトラではアチェ特別州とブンクル州、南スマトラ州、ジャワではジャカルタ特別区と中ジャワ州、ジョクジャカルタ区、そしてバリ州、東カリマンタン州、北スラウェシ州の9州である。このうちジョクジャカルタ区は平均寿命が最も高く男性65.8歳、女性69.8歳で、平均寿命が最も低い西ヌサトゥンガラ州の男性49.7歳、女性52.7歳と比べると男性で約16年、女性で約17年の開きがある。ここで意外だったのは西ジャワ州の平均寿命(男性55.7歳、女性59.2歳)がインドネシア人の平均を下回っていることである。ジョクジャカルタ区のそれと比べると男女とも約10年の差がある。データの問題でなければ、この理由はどこからきているのだろう。

西ジャワ州はインドネシアのなかでも「開発・近代化」が最も進んでいる地域のひとつである。石油・天然ガスおよびその製品を除く州別総生産高は東ジャワ州に次いで2位(1989年)であった。しかし、同年の西ジャワ州のひとり当たり総生産高はインドネシアの平均(約50万ルピア、4万2000円)以下でしかなかった。村びとのそれはさらに低い。「開発・近代化」の成果は西ジャワの村びとまでは届いていないといえる。チコネン村の葬儀の様子はそれを示している。

サンダンカンの華人墓地

初出誌情報

福家洋介 1993「葬儀:6.マレーシア・インドネシア
―サンダカン(サバ州)とチコネン村(西ジャワ州)―」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第3号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.164-167.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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