映画:タイの映画

小泉康一

1.

タイは古い伝統的な王国だが、映両の分野では比較的新しい。それでも最近、明らかにされた史実では、タイに最初に映画を伝えたのは1897年、西洋人(仏人?)だと言われている。おりしもちょうど100年前の6月10日、「バンコク・タイムズ」紙は社会面で、`映画の上映を報じ、上映されたパリ・シネマトグラフは、まさに奇跡であり、当時の上流階級や庶民、計600人がショーを楽しんだ、とある。

ところでその後、映画上映では、タイは日本ともいくらか関係がある。タイでは、かつては、映画のことを「日本(ジープン)」と呼んでいた。またタイのみならず、現在でもアジア映画の大作の多くは、実は日本で現像されている。

歴史的には、タイと日本の映画の関わりは、1905年、渡辺治水というマレーでゴム園を経営していた人が、映画技師の香山駒吉(吉沢商店)を伴ってバンコクを訪れ、「ロイヤル・ジャパニーズ・シネマトグラフ劇場」という、タイ初の常設映画館を建設、運営したことにある。この民間の一日本人経営の映画館は、大繁盛。ためにタイ人投資家が争うように映画館を建設したため、遂には競争に敗れて、10年後に廃館した。しかし、過去のエピソードとしては興味深い。当時のタイの映画製作技術は低く、劇映画は作ることができず、実写フィルムのみを製作していた。これがタイ映画産業の草創期の姿である。

今でこそ、タイではテレビ、ビデオの普及で、映画はかつての勢いはないものの、タイ庶民にとって映画は、以前は大衆娯楽の雄であった。バンコクでも、地方でも、繁華街の中には映画館があり、その前には巨大な総天然色のヒーロー、ヒロインの姿をあしらったペイント画の看板がある。否が応にも我々の目に飛び込んでくる。看板には、上映中の映画のタイトルとともに、当代の有名スターの名前が書いてある。タイではまた、映画ポスターは美術の一ジャンルとみなされており、国立美術館等で展覧会が開かれている。

2.

ここでごく大雑把に、タイ映画の歴史を辿っておこう。先のシネマトグラフの上映後、1924年にはハリウッドの映画チームがタイを訪れ、タイ国鉄ニュース映画部と共同で、恋愛映画「ミス・スワン」を作っている。この映画の原作者、脚本家はともに不明だが、タイ初の、そしてタイ人俳優だけの劇映画として記録にとどめられる。1927年、タイ経済が世界恐慌の影響で危機に瀕すると、政府から解雇された公務員の何人かが集まって、「タイ映画製作会社」を創立している。これはタイ初の民間映画製作会社である。しかし同社の製作作業が幾分遅れたため、タイ最初の劇映画製作の栄誉は同27年、別の民間映画製作会社「クルンテープ映画社」にとられている。両者はそれぞれ、映画を作ったが、いずれも35ミリ白黒サイレント映画。製作には両者とも、先の国鉄ニュース映画部の技術者と機材を使っている。

1927年、ハリウッドでトーキー映画が成功すると、1930年にはトーキーがタイにも伝わり、バンコクでもトーキー映画が上映された。その際、タイ人弁士(ふつう2~4名)がタイ語への同時通訳をしていたが、数年後にはハリウッドでサウンド・トラック・システムが発明されて、タイにも入った。

1937年頃までタイの映画は順調な発展を続けたが、1940年代に入ると第二次世界大戦の影響で、フィルムと化学溶剤が入手困難に陥った。資材不足でタイ映画製作者達は、16ミリカラー映画に着目。16ミリは、簡便さと低廉さが利点となって、製作本数は上昇を続けた。

戦後の1956年、新人男優ミット・チャイバンチャーが「虎の如く」でデビューすると、ミットは国民的スターにのし上がった。良き相手役女優ペッチャラー・チャオワラートも得て、この二人の俳優はタイ国民の熱狂的支持を得ることになる。タイの映画は、二大スター時代に突入する。

1967年には、「タイ映画製作者協会」が結成された。1970年に入ると、16ミリから35ミリに戻る重大な出来事が二つ起こった。一つは、ミット主演の35ミリ、ミュージカル映画「田舎の恋の魅惑」の大ヒット。二つ目は、そのミットが同年10月、撮映中に突然に事故死したことである。彼の死は、16ミリ時代の終わりでもあった。

1971年以降は、タイの映画は全て35ミリのシネマスコープとなる。35ミリというのは、今日の世界の商業映画界が劇映画製作の際、ほとんど用いるフィルムサイズである。年間200本程の映画を作るまでに成長したタイは、世界第10位の映画生産国となった。タイ映画の現在を知る上で、大きな変化が見られたのは、1970年代であった。

3.

映画館の周辺には、様々な食物の屋台が出て賑やかだ。もうもうと煙をあげる焼き鳥屋、アイスクリーム屋、コーラ等の飲物屋は氷を容器に手際よく入れてくれる。様々なお菓子を売る屋台もある。ポップコーン屋も大繁盛。みんなポップコーンとコーラを持って座席にすわる。食べながら映画を見る。会場の入口には、「紙やバナナの葉(食物を包む葉、包装紙がわり)、プラスチック袋を床に捨てるな」と書いてある看板があるが、あまりおかまいなし。食物は映画鑑賞の必需品である。映画の始まりか、終わりにはきまって「国王賛歌」(サンスーン・プラバーラミー)が流れる。観客は全員起立して、スクリーンにあらわれる国王陛下に敬意を示す。

映画館は全席指定である。チケットを買い、館内に足を踏み入れた時から、何か別世界にでも入ったよう。気持ちはいやが応にもワクワクする。足下の絨毯はぜいたくな気分にするし、外部の熱い世界から、一転して冷房のきいた快適な世界へ入る。映画館は庶民にとって、辛い厳しい日常から、非日常の楽しく、幸せな世界へと簡単に移動できる、得がたい場なのである。

今でこそ、デパート、ショッピングセンターに入れば、冷房は当たり前であり、それはかつてのように、珍しく、貴重なものではなくなったが、以前、庶民が簡単に快適さを手に入れることができたのは、映画館であった。館内に入ると、暗い中を案内人が懐中電燈をもって先導してくれる。大方が、座席付近を遠くからそっけなく、ピカピカと照らしてくれるだけで、よくは座席がわからない。目が闇になれ、周りを見回すと、若いカップルが多いことに気がつく。学生同士、友人同士、恋人達と様々だ。彼らにとって映画館は、今でも安い値段で二人だけの時間を過ごせる手ごろな場所だ。

タイ映画は現在、年間30本位作られている。それに対し、外国映画は数が多く、年間300本程公開される。タイ映画30本のうち、「ファイブ・スター」のような大手の映画会社が年間10本、あとはいろいろな映画会社、独立プロが製作している。製作資金は借金で手当し、経営基盤も不安定である。大手のファイブ・スターだけは経営も安定し、直営の映画館で作品を上映している。

1970年代末、映画館はバンコクに大小合わせて50ヵ所ほどあり、その4分の1は収容人員が1000人を超える規模であったが、テレビ、ビデオの普及で随分と廃業した。1980年代に入ると、タイの映画館では観客動員数の減少が目立ってきた。1976年の軍事クーデター後に設けられた、高い関税障壁で外国映画は姿を消したものの、代わってテレビ産業が伸長してきて、強力なライバルとなった。そのあおりを受けて、私が、タイに滞在した1970年代初め、その前を幾度と なく通った、往年のなつかしい映画館が消えていった。

映画の描写で一般に問題となるのは裸の出る映画だが、"仏教の国"タイでの性描写は意外と自由。暴力シーンへの規制も最近はあまり厳しくない。昔も今も検閲にひっかかるのは、主に宗教的なこととか、王室関連の事柄である。しかし近年は、事前に話し合いで解決されているようだ。

4.

以前のタイ人の娯楽は、映画を除けば、白黒テレビ、ラジオ、競馬、タイボクシング、トランプ等の賭事、レストラン・クラブで食事をしながらのショー、中国芝居のギィウ(潮州語で演じられる潮劇。アユタヤ時代からある。1950年代から60年代初頭が最盛期だったが、香港映画の隆盛で急激になくなった)、マレー伝来の庶民の芝居リケー、マッサージパーラー、……が主なところ。田舎ではこれに闘虫、闘魚、闘鶏、闘牛のような賭事、影絵芝居、ニターンという紙芝居(主として子供相手)が加わった。

地方では殊更、娯楽の場所・手段が少なく、せいぜい県庁所在地に映画館がポツンとあるだけ。あとは何もない。農村部では、寺の縁日などに、境内や空地で上映される(ナン・クラーン・プレーン)や、薬の販売を目的に人を集めるための映画上映(ナン・カーイ・ヤー)が盛んだった。彼ら商人は中古フィルムをバンコクの中国人街ヤワラードで手に入れた。私が1980年代初めに住んだ南タイでは、死人の弔いのための映画上映もあった。空地に映写幕を張り、付近の人々に無料でみせていた。それに対し、商業ベースで入場料をとって見せる、屋外映画もある。彼らはトラックでやって来て、広い空地を見つけ、周囲に幕を張りめぐらし、まず空間を確保する。次に、朝早くから、宣伝自動車が近隣の町村を拡声器でふれ回る。会場では音楽がひっきりなしに流れ、夕方になると付近の男女が家族つれで、三々五々、映画見物にやってくる。屋台がどこからともなく集まって、にぎにぎしくなるのは都会に限らず、どこも一緒である。上映されるのはタイ映画が多いが、外国映画も地方にいく。バンコクのサームヤーンにある中国映画の人気はいまひとつだが、出舎では中国、香港の映画が多く、一番人気がある。興行は地方の場合、こうした巡回興行が主流だが、テレビの普及した今の農村の子供には、かつての野外映画も年配者から聞く、「昔話」の一つとなりつつある。

5.

銀幕のあこがれはやはり、女優である。タイ映画の黄金時代、スター女優は誰もがその美しさを認め、心酔する程の選ばれた女性であった。但し、ストーリーの流れは単純であるために、映画の中でのトップ女優の役割は、その美しさで男性を魅了するが、悲恋におわるか、復讐に訴えるかで、いくらか型にはまってしまった。

しかし、社会の動きを反映して、現代の女優はこれまでの紋切り型から抜け出て、新しい女優像を作り出してきている。経済的な豊かさが広まり、娯楽手段が多様化して、タイの国産映画が娯楽の頂点からすべり落ちた時、今までの紋切り型は廃され、国民各層の様々な好みとニーズにマッチする、新たな女優の役割が求められるようになった。人々の好みは多様なので、女優のタイプも一つだけでは、人々の満足が得られない。つまるところ、女優の型は多様化し、大勢の女優が求められ、層は厚くなる。欧米映画に登場する個性的な女優像も、タイ人の女優観を変えることになった。今や「タイらしさ」より、西洋化した方が現代の都市住民には受けがいい。

タイでは俳優が所属するプロダクション、映画製作、配給さらに音楽製作業界までも日本ほど細分化していないので、スターは比較的活動が自由。俳優と歌手の兼業は、日本以上に盛んである。また受賞フェスティバルが沢山あり、映画だけでもスラサワディー賞、ピラミッド・アワード、ナショナル・フィルム・アワード……等々があり、みんなが熱狂してこれを見ている。

6.

ところで、映画を衰退に追いつめた元凶の一つに、家庭用ビデオ機器の普及と、ビデオ・レンタル業の急速な発展がある。1980年代、家庭用ビデオはものすごい勢いで普及し、その上映を売り物にする喫茶店やレストランが繁盛した。ビデオによる映画上映が、あっという問に都市住民に広まった。一般家庭にビデオ機器が普及すると、人々の足は、急速に映画館から遠ざかった。先述の名のある映画館は閉鎖か、商売替えして、その後には時代の最先端をいく豪華なショッピングセンターが続々と建てられた。その内部には、装いも新たにミニシアターが誕生した。映画館のスタイル自体が変わってしまった。

ビデオ店で売られたり、レンタルで借りられるのは、9割以上が欧米、特にアメリカの最新映画である。タイ娯楽映画がわずかに売れている程度で、名作、社会的テーマの作品は人気がない。海賊版テープの販売が公然と行われ、1本600円位、レンタルなら1本1週間で100円弱と非常に安い。しかし録画技術が悪く、画面の鮮明度は低く、中には途中で切れたりするものもあるが、タイ人は一向におかまいなし。一般の人々に広く、受け入れられている。

7.

肝心の映画の中味だが、目本ではもはや、死をかけても、という一途な愛をテーマにした純愛映画はないが、タイにはまだ存在している。中には、こちらがあきれてしまうような甘ったるい作品もないではないが、それもご愛嬌。その他、タイ映画に共通しているのは、何かしら「教訓」めいたものが必ずみられることである。仏教的世界観が下敷きになっているものも多い。

とはいっても、タイ人には映画は気楽に、楽しみに見るものとの考え方がある。休養し、気晴らしに見るものである。見る側は、俳優が美しい衣服を身に着け、西洋式の大邸宅に住み、外車を乗り回し、美しい風景で名高い観光ポイントでラブロマンスしてくれれば、それでよかった。涼しい快適な空間で、映画館の良さが十二分に堪能できるからである。

製作側にも安易さがみられた。競争相手がいないため、できるだけ安く、映画を作ろうとした。その結果、話の筋は一貫性に欠け、ただ冗長で退屈な場面のみが延々と続くことになった。恋人同士は結ばれることなく、最後には死んでしまうという、あまり現実味のないメロドラマばかりとなった。

娯楽映画は「ナム・ナオ」(腐った水)と嘲られ、今でもインテリの中には、自国の映画を「ソープ・オペラ」と軽視して、見ない傾向がある。年配の人達は家でテレビやビデオを鑑賞して、映画館には足を運ばない。若い世代はタイ映画より、ハリウッド映画を好み、その結果、バンコクの封切り館はハリウッドや香港映画を上映するのみ。タイ映画の多くは上映館を見つけられず、市場への機会を失いがちとなっている。

タイの映画ファンは、今やほとんどが少年少女である。観客層の低年齢化で、若者に的を絞ったヤング・アイドル系の女優が活躍し、青春映画が全盛である。その代表はバンディット・リッタコン監督の大ヒット作「ブンチュー」シリーズ。ブンチューは、ちょっと間抜けでお人好しの大学生。彼が主人公の学園ラブロマンスものである。ヤング・アイドルの進出で、映画は若者にぐっと近づいた観がある。

但し、これまでのタイ映画がメロドラマばかりだったというのは、必ずしも正しくない。例えば、貧しい東北タイの人々の人生を扱った「東北タイの子」、山岳民族の恋物語を描いた「山の民」、タイ南部の少年少女が新しい生活に挑む姿を描いた「蝶と花」……等々があり、見る者をうならせる。「東北タイの子」は、原作は1979年東南アジア文学賞を受けたカムプーン・ブンタウィーの小説。貧しい村にとどまって頑張る大家族の話だが、タイでは教科書に載るほどポピュラー。この映画は1983年、マニラ映画祭で賞を受賞した。タイの映画監督たちは実によく小説を読む。題材のヒントを得るためもあるが、映画は原作の長編小説の映画化である場合も数多い。

ところでこうした映画は、1970年代後半に出現した、いわゆる「社会派映画」の流れに属する。タイでは1973年の学生革命に始まり、1976年軍部の反クーデターで、つかの間の民主化の時期が終わるまでの三年間、短かったが「民主主義の時代」があった。この時代が終わると、社会的テーマ性を持った従来とは異なった新しい映画があらわれてくるようになった。都市、農村を問わず、国中に蔓延する社会的不正を告発した一連の作品群である。例えば、「田舎の教師」は、バンコクを中心に6ヵ月のロングランという、タイ映画史上の空前の大ヒット作となった。また「タクシー・ドライバー」(1977年)は、バンコクに暮らす東北タイ人と経済発展で出現した新しい都会人との闘いを設定している。テーマ性もさることながら、その中で、長年社会的に蔑視されてきたタイ東北部、その中の貧困地域からバンコクに出稼ぎに来た人々の言葉、東北タイ・ラオ語を原語のまま使い、標準タイ語への吹き替えはしなかったことが、これまでにはないことであり、新鮮であった。同様なジャンルのものに、「バー21の天使」(1978年)、「社会の周辺で」(1981年)等、社会の底辺の人々に光をあてるものが、数多く登場して来た。

これらの映画は従来、中心となっていた映画本来の娯楽性がとり除かれ、新しい潮流を作った。社会のいきづまりから、ともすれば自棄的で破滅的傾向に走りがちな中で、そうはならず、タイの伝統に根づいた人間の情の豊かさと、素朴だが人をひきつけてやまない輝きを示した。映画人の健全な心と作品のういういしさと言ったらよいであろうか。ともすれば、見失いがちな真情あふれる温かい心と、人間の持つ強い生命力や人のあり方を今一度、私たちに考えさせてくれる。それが、我々にも共感を呼ぶ。

観客の反応も、確実に変化した。楽天的で、映画に楽しみを求める以前のタイの人々の心は、深刻で暗く、悲しく、重いテーマに移動し、全く異なったものにも反応するようになった。とはいうものの、しかしタイの人々の多くは依然、映画に娯楽性を求めており、わざわざお金を出してまで、暗い気持ちになりたいとは思わない。興業成績では、社会派映画は大衆受けしない。社会派映画の比重はまだまだ小さいし、上映回数が少ないことも事実である。

8.

1980年代初めから、タイ映画界の景気は下降する。製作本数も急速に減少。頼みの関税障壁も外国映画から自らを守る手段とはならなくなった。タイ映画は事業運営が困難になってきた。折りしも、1980年代半ばからの経済発展で、バンコクの町は日々、急速に変貌している。タイの丸の内シーロム路は、私がいつ出掛けても工事のクレーンがせわしなく動き、建物がとり壊され、高層ビルに建てかえられている。どんどん開発が進むバンコクに比べ相対的に地方の発展は遅れている。不均衡な経済発展の中で、都市と農村の格差は拡大。その差は拡がるばかりだ。

都市には80年代、新しい市民階層の台頭がみられ、人々の意識も急速に変化している。80年代を通じてタイ社会に生まれてきた新しい流れは、経済的に農村部がとり込まれ、その過程で特に農村の若者が都市化し、文化的アイデンティティーの一層の画一化が進んだことである。その反面、タイ経済の成長は、テレビの普及よりも何よりも、タイ国民の価値観を多様にした。観客の好みも多様化し、映画は生き残りのために、映画そのものの質が試される時代に入った。

今日では、映画のテーマは、貧困、売春、麻薬、古い政治システムといった社会性を持つものはほとんど姿を消した。代わりに、社会と個人の対立、環境破壊、失われた共同体への回帰といったテーマが、主流となってきている。今やきびしいリアリズムの追求が始まったと言える。

9.

日本でも遅まきながら、タイ映画の紹介が行われるようになり、国際交流基金、NHK等で放映されるようになってきた。国際交流基金は1979年、バンコクで日本映画上映会を開いてから、タイ映画人との交流を重ね、1982年秋、日本全国15都市で「南アジア映画祭」を開催、その中でタイ映画を本格的に紹介した。1988年に同基金はまた、東京で、アセアン映画週間を主催している。そうした中で、タイの映画人も頻繁に日本を訪れるようになり、監督、俳優の名前も徐々に、日本人に知られるようになってきた。

10.

現在のタイ映画は、映画界での監督の世代交代がみられるし、扱うテーマも世相を反映して、上記のように大きな変化が見られる。時代の複雑化で、以前の大衆娯楽映画一本槍の時代から、少数派とはいえ、社会派映画を経て、リアリズムの時代に入っている。社会派映画を通して、タイ映画には新しい才能が生まれた。タイ映画が生き残るためには、今の時代は様々な個性と才能を持った監督が必要だと言われている。事実、映画人は競って自らの力量と才能を存分に花咲かせる時期に到来している。タイの映像は評論家の言を待つまでもなく、総じて柔らかく、優しいのがその特徴である。背景には、タイならではの豊かさ、大らかさがある。映画をとり巻く状況は、何もタイに限らず厳しいものがあるが、その中から今後とも、良質の映画が生み出されてくることを期待したい。

〔参考文献・資料〕

凱風社編集部編、「サザン・ウインズーアジア映画の熱い風」、凱風社、1992年。

国際交流基金アセアン文化センター、「タイ映画祭」、1990年。

国際交流基金アセアン文化センター、「東南アジア映画祭」、1992年。

>山田均、「タイ、こだわり生活図鑑」、トラベルジャーナル社、1995年。

その他。

※小稿出筆に際しては、宇戸清治・東京外国語大学助教授から、貴重な資料の提供を得た。記して感謝の意を表わしたい。

初出誌情報

小泉康一1998「映画:6.タイの映画」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第7号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.89-95.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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