映画:わたしの好きな5つの中国の映画―躍勤する民衆の生活と魂―

映画:わたしの好きな5つの中国の映画―躍勤する民衆の生活と魂―

徐曼

はじめに

80年代の後半から中国の映画は爆発的な人気を得て、第五世代の映画監督の作品群が次々と世界に紹介されるようになる。カンヌ映画祭など国際的な舞台で数多くの賞を受賞し、その高い評価とともに世界中で注目されるや、こうした中国映画のルーツや成立背景に関心が当然のこととして寄せられる。しかし中国映画が突如、堰を切ったように世界に登場したように見えても、そこにはそれまでマグマのように蓄えられた民衆の創造の歴史と、それらを表現することへの切実な必然性があったのである。これまでにない中国映画の旋風が巻き起こると、中国の民衆はその映画作品のもつ個性的で、すぐれた芸術性に対して歓喜し、映画美学へのあくなき追及とそこに描かれた民衆の姿に深い感銘を受けるようになったのだが、さて、その中国映画の起源を振り返ってみると、19世紀末から20世紀当初にかけて映画は中国に伝えられ、1905年には北京で初めての映画である『定軍山』という作品が製作されたという記録がある。以降、今日まで中国の映画の歴史は90年の歴史発展の過程を経てきたわけであるが、その発展史は映画演劇の研究者、専門家によっておよそ次の5つの歴史段階に分けられている。すなわち、中国映画の揺藍期・開拓期(1905-1931年)、熟成期(1931-1949年)、波乱のなかの発展期(1949-1966年)、停滞後退期(1966-1976年)、模索期(1979-1989年)である。90年代以降の注目すべき作品を位置づけるには更に1つの時代を加えなければならないが、その新しい第六世代については後に触れることにして、以'下に上記の各段階期における代表的な監督を紹介してみよう。

とくに第五世代は新しい映画製作の旗手として、80年代に作品を精力的に発表している点で、第四世代と区別している。

このなかで、第五世代の映画監督者は本小論の執筆者である私と同時代に生まれ、年齢、経歴などさまざまな点で共有することの多い世代であることから、製作された作品群に対しても、そこに展開される世相、社会観や社会認識、役者の発言や苦悩にも非常に多くの感銘と共感、親しみを覚えたのはしごく当然であった。私はこれらの作品を通して、また同時代を生き、過去の歴史のありかたに深い思いをめぐらすことができたのだ。

第五世代は1982年に北京電影学院を卒業した青年監督者たちで、彼等は新中国とともに生まれ、激動する政局の不安定な時代の渦中に育ち、さらに文化大革命の10年の辛酸も経験したのである。改革開放の時期にそれまで得られる機会のなかった専門的な技術指導と西側の映画美学に関する芸術的感性を進んで受け入れ、まさに中国のヌーベル・バーグの輩出の原動力となるのである。従来の中国映画にみられる既成の伝統的観念、価値観、旧世代の世界観に不満を噴出させ、その束縛、呪縛からの精神的解放を求める強い意志によって、撮影権を手にいれるや、斬新なモチーフと大胆な着想によって、中国映画界に新風を吹き込んだのであった。

ところで執筆者は日本で第五世代の多くの映画を見ることになったが、それらは新鮮で、現代に生きる中国民衆の力強い生き方に感動し、なかには二度、三度、繰り返し見たものもある。例えば張芸謀監督の『紅いコーリャン』、『菊豆』、陳凱歌監督の『さらば、わが愛』、『子供の王様」、『黄色い大地』、呉天明監督の『占井戸』、呉子牛監督の『晩鐘』、黄健新監督の『黒砲事件』、顔学恕監督の『野山』、田壮壮監督の『青い凧』などである。また、中国の黒沢明と呼ばれる第三世代の謝晋監督の作品もこれらのなかにあって精彩を放ち、中国の映画ファンのみならず、日本の映画ファンにも大きな評価を得ている。日中の歴史を見据えた作品である『乳泉村の子』、また『芙蓉鎮』や『牧場人』、『最後の貴族』などの名作は謝晋監督の傑作としてよりは、中国映画の代名詞といってよい。

第五世代の監督者たちは改革開放下の自由な主義思潮の雰囲気の中で、今日躍動し続ける民衆の心理情景を描き、ヒューマニズムの観点から中国映画の新しい道を切り開いたのであった。とりわけ謝晋の作品の背後には人間の愛情の深さ、人間性を追及する姿勢が深く感じられる。ここで執筆者は同時代を生きた視点、共感に立って、最も感銘を受けた、そして最も好きな5つの映画を紹介してみたいと思う。

『紅いコーリャン』

張芸謀監督によって1987年に製作された。中国山東省地方の田舎の貧乏な家の家計を助けるために、ハンセン病を患う造り酒屋の主人のもとへ嫁として売られた九児は、コーリャン畑を通りかかった時に、不意に強盗に襲われ、さらわれそうになる。そこへ御輿を担ぐ余があらわれて九児を救う。婚礼の後、慣例通りに里帰りをする途中、再び九児は覆面の男に襲われる。実はそれは余で、2人はコーリャン畑で結ばれることになる。九児の夫の不慮の死後、九児は余と結婚し、酒屋を軌道に乗せて、幸せな毎日を送るようになる。それから9年後、日本軍が村を襲ってくる。人々を家畜のごとく労働をさせ、暴行を繰り返す日々。土地の男達は抗日を誓い合い、爆薬をもって日本軍を待ち伏せる。そこへ九児は息子の豆官を連れて、男達に用意した食糧を送り届ける途中に、日本軍と遭遇し、豆官の目の前で銃弾に倒れる。そして、余と豆官だけが生き残るのである。

『紅いコーリャン』の原作は中国の代表的なルーツ文学の作家とされる莫言の代表作『紅高糧家族』で、執筆者はすでにその作品を読んだことがあり、従来の中国文学の世界とは異なる筆致には耳目一新させられ、大きな感動を受けたものであるが、映画化されても原作とはまた違った味わいがあることに深い印象をもった。とくに銀幕の真っ赤な背景、一面に続く真紅のコーリャン畑、新婦九児の真っ赤な衣装に圧倒された。執筆者のように新中国の象徴としての赤い色に小さい頃から馴染んできた世代にとっても強烈なイメージを受けた。また、酒造りの男達の酒神歌と踊りは実に逞しく、躍動する赤い色彩と、歌声のなかから労働者たちの力強さ、歓喜、さらに侵略者への憤りが強く伝わってきて、不思議な余情が残った。作品にあらわれる日本軍の行為は目を覆うものがあるが、映画のモチーフの中に歴史的な記録として描かれている点も忘れてはならないことである。

『芙蓉鎮』

謝晋監督による1987年の作品である。筆者もかつて一時期を湖南省で生活したこともあり、その光景には懐かしさを覚えた。ときは60年代前半、ところは湖南省の街、芙蓉鎮。米豆腐を売る胡玉音と夫の個人商店が繁盛しているのを、国営食堂の女店主李国香が見て、嫉妬する。胡玉音夫婦は賢明に商売に励み、豆腐造りに精を出す。サービスもよく、店はますます繁盛し、ついに地主の王秋赦から土地を買い取り、店を新装する。やがて文化大革命が勃発、李国香と王秋赦は造反派となり、それぞれ文化革命指導班の主任と隊長に昇格した。胡玉音夫妻は資本主義の走狗、ブルジョアと決めつけられ、豆腐屋も没収される。胡玉音は田舎の親戚の家に身を隠すことになる。再び芙蓉鎮に戻ってくると、夫はすでに殺害され、かつて世話になっていた谷燕山も職を奪われ、彼女にも「新富農」の烙印が押された。そんな彼女を優しく扱ってくれたのが、昔から右派の罪名に着せられていた秦書田であった。2人はいろいろな困難を乗り越えて結婚したものの、秦は10年の刑に処せられ、胡は1人で子供を育てながら、秦を待ち続けることになる。79年、ついに波瀾万丈の文革が終結すると、2人とも名誉回復し、もとの場所で豆腐屋を再開するようになる。

謝晋監督はこの作品を通じて、何も罪のない2人の主人公が文化大革命の嵐に巻き込まれ、人生を翻弄され、悲惨な境遇に遭う姿を描きながら、文革の意味を真剣に問う意欲を画面に繰り広げたのである。なかでもこの映画のなかの次の台詞は非常に印象的である。

「生き抜け、ブタになっても生き抜け。牛馬になっても生き抜け…」。

この言葉がどれほどの衝撃を与えたかは想像に難くない。謝晋のような監督がこれまで多くの政治運動の履歴を持ち、人間の酸いも甘いも知り得て、どん底にも落ちた経験があったればこそ、こういった強い信念の言葉を吐くことができたのであろう。3時間あまりにわたるこの映画は一編の人生の叙事詩であり、終始涙なしには見られなかった。また、過去の内乱である文化大革命を振り返り、二度とあのような時代に逆戻りしてはならないという気持ちを深く民衆の心に刻んだのである。

『乳泉村の子』

同じく謝晋監督によって1991年に日中国交回復20周年を記念して作られた作品で、原題は『清涼寺鐘聲』。1945年、戦争終結後の引き揚げの最中、河南省の乳泉村に進駐していた日本軍人の妻は乳飲み子と生き別れてしまう。やむなく母親と引き裂かれたその子供は羊角おばさんに拾われ、「犬坊」と名づけられて我が子同様に愛情を注いで育てられる。「敵の子」の運命を背負いながらも資質豊かな少年に育つ犬坊であったが、貧乏ゆえに一時期やむなく貰い子に出される。羊角は老いてきた自分の身を思い、やがて犬坊を清涼寺の高僧の弟ヂにしてもらう。やがて羊角おばさんも世を去り、天涯孤独の身となるが、明鏡法師の名は仏教界に高名をはせるようになる。そして、40年後、中国仏教代表団の一として来日し、偶然にも実の母と再会するのである。離日間近のひとときの出会いのなかで、明鏡は母に「お母さん、生んでくれてありがとう」と感謝する。そして別れの日、日本を離れる明鏡をそっと見送る実母―。最後は中国に戻って羊角の墓で亡き養母を供養する明鏡法師の姿で幕を閉じるのである。

中国残留日本人孤児の第値が来日したのは1981年の3月である。以来、毎年のように中国残留孤児が日本へ肉親捜しに訪れている。その人達にとっては、どのような事情があろうとも、結果としては親に捨てられた存在なのである。この実態を作り出したのは戦争という悲劇である。この映画は親子の情の強さをあらわすとともに、戦争のもたらす残酷さ、肉親の引き裂かれるつらさ、そして「敵の子」を育てる里親の優しさを描いて深い感動を呼んだ。時間的な交錯のなかのドラマ設定もみごとである。犬坊の逆境を生きる力強さ、日本人の生みの母親に対する複雑な心境、羊角おばさんの愛情溢れる人間性…。さすが謝晋監督ならではの骨太で重厚な作品であり、長く後世に受け継がれる名作である。

『さらば、わが愛』

陳凱歌監督による1993年の作品である。1925年当時の北洋軍閥時代、孤児たちを集めた京劇養成所で段小楼と程蝶衣はそれぞれ男役と女役に育っていった。あまりに過酷な生活に耐えきれず、何度も挫折を味わうが、ある日の舞台劇の素晴らしい迫力に感銘するところは実に感動的である。同期生の自殺も出るほどの厳しい稽古の後、太監邸ではじめて京劇『覇王別姫』の男役と女役を演じてデビューを果たす。

1937年、日本軍が中国を侵略する時代に、段と程は有名スターとなり、人々に愛され親しまれるようになる。段小楼は娼婦の菊仙と結婚することで、程蝶衣との間にひびがはいってしまう。やがて、程蝶衣は日本軍に捕らえられた小楼を救うため、日本軍司令官の前で芝居を演じるが、日中戦争後、そのことが売国奴の行為だとして裁判にかけられる。小楼は蝶衣の釈放のために奔走する。1966年、文化大革命では、2人とも集会で互いを摘発し合う。このため菊仙は自殺し、その11年後『覇王別姫』の舞台で虞姫役の程蝶衣は自らの首を剣で引き裂くのであった。

これまで陳凱歌監督の作品である『黄色い大地』、『大閲兵』、『子供の王様』などとひと味もふた昧も違って、監督自らの新境地を開いたばかりでなく、中国に新しい作風を持ち込んだ映画といえる。目まぐるしい社会変化を余儀なくされた激動の中国を背景に、2人の京劇役者の愛憎模様をドラマチックに描いたこの作品は、大河的なスケールの大きい作品であるばかりでなく、同性愛という困難なテーマも敢えて巧みにとり人れ、名実ともに陳凱歌の存在を不動のものにしたのであった。

『太陽の少年』

姜文監督による1996年の作品である。原名は『陽光燦爛的日子』。王朔の小説『動物凶猛』が原作で国際的にも高い評価を得た映画である。舞台は1970年代半ば、まだ文化大革命の最中である。中学校の17歳以上の学生は下放されたり、工場に勤めたり、幹部たちも「五七幹校」へ思想改造へと駆り出される時代であった。北京の街は空っぽになり、天下は16歳の少年小軍と不良の仲間たちの共有物となった。学校をさぼっては街の不良仲間と喧嘩をしたり、合鍵で他人の家に忍び込んだりする自由気儘な日々を送っていた。だれにも干渉されることのないある日のこと、偶然踏み入った他人の家で一枚の美少女の写真を見かけ、心を奪われる。やがて、その米蘭という年上の女性と付き合うようになり、不良の仲間にも紹介する。祖母の死のためやむなく北京を離れたすきに、米蘭は自分の仲間の1人と親しい関係になったことを知り、裏切られた気分になって、仲間と喧嘩を起こし、あげくには米蘭とも別れてしまう。

監督の姜文はすでに多くの映画に主演したことのある名優である。第六世代の監督として登場した最初の作品である。当時の1970年代の中国の少年たちの恋を知り、そして嫉妬、孤独に悩み、成長していく過程は非常に巧みに描かれており、精神の内部の描写表現の濃やかさは高い評価を受けた。というのも小軍たちと執筆者はまったく同じ時代、同じ年齢を生きたわけで、この映画のなかからまた自分の姿も浮かんでくるのだった。例えば次の場面である。親の軍服を着て、暗い部屋で『白鳥の湖』の音楽に合わせて即興で踊る幕。ただのユーモア、諧謔ではなく、それは当時の私たちの青春の憧れそのものであった。現実と夢想の交錯がこの映画には巧みに織り込まれている。当時は外国の音楽、映画、読み物などはすべて資産階級のブルジョアの嗜好として禁断の実であった。ラジオや映画、テレビ(当時はテレビを持つ家庭は非常に少なかった)はすべて江青によって推薦された作品ばかりだった。“八個様版劇”といわれる『白毛女』など8つの政治的模範劇以外、見るべき文化的映像はなかったのである。しかし、私たちは見てはならない、聞いてはならないものにどれほど憧れ、渇望したことだろう。できうる方法で私たちは例えば西欧のルネサンス時期の名作や、ロシアの民謡(夕陽のなかで米蘭と少年たちがギターを弾いて歌う場面があった)、中国の30年代の有名女優の歌曲などにふれようとした。それらはファッションであり、また知的な冒険であり、興奮であった。

『太陽の少年』はこれまでにない撮影技術と音楽技術をとり入れた。イタリアオペラのバックミュージックが中国の時代風物にこれほど溶け込んでいるのも見事である。またインターナショナルをはじめ、当時の文革を彩る音楽も多用されて郷愁をそそる。なかでも印象深いシーンはプールのなかの小軍である。何も台詞がなくただ執拗に繰り返される波飛沫。何度もはい上がってくるところを仲間につき放され、最後には疲れてプールに1人孤独に漂う小軍。それはガールフレンドを奪われた寂しさでもあり、一つの時代が終焉する気怠い気分でもあった。

おわりに

今回あげた5つの作品は、中国の現代映画を凝縮した代表作であるが、また視点を変えれば別の5つの作品もあげられるだろう。中国の現代映画はそれほど幅広いジャンルを扱い、また描く世界も奥深い。映画は社会、民衆、生活の生の姿を生き生きと描くすぐれた手段であり、今後も数多くの作品が誕生していくことであろう。若き映画人たちの挑戦は海外のさまざまな知性を吸収し、伝統芸術との相剋のなかで、新しい芸術性を獲得するに違いない。中国の映画を通じて、中国の民衆もまた同じ時代を生きた証しを得て、共感が共感を呼ぶのである。そして、日本人もまた中国社会の変貌と民衆の魂に触れることになる。これからも世界は中国の映画に注目しつづけるであろうし、それに答える作品をうみ出す土壌は熟している。

1995年には『古井戸』の作品で知られるベテラン監督の呉天明が9年ぶりに新作を発表して話題になった。1920年代の中国を舞台に、芸一筋に生きた孤独な老人と、後継ぎになろうとした孤児との心のきずなを描いた『変瞼』という作品である。呉天明は張芸謀や陳凱歌を育てたことで知られるが、1988年に渡米、天安門事件とその後の情勢変化で94年にようやく帰国が実現、この作品が活動再開の第一作目である。このように新人の登場と同時にベテラン監督とが相互に作品を発表し続けるところに、世代間を越えた、よりスケールの大きな作品への期待がもたれる。

なお、台湾映画、香港映画についてはとりあげなかったが、今後は周辺との交流進展にともない、新しい創作視点が投射されるにちがいない。

中国の映画はその表現性において、これまでの殻を破る試行実験から、しばしば当局の審査によって禁止令に問われることもあり、すべての点で表現の自由を勝ち得ているわけではないが、活性化の波はおしとどめようもない。商業主義に迎合することなく、芸術性の高い映画をすでに第六世代の新進監督者たちは模索しはじめている。

中国の映画はこれからもますますその越境を加速化させるであろう。

(本学外国語学部中国語学科非常勤講師)※執筆当時。web編注。

付記:本小論の執筆にあたり、文教大学自井啓介教授より文献の紹介、ならびに貴重なご助言をいただきました。記して感謝いたします。

〔参考文献〕

ここでは比較的入手しやすい入門書をはじめ、専門書も一部紹介した。

石川順『中国映画の散歩』日中出版、1982。

佐藤忠男『映画で世界が愛せるか』岩波書店、1989。

佐藤忠男他編『映画で知るアジアのこころ』アジア研究所叢書 亜細亜大学アジア研究所、1991。

白井啓介「中国映画史に見る作品系譜―中国映画・映画史」佐藤忠男編著『アジア映画小辞典』三一書房、1995。

竹内実・佐藤忠男『中国映画が燃えている―「黄色い大地」から「青い凧」まで―』朝日ソノラマ、1994。

辻久一・清水晶校註『中華電影史話一兵卒の日中映画回想記 1939-1945』凱風社、1987。

戸張東夫『映画で語る中国・台湾・香港』丸善ライブラリー、1991。

戸張東夫『スクリーンの中の中国・台湾・香港』丸善ブックス、1996。

藤井省三『中国映画を読む本』朝日新聞社、1996。

大映・東光徳間『中国映画の全貌1980-1995』大映(株)東光徳間、1995。

陳凱歌著、刈間文俊訳『私の紅衛兵時代―ある映画監督の青春―』講談社現代新書、1990。

倪震著、謝飛・楊天曦訳『北京電影学院物語第五世代映画前史』全国書籍出版株式会社、1995。

程秀華主編・程秀華、李少白、?祖文編著・森川和代編訳『中国映画史』平凡社、1987。

任殷『電影追踪』上海文芸出版社、1989。

王雲緩『中国電影芸術史略』中国国際広播出版社、1989。

胡星亮・張瑞麟『中国電影史』南京大学戯劇影視学叢書、1995。

尹鴻「国際化語境中的当前中国電影」『作品与争鳴』1996年第11期、1996。

初出誌情報

徐曼1998「映画:2.わたしの好きな5つの中国の映画―躍勤する民衆の生活と魂―」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第7号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.67-73.

お読み下さい

ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

映画:目次