映画:モンゴルの映画

フフバートル

モンゴルの映画や映画事情が日本で初めて大きく取り上げられたのは、1993年の「アジアフォーカス福岡映画祭'93」の「モンゴル映画特集」の時であった。映画のみならず、旧モンゴル人民共和国の社会的情勢が旧ソ連圏の社会主義の国々以外に知られるようになったのは、1990年代初期同国で起きた政治的変化以来である。

ここではまず、1921年に社会主義革命により民族独立を果たし、民族の文化的近代化を精力的に進めてきた旧モンゴル人民共和国(1992年以降は「モンゴル国」)が映画をどのように受け入れたのか。またモンゴルにとって映画はどういう意味をもち、どのような役割を果たしてきたかという視点から初期のモンゴル映画の歴史に触れることにしたい。次に、1936年にモンゴルで作られたモンゴル映画史の記念碑とも言うべき最初の長編芸術映両である「モンゴルの息子」が、その製作から57年後に日本で上映されるにあたり、日本語翻訳を担当した筆者の経験から、また、この映画の舞台にもなった内モンゴル出身の者としての感想を交えながら、この歴史的な映画作品を紹介したい。

映画はモンゴルで

映画が遊牧の国モンゴルに入ったのは1913年のことであると言われている。具体的には、サインノヨン・ハン県のナムナンスレンという領主がペテルブルグから小さな映写機を持ってきたという話が知られている。そのころのイヘフレー(現在のウランバートル)はロシアなどヨーロッパと中国の商人が多く、ちょっとした「国際都市」であったので、その後外国の商人がこの町に自国の無声映画を持ち込んで上映していたということも知られている。しかし、その時点ではそれほど多くのモンゴル人が映画を見ていたわけではない。1921年に革命政権が樹立した後、1922年7月30日に初めて全国規模のナーダム――モンゴル民族の伝統的な祭りが行われ、その晩に映画が上映された。ナーダムでの映画を見ることができたのはイヘフレーの町に在住する市民とその周辺の遊牧民及び地方からナーダムに参加した観客に限るであろうが、モンゴルの民衆が映画を見るようなったのはおそらく人民革命以降のことであろう。しかし、近代科学から程遠く、国民の識字率がはなはだ低かった当時のモンゴルで人々は映画にどう反応したであろう。人々はそれを幽霊だと思い、映画を見れば幽霊が付きまとうと信じていた。さらに、ラマ僧たちは、映画は人だまによって映るものだから、映画を見れば不占なことが起きる。映画を見た人は寿命が短くなる。めくらになるとも言った。当時「映画」のことをモンゴル語ではスーデル・シー(影の劇)、ツァヒルガーン・スーデリーン・ナーダム(電気影の遊戯)などと言っていた。モンゴル人の映画に対するこの「影」という認識は中国語の「電影」(映画)の「影」の直訳からきたものであり、影がある以上はその元になる実体があって当然だが、なのにそれが見えてこないとは、当時のモンゴル人からみれば幽霊を連想するのも無理のないことであった。

しかし、革命と科学を目指していた新生の革命政権にとっては、国民のほとんどが読み書きできない当時のモンゴルの状況において、革命の宣伝や科学の教育に最も効果的であったはずの映像の利用を迷信によってじゃまされることはいけないことであった。モンゴル人民革命党中央委員会は1925年の全体会議の決定により、国民の啓蒙のために革命的イデオロギーの劇や娯楽を利用することを同党の方針として決定し、同大会で承認されたモンゴル人民革命党綱領では、映画など多様な対策により読み書きのできない、あるいは、よくできない成人を教育すべきであると、政治的プロパガンダや教育のために映画を導入することを具体的に取り上げた。さらに、同綱領では、人民大衆に悪影響を及ぼす諸要素を一掃することを決めていたので、その一環として革命以前にモンゴルに入っていた革命思想に合わない外国の映画も排除されなければならなかった。

このように、映画はモンゴルではまず革命イデオロギー宣伝の有力な武器として、また、科学教育の教科書的材料として人民革命党と政府の直轄下におかれるようになった。それはまず、モンゴル人民共和国領内における映画の上映と映画の撮影及び映画製作の全権をスフバートル中央クラブに与えることから始まった。スフバ一トル中央クラブは、モンゴル人民革命党中央委員会により1924年12月16日にウランバートル市で設立された機関である。さらに、1933年に国民教育省の付属機関として移動映画局が設立された。1934年にはモンゴル最初の映画館「アラド」(人民)が開館し、地方でも映両上映の拠点や移動映画の分布が広がりつつあった。そのころ、地方での有声映画の普及に重要な役割を果たしたのが、モンゴル人民革命勝利15周年のお祝いにソ連から送られてきた12台の移動式映写機であった。その翌年にはモンゴル映画の発展に最も大事な役割を果たしてきたモンゴル初の映画会社である「モンゴルキノー」国立映画製作所が誕生した。それによりモンゴル最初の国産映画として1936年のウランバートルでのメーデー記念行事を撮影したドキュメンタリーが作られた。その後モンゴル映画は数十年に渡り、ソ連、主にモスクワ映画大学での人材養成の成果及び旧モンゴル人民共和国唯一の映画製作所であった「モンゴルキノー」の充実により、時代とともに発展を増し、数多くの優れた作品を作り出した。その間、年間生産量が長編芸術映画7~8本とドキュメンタリー30~40本の時期が比較的長かった。国民の人口と映画の年間生産量のバランスは、50万人対芸術映画1本が適当であるといわれているので、1986年にやっと200万人に達した旧モンゴル人民共和国では映画の生産はすでに人口を上回っていたことになる。

このように、モンゴル映画は「モンゴルキノー」なしには語れないので、最後に、1990年代初期の改革まで同国の映画芸術の発展に大きく貢献してきたこの「モンゴルキノー」の設立当初の状況について、当時の資料に基づき、その後の文献ではあまり見ることのできない、そして、世間の旧モンゴル人民共和国に対するイメージからは考えにくいいくつかの事実に触れたい。

その一、「モンゴルキノー」の器材はそのほとんどが西側諸国から輸入されたものであった。ソ連からはフィルムや現像の機械と現像用の材料及び録音機などが入ってきていたが、西側諸国からはまずアメリカから映画撮影用のカメラとフィルムや現像用の材料を注文していたほか、ベルギーからもフィルムや現像用の材料を注文した。そして、ドイツからは写真用のカメラを、また、フランスからは録音機を輸入した。

これが事実であれば、旧モンゴル人民共和国の建設はすべてソ連の援助やその製品で賄っていたというイメージを覆すことになる。

その二、「モンゴルキノー」の設立当初の最も重要な目的は、モンゴル国産映画及びソ連のよい映画をモンゴルの観客に見せることであった。しかし一方で、アメリカ、フランス、チェコスロヴァキア及びその他の民主主義諸国で生産された映画を人民に紹介することもその目的の一つであった。

これは、1936年ごろのモンゴル人民共和国は資本主義をそれほど警戒していなかったこと、また、西側の諸国をそれほど敵視していなかったことを意味するものなのか、興味深い記述である。

その三、「モンゴルキノー」は経営の自立を目指し、地方の役所や公的機関などに対し、大衆が映画に対し常に興味をもつように教育するよう積極的に促すことを方針とし、「モンゴルキノー」の作品を無料で見せることをなるべく制限するべきであると考えていた。そして、資金を集めることは「モンゴルキノー」の設立段階のみならず、製作所の安定、外国フィルムの輸入、新しい器材の導入、人材養成、映画館の建設などのために、また、モンゴル人民の愛するスフバートル同志及びモンゴルの独立を守るために勇敢に戦った人々を題材にした一流の芸術映画を製作するのに必要であるとみていた。これは当時のモンゴル国営企業でも市場経済的に経営の方針を立て、資金調達のため工夫していた事実を裏付けたものであろう。それに、資金調達の目的の配列が極めて現実的であったことが注目に値する。

モンゴル映画史の記念碑「モンゴルの息子」

1936年にロシア人監督I.トリウベルグをはじめとするロシア人スタッフとモンゴル人出演者によるモンゴル最初の長編芸術映画が作られた。そのころのモンゴル人民共和国は日本の「満州国」建国により常にその存続を脅かされていた。この映画は「満州国」の管轄下にあった同胞の内モンゴルの人たちの悲惨な状況と社会主義体制に人った自国の状況とを比較することにより、モンゴル人民共和国の存在をアピールすることを目的とした政治的プロパガンダ映画であることは間違いないが、同時に面白みたっぷりの娯楽映画でもある。私にはそのころのモンゴルの映像を見ることやその時代のモンゴル語を聞くだけでも十分楽しい映画だと思われる。映画の粗筋はこうである。

主人公のツェヴェーン、ちなみに役者の本名もツェヴェーンは、純朴なモンゴル男である。彼は好きな女性ドルマーと結婚する条件として英雄になることが必要であった。しかし彼はどうすれば英雄になれるか分からなかったので、羊一頭をお土産にお寺を訪れ、ラマ僧にそれを教えてもらおうとするが、ラマ僧は彼にラマになることを勧める。彼は、それでも結婚できるかとばかげた質問をする。モンゴルではラマ僧は結婚できないからだ。ラマ僧は彼を睨み付け、「帰れ」という合図する。途方に暮れた彼は中国語なまりのモンゴル語をしゃべる中国商人の恋敵に騙され、ひどい黄砂のなかを馬に乗って国境を超えて「満州国」に渡る。北京の方向に向かって行けば途中に美しい公園があり、そこに魔法の果物があるから、それを食べれば英雄になれると、恋敵の中国商人に雇われた遊行僧に言われたからだ。しかし、彼が南へ行って見たのは封建社会制度下で苦しむ内モンゴルの同胞たちの悲惨な生活と日本人と「満州国」軍人がサーカスの楽屋で企む祖国モンゴルへの侵略の陰謀だった。その話を窓から盗聴していた彼は我慢できずその場に突っ込み、捕まって投獄される。処刑される寸前に内モンゴルの方言を話す同胞に救出され、自分の自い馬に乗ってウランバートルへ帰る。帰国したツェヴェーンはその足で政府の建物に向かい、政府要人に南へ行って知った情勢を報告する。魔法の果物を求めに南へ行ったツェヴェーンはこの時はすでに心身とも鍛えられた男になっていたが、恋人を探すためにやってきたナーダム祭の会場で相撲競技で威張る横綱を見て我慢できず、飛び入り参加でべんべんたる太鼓腹のその男を倒して優勝が決まる。会場を賑わした彼は演説に立ち、満州へ行って見たことを会場の民衆に語り、「わがモンゴル人民共和国こそ最も幸せな国である」と宣言する。彼はもう英雄である条件を備えたのだ。その時、人ごみの中から恋人のドルマーが現われ、2人は馬に乗り、肩を並べてパレードの中を進行する。両サイドの軍楽隊は2人のために演奏を始める。

この映画の特徴はなんといっても時代の差を感じさせることにある。まず字幕の古いモンゴル文字を文語風に読み上げているところが、当時のモンゴルでは識字率がまだ低かったことを如実に表わしている。また面白いのは、中国商人の役が登場し、ひどい中国語なまりのモンゴル語をしゃべることである。この映画が日本で翻訳されるにあたり、モンゴルから送られてきた台本ではこの役のせりふだけはすっぽり抜けていた。これは現在のウランバートルでは「チャイナタウン」が跡形もなく消え、ウランバートルのモンゴル人たちは中国商人たちの中国語なまりのモンゴル語をもう耳にすることがなくなり、それを聞き取るのは無理だということを意味する。さいわい、私が育った内モンゴルの遊牧地ではそういうモンゴル語を話す漢人がちらほらいたので私にはそのせりふが何を言っているかだいたい判断できた。しかし、驚いたことは、私がその翻訳の直後にエレーンというモンゴル国と接する中国側の国境の町に行った時のことである、、今や内モンゴルの人たちとはモンゴル語で話そうとしない中国側のビールや西瓜売りのおじさんたちが、モンゴル国の人たちを相手に映画に出てくるあの調子のモンゴル語で商売に励んでいる風景であった。これもまた時代を感じさせるものである。

この映画を語るにあたって、内モンゴル出身の人にとって言い忘れてはいけないことがある。主人公のツェヴェーンは内モンゴルに入ってからどこ行っても、ビーハルハ・フン(私はハルハ人だ)と言った。「ハルハ」とはモンゴル民族の一つの種族のことを指し、現在のモンゴル国は西部や北部の一部を除き、ほぼ全土がハルハ族である。それに対し、内モンゴル側にはチャハル、バルガ、ハラチン、ホルチン、オルドスといった多くの種族があるので、モンゴル人たちは互いにハルハ人、あるいはチャハル人、またはハルハ・モンゴル人、チャハル・モンゴル人と呼び合うのが当り前のことだった。しかし、今や1946年に中国から独立を認められたハルハ人たちは、内モンゴルの同族たちに対し、もはや自分を「ハルハ人」とは言わなくなった。同時に、内モンゴル側のモンゴル人たちをチャハル人、バルガ人などと分けなくなり、一括して「内モンゴル人」、さらには漢人とは区別のないヒャタド(中国人)という表現で呼ぶようになった。1945年8月10日、旧モンゴル人民共和国の国家元首であったチョイバルサンが対日宣戦の際ラジオ放送で、「日本の侵略下に苦しむモンゴルの同胞たちよ、バルガよ、チャハルよ、ハラチンよ、内モンゴル及びその他のすべてのモンゴル人たちよ」と呼びかけたことが、ハルハ人が内モンゴルの同胞たちをモンゴル本来の呼び方で呼んだ最後の一人だったかもしれない。それに対し、内モンゴルやその他の地域のモンゴル人たちは彼らのことを依然として「ハルハ人」と呼んでいる。

ツェヴェーンはまた行き先で自分のことをショローティーン・ツェヴェーンと紹介するものだった。現在のモンゴル国の人名の知識ではこのショローティーンは父称、つまり姓だと思われるであろう。しかしこれは決して現在の姓に当たる父親の名前ではなかった。遊牧社会では姓は必要がなかった。明治以前の日本人が姓をもっていなかったのと同じように。姓はモンゴルでも都市型の近代化が進むにつれ、狭い空間や狭い領域に集まってくる同じ名前の人たちを弁別するのがその主な目的だったといえる。内モンゴルがまだそうであるように、本来モンゴルでは名前の弁別にはその人の出身地などの地名が使われた。当然、これは法的なレベルの話ではないが、人口密度が低い草原ではそれは十分機能していた。知りもしない他所へ行って父親の名前を言ったとしても、その父親がよほど知名度が高い者でなければ何の意味もないので、むしろ地名を言ってあげた方がどこからやって来た人であるか余計な紹介なしで伝わるので合理的でもある。

こういう意味でツェヴェーンは内モンゴルのモンゴル人たちから見れば、古いハルハ人像として懐かしい存在である。残念なことにこの映画を見た内モンゴルのモンゴル人はまだ十単位にすぎないのである。

しかし、この映画の内モンゴルへの同胞意識こそ、その後のモンゴル人民共和国でこの歴史的な名作を問題作にしてしまったのだ。「モンゴルの息子」はそれを産んだ祖国でも長らく上映禁止になっていたのである。そのためとは思わないが、なぜか、モンゴル映画誕生のシンボル的存在であるこの「モンゴルの息子」は、その名前をモンゴル語で正確に記録されないままでいる。モンゴル人民共和国科学アカデミー歴史研究所編『モンゴル人民共和国文化史(1921~1940)』(モンゴル語)を始め、私が調べた範囲での文献ではすべてモンゴル・フー(息子)と記されている。そのせいか、この映画に触れるモンゴル国の映画人たちは誰もがモンゴル・フーと呼んだ。しかし、実際にはモンゴルイン・フーである。この「イン」(-un)は日本語の「の」に当たる語尾である。

名誉回復された「モンゴルの息子」にはさらに「名称回復」をしてほしい。

〔参考文献〕

(1)モンゴル人民共和国科学アカデミー歴史研究所編『モンゴル人民共和国文化史(1921~1940)』(モンゴル語)ウランバートル1981年

(2)モンゴル人民共和国科学アカデミー歴史研究所編 二木博史/今泉博/岡田和行訳 田中克彦監修『モンゴル史』恒文社1988年

(3)「モンゴル国立映画製作所の設立について」モンゴル人民共和国科学アカデミー『シネ・トリ』(モンゴル語、隔月刊)1937年1~2月

(4)モンゴル革命青年団中央委員会編『青少年百科事典』(モンゴル語)ウランバートル1983年

(5)KHUMUN BICHIG 1997.6.27. No.24(247)

(6)佐藤忠男編『アジアフォーカス福岡映画祭'93』アジアフォーカス・福岡映画祭実行委員会1993年

初出誌情報

フフバートル1998「映画:3.モンゴルの映画」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第7号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.74-79.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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