映画:総論(アジア映画100年)

松岡 環

当初「シネマトグラフ」と呼ばれた映画が、フランスのリュミエール兄弟によって製作され、パリで上映されたのは1895年12月のことである。その後、映画はすぐにアジア各国にも紹介され、数年後にはアジアにおける映画作りがスタートする。それから今日までの約100年の間、アジア映画は歴史のうねりに翻弄されつつも、ユニークな歩みを続けてきた。ここではアジア映画の100年の歩みを5つの時期に分けて、各国映画界の相互のつながりも視野に入れつつ記述してみたい。

1.黎明期~実写映画からサイレント映画へ

「シネマトグラフ」は、パリでの初上映の翌年に、早くもインドと中国に紹介された。インドでは1896年7月にボンベイ(現在の正式名称はムンバイー)のワトソンズ・ホテルでk映され、また中国では上海にあった徐園で、同年8月に他の出し物と並んで披露された。新しい出し物である映画は中国語で「西洋影戯」と呼ばれたが、「影戯」とは影絵芝居のことで、その後映画は「電光影戯」、縮めて「電影」と呼ばれて今日に至っている。

この中国の例からもわかるように、アジア各国は映画が誕生する以前から豊かな伝統芸能を持っており、映画もその延長線上にある出し物の1つとしてすぐに大衆に受け人れられた。1897年に映画が日本、フィリピン、タイにも伝わり、その後各地で映画撮影が始まると、伝統芸能は格好の題材としてスクリーンに登場する。日本初の記録映画は1898年の日本舞踊を写した『鶴亀』と『かっぽれ』であり、中国でも1905年に初めて撮られた映画は京劇の演目『定軍山』を写したものであった。

また、欧米各国はこぞって撮影隊をアジア各地に派遣し、エキゾティックな事物をカメラに収めた。実写映画と呼ばれたこれらの映画は、欧米にアジアの姿を紹介し、またアジア各国でも映画の観客を開拓した。1905年頃タイやマレー半島で人気を呼んだのは、目本人が撮った日露戦争の実写フィルムであり、M。パテー商会の梅屋庄吉や占沢商店の香山駒占らがアジアをまたにかけた興行師として活躍した。この頃になると、それまで伝統演劇の芝居小屋や露天で上映されていた映画が、常設の映画館を持つようになった。こうして大衆娯楽としての地位を確立した映画は、次に劇映画の製作に向かうことになる。

中国では短編劇映画の時代を経て、本格的な劇映画が13年に製作される。この年に上海で作られた『新婚初夜[難夫難妻]』と香港で作られた『荘子妻を試す[荘子試妻]』は、ストーリーをもとにシナリオが書かれ、監督が演出するという形態をとった初の劇映画だった。また、インドでも、1897年に最初の実写映画が撮られて以降、12年から劇映画の製作が開始され、13年に『ハリシュチャンドラ王 RAJA HARISHCHANDRA』が完成する。同じ頃日本でも、12年に日本活動写真株式会社(日活)が創立され、劇映画の製作が本格化した。この3国は、その後アジアの中の映画先進国として、アジァの映画産業をリードしていく。

この3国に次いで映画産業が盛んになるフィリピンでは、やはり12年に当時の宗主国アメリカの人間の手で、『ホセ・リサールの処刑 ELFUSILAMIENTO DE DR. JOSE RIZAL』と『ホセ・リサールの生涯 LA VIDA DE DR. JOSE RIZAL』が作られ、映画製作に参入した。また、当時オランダ領であったインドネシアでも、オランダ人とドイツ人の共同監督により、26年に初の劇映画『猿に化身した男 LEOTOENG KASAROENG』が作られた。

インドネシアではその後、華僑資本家が上海からウォン三兄弟を招き、インドネシア映画産業の基礎を固める。20年代の上海では、すでに年間約100本の映画が製作されていたが、それらは華僑の多く住む東南アジア各地にも輸出されて人気を博していた。各地の華僑資本家は上海で作られる映画に投資すると共に、自分たちの住んでいる土地での映画製作にも資本投資を始めたのである。

一方、マレー半島のシンガポールでは、同じイギリス領であったインドから資本と技術が導入されて映画製作が始まった。33年に作られた初のマレー語映画『ライラ・マジュヌン LAILA MAJNUN』は、ボンベイから来たインド人プロデューサーとインド人監督が、アラブ世界を始めインドでもお馴染みの恋物語を映画化したものだった。インドは20年代の終わりには100本を超す映画を製作し、インドからの移住者の多い東南アジアを中心に市場を広げつつあった。インドと文化的にも関係が深い東南アジアでは、インド映画の題材は抵抗なく受け人れられ、インド映画は次第に人気を得ることになる。こうして国内と海外の市場を確保したアジア映画は、トーキー化を契機にさらなる発展の道を辿っていく。

2.発展期~卜ーキー化がもたらしたもの

サイレント時代、インサート字幕や弁f:の解説で見られていた映画は、27年にアメリカで初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』が誕生して、今日の映画の形を整える。トーキーの技術はすぐさまアジア各地にも伝わり、30年のフィリピン映画『人学生の恋 COLLEGIAN LOVE』を皮切りに、翌31年には各地で続々とトーキー映画が誕生する。音声を得たことで映画は、字幕や弁士に頼らず台詞でストーリー展開ができるようになると共に、劇伴と呼ばれる音楽も入れられるようになり、挙に表現力を増した。中でもトーキー化の恩恵に最も浴したのが、インド映画であった。

インド映画はサイレント時代から「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」、そしてクリシュナ神話など、伝統演劇や古典舞踊でお馴染みのストーリーが次々に映画化されていた。伝統演劇の場合、台詞はいつしか歌になり、身振り手振りはそのまま踊りの所作となる。トーキー化と共に映画は伝統演劇のこれらの手法を踏襲し、歌と踊りを取り込んだのである。インド初のトーキー『世界の美 ALAM ARA』(31)には10曲の歌が使われたと言われているが、その後に作られた映画の中には、50曲、70曲の歌が入るものも出現した。その後歌の数は徐々に減少するものの、歌と踊りが入るというインド映画のスタイルは現在まで連綿と続いている。

欧米映画の概念で言えば「ミュージカル」にあたるこのインド映画のスタイルは、東南アジアでも人気を呼んだ。加えて、笑いに涙、恋愛にアクション等あらゆる娯楽要素を盛り込む様式をも伝統芸能から継承したインド映画は、言葉のハンディを乗り越えて海外市場で受け入れられていく。

また、上海、のちには香港でも多数作られるようになった北京語、あるいは広東語の映画も、主題歌や挿入歌を入れたり、京劇や粤劇のお馴染みの演目を映画化したりして、たとえ台詞がわからなくても楽しめる作品を増やしていった。ことにモダンな大都会として発展を遂げていた上海で作られる映画は、欧米映画のスタイルも巧みに取り込んで、ハイカラな感覚を各地に伝えていった。さらに当時の社会状況を反映したリアリズム作品は、東南アジア各地の華僑の愛国心にも訴えて、『漁光曲』(34)のようなヒット作が生まれた。

また、アメリカ映画の影響を強く受けたフィリピンでは、ハリウッド型の大型ミュージカル『大洋のニンフ DIWATA NG KARAGATAN』(36)や『サンボアンガ ZAMBOANGA』(37)を製作し、欧米でも公開するという、まさに「アジアのハリウッド」を目指す試みも出現した。

こうしてトーキー映画は、たちまちのうちにアジアの大衆娯楽の王座を占めるようになる。その頃には、ショウ・ブラザーズの郡仁枚(ランミー・ショウ)と郡逸夫(ランラン・ショウ)のように、上海で製作される映画の販路を広げるためにマレー半島に赴き、強大な配給網を築いて映画製作まで手がけ出すような人物も現れるが、その映画の発展を一時的に阻んだのが日本軍によるアジア各地への侵略であった。

3.停滞期~戦争の落とした影

アジア各地への進出にあたり、日本軍は映画を筆頭とする文化・芸術を、日本軍の思想PRの重要な手段と位置づけた。文化工作、あるいは宣伝・宣撫工作と呼ばれたこの作戦には多くの文化人が動員され、軍隊につき従ってアジアの各地へと送り込まれた。

日中戦争が勃発した中国大陸では、まず、日本が後ろ楯となって成立した満州国において、37年に満州映画協会(満映)が設立され、映画製作が開始された。満映は日本人である山口淑子に李香蘭という名前を名乗らせてさも中国人のように見せかけ、日本人と中国人が仲良く共同で映画製作を行っていることをアピールした。李香蘭は日本にも招かれて、長谷川一夫と共演した『白蘭の歌』(39)『支那の夜』(40)『熱砂の誓ひ』(40)の「大陸三部作」で日本でも圧倒的な人気を獲得した。

一方日本軍の侵略で一部に欧米の租界が残ったL海は「孤島」と呼ばれたが、ここにも日本軍肝煎りの映画会社が作られた。東和映画の社長川喜多長政を理事として39年に作られた中華電影は、その後何回かの改組を経ながら上海で中国人のスタッフ・キャストを使って映画製作を続ける。多くの映画人が日本軍の侵略に抵抗し、イギリス領香港や抗日の拠点であった重慶に逃げた中で、上海に留まって中華電影に協力した映画人たちは、中華人民共和国成立後は漢奸(裏切り者)と呼ばれ、この時代に作られた中国語の映画はすべて中国映画史から抹殺されることになる。

また、41年に始まった太平洋戦争は、東南アジアからインドまでを戦火に巻き込んだ。日本軍の侵攻により各地の映画製作はストップし、わずかに宣伝・宣撫工作の一環として作られた文化映画やニュース映画、あるいはフィリピン映画「あの旗を撃て DAWN OF FREEDOM』(44)や『3人のマリア TATLONG MARIA』(44)のように日本との合作の映画以外は、影をひそめることになる。直接の戦闘は東部でのみ行われたインドでは、『コートニース博士の不滅の生涯 DR. KOTNIS KI AMAR KAHANI』(46)のような抗日映画も作られ、製作本数もさほどの落ち込みはなかったが、東南アジアの市場を失い、映画界の発展が阻害されたことは否めない。

日本軍は当時スバース・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍を在インドイギリス軍に対する切り札と考えており、長谷川一夫がインドの王子に扮して在日の同志と活躍するという『進め独立旗』(43)のような映画を作ったりした。また、シンガポールで旗揚げしたインド国民軍の活動を映画化するために、小津安二郎をシンガポールに送り込んで映画化をはからせたりした。結局小津はシンガポールに居座ったままのらりくらりと軍の追及をかわし、映画製作に着手することなく日本の敗戦を迎えるが、小津以外にも多くの映画人や文化人が、この時期に現地でアジア映画や映画人と接触した。

例えば、作家の高見順はインドネシアとビルマにおける映画検閲の仕事を任され、当時現地で見たインドネシア、ビルマ、インドの映画についての詳細な記述を『日記』に書き記している。また、松竹や新興キネマの脚本家・演出家であった小出英男は、『南方演藝記』(43)という書物を著して、当時のマレー半島における映画と映画人の状況をつぶさに報告している。さらに日本名を日夏英太郎という朝鮮半島出身の映画監督許泳は、インドネシアで宣伝・宣撫工作に従事したあと、日本の敗戦後もインドネシアに留まって映画技術を指導し、ドクトル・フユンと慕われた。

このように侵略した側とされる側という不幸な出会いではあったが、日本の映画人は初めてアジア映画と正面から出会うのである。

4.隆盛期~大スタジオ時代の栄枯盛衰

45年8月太平洋戦争の終結と共に、アジアの各地は植民地からの解放という新たな闘いに直面する。47年のインド・パーキスターンの分離独立と49年の中華人民共和国成立は、インド亜大陸と中国大陸及び台湾における大規模な人口移動を発生させた。その結果、カルカッタや香港、台北など人口が流入した都市は膨張し、人々の娯楽である映画への欲求の高まりが映画産業の発展を促すことになった。

また、インドネシアやフィリピンでは、独立後の国民国家形成に映画が重要な役割を果たした。多くの島からなるこの両国では、人々の言語は複雑に分かれ、旧植民地としてのひとまとまりの地域が一国として独立したあとも、言語の統一は容易ではなかった。だが、新たに国語として定められたインドネシア語、ピリピノ(タガログ)語が映画の使用言語となり、国の隅々まで行き渡ることによって、どんな地域の人も国語を理解することが可能になり、統一が促進された。

こうした要因と共に、独立後の高揚した精神を反映した映画の出現や、人々の目常生活が次第に落ち着き娯楽への欲求が高まってきたこともあって、映画は産業として大きな発展を遂げていく。さらに50年前後から各国でカラー映画製作が始まり、大資本を投入できる大手映画会社が覇を競う時代が到来する。日本では5社と呼ばれた松竹、東宝、大映、新東宝、東映、それに日活、また香港とマレー半島ではショウ・ブラザーズとキャセイ、フィリピンではサンパギータ、LVN、プレミア、さらにインドネシアでは人物プロデューサーのジャマルディン・マリク率いるプルサリ(インドネシア映画芸術社)等々、大スタジオを持つ映画会社が映画を量産し、それらの映画は娯楽の王者として観客に熱狂的に支持された。

また、大映社長の永田雅一やショウ・ブラザーズ社長のランラン・ショウらは、映画の市場をさらに広げるために各国の映画界に呼びかけて、アジア映画祭を開催することにした。54年東京で第1回が開催されたアジア映画祭は、東アジア及び東南アジアの各国を常連参加国にして、各地持ち回りで毎年開催されることになった。ここでの交流から、各国間の合作や、相互にスタッフ・キャストを貸し借りするなどの交流が生まれた。

しかしながら60年代に入って起こった様々な出来事が、大スタジオによる映画製作に影を落としていく。マレー半島では映画製作の中心地であったシンガポールが65年に分離独立し、マレー語映画の製作はクアラ・ルンプールに移動せざるを得なくなった。また、64年から本格化する文化大革命は、香港の労働者にも影響を及ぼし、香港のスタジオでは労働争議が頻発するようになる。これに加えて、60年代後半から急速に普及したテレビは、映画の大きな脅威となった。映画自体もフランスのヌーヴェル・ヴァーグの影響などで多様化が始まり、これまでのような大手映画会社のステレオタイプ化したプログラム・ピクチャーでは客を呼べなくなっていく。こうして大手映画会社は倒産したり、あるいは製作から手を引いて配給だけに専念する道を選び、大スタジオ時代は終わりを告げる。

5.分業期~新たな競争の時代へ

70年代のアジアは、日本を筆頭に高度成長への道を遇進する。新たに登場した映像文化であるテレビ、そしてビデオは映画の地位を脅かし、映画の観客人口は減少していく。また、人資本を投入したハリウッドの大型娯楽映画は、SFX(特殊効果)を駆使したりする新技術の開発によって観客を引きつけ、アジア各国でその国の映画産業を苦境に陥れた。海外に強大な市場をもつインド映画と香港映画、中でもテレビの普及が90年代に人るまで遅れていたインドでは自国映画が優位に航つが、この両国の映画も、タイやマレーシア、シンガポール、インドネシアのように自国映画産業が落ち込んだ国では、ハリウッド映画と並ぶ脅威となった。こうしてアジア各国は、映画の輸出国と輸入国とに分かれていく。

大手映画会社、つまりは大スタジオが衰退したあとには、いくつもの小規模な映画製作会社が興亡を繰り返し、それぞれのカラーで特色ある映画製作を行った。また、70年代半ばから80年代にかけて大きなうねりとなって現れたニューウェーブ、あるいはニューシネマと呼ばれる作品群は、韓国、香港、台湾、インドなどで従来の娯楽路線とは異なった新鮮な作品を誕生させた。さらに文化大革命の後遺症から抜け出した中国では、第五世代と呼ばれる監督たちが『黄色い大地』(84)を始めとする力のある作品を次々に生み出していき、東アジア映画に対する欧米の注目を集めるきっかけとなった。

これらの作家性の強い映画は必ずしも大衆には受け入れいられなかったが、侯孝賢監督の台湾映画『悲情城市』(89)のように現代史ではタブーとされる事件を描き、映画の上映をきっかけに事件に対する見直しがなされて人々が自由に発言できるようになるという、社会的に大きな影響を持つ映画も現れた。今目ニューウェーブ、あるいはニューシネマとしての運動は終息したが、多くの国で海外での賞取りをめざす芸術的な映画と、一般観客の人気を呼んで興行的に成功する娯楽映画とに二極分化する傾向は続いている。

そのアジアの娯楽映画の前には、アメリカ映画、テレビ、ビデオといった競合する相手が大きく立ちはだかっている。とくにテレビは、90年代に入って衛星放送時代を迎え、チャンネル数が一挙に増加した。台湾やインドでは、ケーブルにより配信されてくる衛星放送のチャンネルは70から80にも及ぶ。その中には映画専門チャンネルもあり、映画館に行く客足を引っ張る結果になっている。また、ビデオはLDを経由して最近はビデオCDへと形態を変えつつあるが、海賊版の存在が大きな問題になっている。

そのような困難な状況にあるアジア各国の映画界だが、常に新鮮な娯楽作品を模索する香港、インド映画始め、最近はマレーシア映画やタイ映画でもヒット作が増えるなど健闘を続けている。中国映画や香港映画では日本が出資する作品も増えてきており、香港返還のような不安定要素はあるものの、アジア映画はその第2世紀においてもさらなる発展が期待できそうである。

〔参考文献〕

大アジア虚栄圏同盟編『亜細亜通俗文化大全』スリーエーネットワーク、1996。

初出誌情報

松岡 環1998「映画:1.総論(アジア映画100年)」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第7号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.62-67.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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