姓名論雑考:インド

篠田 隆

姓名論は社会論、国家論と深くかかわっている。姓名の構成、表示内容、命名法、登録・変更手続きには個と親族間の関係、地域社会における姓名の表示機能、権力による個の把握方法などが反映されている。姓名論は当該社会の基本構造の理解を前提とするだけに、第三者とりわけ外国人研究者にとっては近づき難い分野となっている。さらにインドの場合には、姓名についても宗派、カースト、地域間格差が大きく、包括的に論ずるのが難しい。それ故、ここでは筆者が以前生活したことのある西インド・グジャラート州の事例を中心として、姓名にまつわる若干の問題を素描する。

姓と出自

まず、姓について。

インド人の姓は通常、個の出自に関するさまざまな情報すなわち宗派、地縁・血縁関係、ヴァルナとジャーティ、伝統的職業などを表示している。宗派については、複数の宗派が共有する姓も若干は存在するが、通常は分離しているので、姓により個の所属する宗派が識別できる。例えば、Khan、Sacha はイスラーム蜘走、Bhatt、Thakor はヒンドウー教徒、Kothari、Patwa はジャイナ教徒という具合である。

カースト体制の基本的特徴の一つにカースト間分業関係があり、各カーストは固有の伝統的職業と結びつけられていた。また、多数のカーストを大まかに序列づけるためにヴァルナ(4階級)の枠組が利用された。姓の多くは特定のジャーティに固有なものであり、それ故、姓を通して、ジャーティとその伝統的職業、ヴァルナの位置が推測できるのである。例えば、Gandhi の伝統的職業は雑貨商であり、ヴァルナはヴァイシャである。Desai は郷主の身分に由来し、ブラーマンである。Patel は当地の支配的土地所有カーストであるパーティーダールの代表的姓であり、クシャトリヤに属す。

さらに、これら諸カーストは特定地域に集中しているので、姓から出身地方を推測することも可能である。地縁や伝統的職業を示す姓の多くは接尾語 wala(場所、職業を示す)をともなっている。Khantawala(棘のある木の繁る地の意)、Lakdawala(材木屋)、Dantwala(歯医者)、Daruwala(酒製造人)など。

以上のように姓と出自は基本的に対応する構造になっているのだが、例外も少なくない。特に20世紀に入り活発になった低カーストの社会的上昇運動の中で、有力カーストの姓の模倣がさかんに行われた。姓と出自の対応関係があればこその改姓運動であった。低カーストの多くはクシャトリヤの枠への上昇を目指し、クシャトリヤに特有な Vaghla、Makvana などの姓に改めた。姓名登録システムのルーズさが改姓を容易にしたが、改姓の社会的効果は全般的に僅少であった。

ちなみに、Vaghla や Makvana は現在、低カーストの代表的姓として理解されている。

少数ではあるが姓をもたない集団も存在する。その場合の姓名の構成は男子と未婚女子の場合、[(自己の名)+(父の名)]、既婚女性は[(自己の名)+(夫の名)]となっている。当地では兄弟間均分相続が一般的なので、財産は姓とともに男子成員に引き継がれてゆくのだが、彼らの場合は第3世代目には血縁・相続のつながりは姓名のうえでは途切れてしまう。北・西インドで一般的な[(自己の名)+(父の名)+(姓)]の組み合わせの変形とみることができよう。[(自己の名)+(父の名)]の構成であっても、小地域内では宗派やジャーティなどの出自が了解されているので、不便は生じていないようである。

命名法

母と赤子(農村)

次に名について。

名称決定のパターンはいくつかあるが、現在でも最も強い影響力を保持しているのが、星宿(r?shi)による名称決定である。星宿は生誕時の12星の位置関係によりきまる。生誕の日時、場所の情報に基づき、通常は占星人(Joshiが代表的なカースト)が星宿を告げるが、大都市では一部コンピュータセンターでもこのサーヴィスを行っている。西洋占いの星座とは異なり、同日内であっても時間帯により星宿はかわるので、正確に生誕時間を伝える必要がある。

各星宿にはおのおの2~4個の縁起のよい文字が付属しており、星宿が決定すると、それらの文字のいずれかを頭文字とする名称を探すことになる。ちなみに、天秤座はr、tの2文字、水瓶座は g、sh、s の3文字、射手座はbh、dh、f、?h の4文字である。使用される33文字は12星に分散し重複していないので、名称の頭文字から逆に星宿を知ることができる。知人のグジャラート人老若男女20名ほどに名称の由来を尋ねたことがあるが、例外なく星宿に基づいていた。

他のパターンには、1. 先祖、2. 神名・神話の登場人物、3. 著名人とりわけ映画スターからの借名がある。神名では Shiv、Krishna(男子)、Uma、Laxmi(女子)、『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』などの英雄叙事詩からは Bharat、Shatrughan、Bheem(男子)、Sita、Sumitra、Jashoda(女子)などが借用されている。昔の映画スターでは Rajesh、Dilip(男子)、Hema、Rekha(女子)、新しいスターでは Sunny、Jeki(男子)、Tina、Nilam(女子)などの人気が高い。

借用の場合でも星宿は考慮されており、星宿固有の頭文字で始まるものに通常は限定されている。星宿を無視した命名は非常にまれである。日本と異なり姓名の統計がとられていないので定量化はできないが、人気名には変化がみられる。特に、都市部の上流中流階級の間で、固有の意味をもたないが響きのよい名前、西洋化した名前が好まれるようになっている。星宿を基礎とした従来からの『命名本(n?m?v?l?)』のほかにファンシーな名前を収録した『命名本』も市場に出回るようになっている。

姓名登録と改姓

当地では生後2週間以内に病院からの出生証明書を添えて地方自治体に出生届を提出することになっている。その際、保護者(通常は父親)名と新生児の性、生年月日を伝えるだけで、新生児の名前は登録されない。この間、生後6日目には伝統的な命名式(cha?h?h?)がとりもたれる。命名式の主役は父方の姉妹(f??b?)であり、新生児の星宿に基づき若干の候補名を準備する。これらの中から家族が最も気に入った名前を選択する。姉妹不在の場合や候補名が気に入らない場合は、家族が独自に名前を決定する。命名式で決定された名前は地方自治体に登録されないが、通学の開始とともに教育機関に登録され ることになる。

これとは別に、家族、親族、知人、友人の間でのみ通用する愛称をつけるのが一般的である。男子には Munna、Pappu、Bulbul、女子には Guddu、Munni、Pinkiなどの耳ざわりのよい愛らしい愛称が与えられる。結婚時まで家庭内で愛称を使用することも珍しくない。

教育機関では命名式による名前が使用されるので、名称の使い分けは相当期間継続することになる。公共の場では学校への登録名が機能するのだが、第10学年までは姓と名の変更は容易である。進路、専攻の振り分けを行う第10学年の統一試験で使用する姓名が公式の姓名として社会に認知されることになる。認知されてからの姓名の変更は裁判所の認可、数回にわたる新聞広告などの手続きを必要とするが、日本での改姓に比べるとはるかに容易である。第10学年まで進学しない階層、すなわち都市部の下層民や農村部の大多数の人々は、小学校への登録名あるいは選挙人名簿に記載された姓名が公式のものとなる。

出生・死亡届、姓名登録のシステムとこれらの実際の機能には、国家と個の力関係が反映されているとみることができよう。出生・死亡届の不完全さ、姓名登録システムの統一性の欠如、姓名変更の自由度の大きさ、公式名と愛称の長期間にわたる並存などは、国家が個を十分に把握しきれていない状況を如実に示している。この状況は国家権力の相対的な脆弱性を示すと同時に、権力による個の統一的な把握を妨げる諸要因、例えばカースト、階級、地域、都市―農村間格差などがいかに大きいかをも示している。かような状況は経済発展には不利に作用するかもしれないが、戸籍制度に縛られ窒息寸前の国民には羨ましく思えたりするのが不思議である。

初出誌情報

篠田 隆 1991「姓名論雑考:8.インド」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第1号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.91-93.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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