葬儀:パーキスターン

片岡弘次

〔はじめに〕

カラーチーにいると時々、結婚式の招待状をもらう。夜の8時頃、赤や黄や緑のテントで出来たイルミネーションの点滅する式場に着き、1時間ぐらい待つと御馳走がでてくる。それを待っていた200~300人の招待客は禿げ鷹のように御馳走に群がり、あっと言う問に食べ尽くして帰ってしまう。私も負けずに食べ、花嫁や花婿の顔も見ず帰ってきた。そして時々、式場で会った知り合いの人に誘われて、別の結婚式へのはしごも何度かした。

しかしパーキスターンと関係を持ち始めてからもう20年もたつが、今だ一度も葬式に参列したことがない。そこで葬儀がどう行われるか分からないが、葬儀の断片は見ている。3年前、海外研究員として7ヶ月パーキスターンに居る機会があったが、その間でもそれを見たり聞いたりする機会はあった。

葬列を見たのは、ペシャーワルではキッサカハーニー・バーザールの細い坂道だった。ちょうど坂道の中間ぐらいの店で昼飯を食べていると、外の方に異様な感じがした。見ると、戸板を何人かが担ぎ、その後を15、6人の人が下りて来るところだった。2月の薄日の中を埃っぽい道の色と同じような色の衣服を着た男達だけの見送りは何ともわびしかった。

ラーホールでは一番大きな通り、マールロードを力車で行く時だった。急に力車が止まったので見ると、前に何台も力車やタクシーが止まり、その前を葬列が行くところだった。少し先ではっきりしなかったが女性の姿はなかった。

これも葬儀に関係する話となろう。カラーチー大学ではゲスト・ハウスに住むことになった。久し振りに会ったチョーキーダール(門番)のリヤーサット・サーハブがアジーズがほんの少し前に亡くなったと言う。アジーズを知っているだろうと聞く。アジーズはゲスト・ハウスの腕のいい料理人だった。だが何年か前、同志社大学の西口先生の気をもませた料理人でもあった。一日の調査が終わり夕方ゲスト・ハウスに着く頃は、アジーズは家に戻ってしまい、アジーズが作っておいてくれるダールとチャパティーの夕食は冷たくなっている。

我々はもっと早く宿泊代も飯代も払う客だと言っておけばよかったのだった。4日目からはうまいカレーを食べさせてもらうことが出来た。ダールしか作れない人かと思ったが、本当は腕のいい料理人だった。

朝と夜は構内にあるゲスト・ハウスの近くの掘っ立て小屋のレストランで食べることにした。パーキスターンでは掘っ立て小屋であろうと何 であろうと食事の出来る所はレストランと言う。

カラーチー大学に来てまだ1週間もしなかったある晩、夕飯をそのレストランでしていると3、4人の子供が来た。そしてアジーズを知っているだろう、アジーズはつい最近亡くなったがどうしてアジーズの家へ行かないのかと詰問する。そして仲間の一人を指してこの子はアジーズの子だと言う。利口そうな子だった。

日本では人が死んだらどうするのだと聞かれた。火葬にすると言うと、火で燃やすのかとまた聞かれた。

それから3、4日してのことだった。夕飯を食べていると、よく話す子がまた別の仲間を連れてやって来た。そしてこの前と同じことを聞く。日本では人が死んだらどうするのだと。火葬にする、とこの前と同じように答えると、また、火で燃やすのかと聞き、顔をしかめるのだった。

ウルドゥー学科の先生の中に見慣れない女の先生がいた。いつも頭に白い物を被り、口数が少なかった。パーキスターンで女性が頭にショールをかけているのは何も変わったことではないが、その先生のはいかにも布という感じのもので、普通とは違う雰囲気があった。その先生がいない時聞いてみると、旦那さんが少し前、亡くなったということだった。

カラーチーで鳥葬のことを聞いたのは今から20年ぐらい前のことである。初めてパーキスターンに行き、カラーチーの市内を車で案内してもらっていると、向こうに「沈黙の塔」があると、突然遠くの方を指さす。そこは市内ではあったが、上空を鳥が舞い市外の平原のようだった。拝火教徒は死ぬと、そこに運ばれ、我が身を烏や禿げ鷹に食ってもらうのだと言う。

パーキスターンはイスラーム教徒の国である。全人口の98%がイスラーム教徒であり、残りがキリスト教徒、ヒンドゥー教徒、拝火教徒などである。それで地域により多少の違いはあるが殆どイスラームの教えのもとでの葬儀と言っていい。

〔イスラーム教徒の葬儀〕

①死が確認されるまで

死が近づき息を引き取りかけると、誕生の時、新生児の耳にアザーンを聞かせるように年長者がアザーンの祈りを病人の耳に聴かせる。また安心立命のため病人にも反復させる。だが死に臨む人の気持ちを動揺させないように注意しなければならない。死が確認されたら両目を閉じさせ、口が開いた状態にならないように、下あごを閉じさせ固定する。口を開けたままでおくと家族に近いうちに不幸が起こると信じられている。また周囲の者は声をあげたり泣いたりして、悲しみを表わしてはいけないとされている。

②遺体の洗浄

遺体は頭から爪先まで水できれいに1回洗浄する。洗浄する人は男性なら父親、祖父、父方の親族の男性、母方親族の男性の順である。女性ならば母親、祖母および近い親族の女性の順、夫が妻の洗浄をしてもよい。

この他、死者が少年少女の時、親であれば男女の別なくその洗浄は許されている。また死者が婦人で、その場にいるのが男ばかりの時は身内以外の男が死者の体に直接手が触れないように手袋をしてする。この逆の場合は女が手袋をしてすればよいとされている。

洗浄された遺体は白い木綿の布地でつくられた屍衣で頭から足までおおう。その後、棺架に遺体を安置し、緑色のチャーダルを掛ける。遺体の周りにはバラなどの花が沢山置かれる。沈香の線香などがたかれる。

③弔問

マスジットを通して近所の人々に死を知らせる。弔問客は日本でのような香典は持ってくる必要がない。男性の弔問客は隣家の庭先などで、女性の弔問客は自宅の部屋などのように場所が異なる。弔問する場合の衣服は日本では黒であるが、とくに制限はない。だが女性は光沢のある服はさける。とくに絹物は禁じられている。

④マスジット(イスラーム寺院)での祈り

遺体はできるだけ早く埋葬することが良いとされており、死去したその日に埋葬される場合もある。翌日の場合は遺体の傍で夜をあかす。しかし日本にあるお通夜の習慣はなく、また戒名もない。

やがて出棺となる。しかしすぐ墓地へ向かうのでなく、最初にマスジットに行く。遺体は親戚、友人、隣人の男性によって担がれて近くのマスジットに行く。この時、女性は葬列に加わることは出来ない。『預言者正伝集』の中で「ウンム・アティーヤは伝えている――私達は葬列に加わることは禁止されておりました。しかしそれは私達にとって絶対的なものではありませんでした」とあり、女性の葬列参加は「嫌われた行為」である。それ故女性は遺体が埋葬のため外に運び出される時までしか、遺体を見ることは出来ない。

マスジットでナマーズ・ジャナーゼ(葬儀の祈り)がイマーム(導師)の指導のもとに行われる。普通の礼拝では額を床につけてする跣拝が行われるが、この時跣拝は行われない。一同起立のままで礼拝をする。その後墓地に向かう。自宅近くにマスジットがなく広場などがある場合にはカラーチーなどではそこで礼拝が行われている。

⑤埋葬

墓地では墓堀りが埋葬用の穴を掘り待っている。埋葬用の穴は普通長さ2メートル、幅60cmぐらい、深さは人の背の高さぐらいで、死者の顔が西側のメッカの方角に向くように南北に掘られている。遺体が穴の底におろされると、墓堀り人が頭を北側にして、顔をメッカの方角へ向けて体の右側面を下にして横たえる。しかし遺体に土がかからないように日干しレンガで顔や体の周りを覆う。会葬者がそれぞれ3度、土や砂を振りかけてから墓穴を土でうめる。その後、遺体が埋葬されている所が墓と分かる程度に土を盛り上げる。そしてレンガを4、5個置き、墓石とする。しかし墓の上を固めてしまうことは出来ない。花輪をささげ上から水をかける。

イスラームの土葬は土から生まれた者は、再び土に帰らねばならないとの理論からである。

墓にはイマームは同行せず、親族などの長老が埋葬の時、コーランの序章であるファーティハを読み、会葬者一同、死者の冥福を祈り葬儀は終わる。

⑥式の後

式が終わると、イマームには遺体にかけてあったチャーダルと謝礼が渡され、遺体を洗った者には、故人の遺品が渡される。また死者の生活の程度に応じて、托鉢僧や乞食にも施しをする。会葬者は自宅に帰ると、まず戸口で水を一口飲む。それがすむまでは家族と話すことが出来ない。しかし日本にあるような機れという考え方はない。

⑦祖霊祭

喪に服す期間は3日間である。実際には死後2日目か3日目に故人の親戚、友人、隣人などが集まり、イマームを招き、コーラン全章を読む供養が行われる。また10日目、20日目、40日目、1年目及び毎年の命日には同じく親戚や友人などでコーランを読むコカンカーニーが行われる。

1年後に故人は初めて、祖先の列の中に入れられる。

喪に服す期間は3日間とあるが、この3日間の間は葬式を出した家には炊事をさせず、親類や近所の人達が食事を作って持ちよることになっている。

また夫を亡くした妻は4ヶ月と10日間、喪に服すことが義務づけられている。この間、服装はヒンドゥー教徒のようにとくに着なければならない、また着てはいけない色や服はないが、やはり派手な服装はしない方がいい。

〔拝火教徒の葬儀〕

①洗浄

遺体は水で洗浄され、顔以外は白い綿布で包まれる。やがて死者の両手を胸の上に十文字にして置かれ、頭が北向きになることを避け、石の厚板の上に安置される。部屋には絶えず火が燃やされ、香り高いびゃくだんや乳香がたかれる。遺体が鳥葬の場となる沈黙の塔へ運ばれるまで、僧が火の前に座り、拝火教の聖典ゼンド・アヴェスタを唱える。聖歌の吟唱式が終わると、遺体が置かれている間、一昼夜5回と規定されている死者との接見が行われる。

②「沈黙の塔」で

白装束の死体運搬人が露出されていた顔を布で覆い、鉄の棺台で塔へ運ぶ。棺台は伝染病の予防のため木製のものは禁じられ、遺体の運搬も夜は禁じられている。葬儀にたずさわる者はすべてペアで、2人が単位となって動く。すなわち屍衣を着せる者、遺体を運搬する者、家で祈りを挙げる者などすべて2人つつになって行われる。

葬列は2人の僧に先導され、会葬者もみんな白装束で塔まで従う。

棺が塔に着くと、顔の上の覆いが取り払われ、会葬者は最後のお別れをする。そのうち塔の門が開けられ、運搬人が遺体を塔内に運び脱衣させ、鳥の目につきやすいようにして置く。

遺体は禿げ鷹や烏などにより1時間もかからないうちに白骨化される。鳥葬の根拠は、土や火及び水を神聖視する拝火教徒にとって、それらを腐肉で穢すことは忍び得ないので、土葬、火葬、水葬が禁じられていることにある。

会葬者は遺体が無事、塔内に置かれたことを運搬人から聞かされると、短い祈りを捧げ帰途につく。会葬者は家に入る前、露出していた体の部分を水で浄める。

③祖霊祭

死後三昼夜、霊魂はこの世に留まると信じられている。その間、保護天使の特別な保護下にあるとされ、死者の魂を慰めるため宗教的儀式が行われる。一方付近の火寺においても3日間聖典が読まれる。第3日には、僧と故人の友人や親戚で「悔みの祈り」がされる。

死後第3夜の後の朝、魂は他の世界へ行き、生前の行いにつき裁かれる。善行と非行とが較べられ、善行が少しでも多ければ天国へ、その逆なら地獄に落とされる。

故人のための儀式は四日祭、十日祭、三〇日祭および命日である。

④カラーチーで

カラーチーの日本文化センター勤務の安宅茂行氏からの連絡によると、現在カラーチーには約3000人の拝火教徒がいるとのことであった。鳥葬の場所はカラーチー市内に1ヶ所あり、それはディフェンス・ハウズィング・ソサイアテイーのフェイズ・ワンに隣接するマフムーダーバード地区にある。そこにセメントで出来た地上の井戸のような「沈黙の塔」がある。鳥葬後、人骨は自然と井戸の中に落ち込むようになっているが、井戸が人骨で埋まると、それを上からセメントで蓋をして、また新しい井戸が作られるという。

拝火教徒は非常に排他的で、異教徒は遠くからしかこの「沈黙の塔」を見ることが出来ず、拝火教徒の中で高僧をはじめとする数名しかこの塔の中に入ることが出来ないとのことである。

初出誌情報

片岡弘次 1993「葬儀:8.パーキスターン」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第3号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.171-175.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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