タブー、マナー、エチケット:
パーキスターン―食事のタブーと女性への儀礼

片岡弘次

(1)肉食タブー

どこかの国へ行ってしばらく生活すると、その国のことがすべて分かってしまうような気がする。しかしかえってそれでは見えなくなってしまう部分もある。パーキスターンの人が嫌うものは、パーキスターンに行って見るよりは日本にいるパーキスターン人と接した方がよく分かることがある。

パーキスターンから来た人と一緒に食堂に入ると、どれが豚肉が入っていないかとまず聞かれる。パーキスターン人のほとんどがイスラーム教徒であり、イスラーム教では豚は食べてはいけないことになっているからである。この位のことなら誰でも知っているので言われなくても注意をし、ショーウインドーの中から一生懸命になって豚肉の入っていない料理を探す。そしてたいてい魚や野菜のてんぷらあたりで落ちつく。

毎年1年生の履修届けが終わり、ウルドゥー語専攻のクラスができると、5月か6月にウルドゥー語専攻の学生に家に来てもらって、偽パーキスターン式のカレーを食べてもらうのがここ数年の慣わしになった。

今の4年生が1年生のとき、家に来てくれたときのことである。上級生も含めて12,3名の学生が来てくれた。キャベッのカレー、ナスのカレー、鶏肉のカレー、それにサモーサーもあった。1年生には辛すぎたらしかったが、うまいうまいと言い瞬く間にたいらげ、なべをひっくり返して残りをかき集めるほどだった。

翌週イクバール先生にこの前のカレーの味はどうだったかと聞いてみた。ナスのもキャベツのもうまかったと言ってくれた。じゃあ鶏のはと聞いた。すると食べなかったと言う。せっかく作ってあったのに、みんなもうまいと言ってくれたので「どうして」と言ってしまった。だが「どうして」と言いながら馬鹿な言い方をしてしまったとも思った。と言うのは、パーキスターンやイスラームのことを勉強している者なら当然、豚の肉ではなくとも、他の肉の場合でも食べない人がいるということ位、知っているべきことであるからであった。1994年2月、現代アジア研究所の招聰研究員として来られたカラーチー大学のハスニー先生にも同じようなことが起った。

ハスニー先生は大東会館に泊まり、毎日東松山に来ることになった。ちょうど春休みが始まったときで大東会館で夕食は取れなくなった。

帰りしな家に寄ってもらった。豆のカレー、鶏肉のカレー、ジャガイモのカレー、鶏のから揚げ、すし、サラダ、チャパティー、サンドウィッチと何か変な取り合わせだったが大分できていた。

「先生、うんと食べて下さい」と何度も言った。だがハスニー先生は「少食なので」と言いながら、野菜や豆のカレーとチャパティーしか食べない。肉が食べられなくて力が出ないと、学校であれほどこぼしていたのに鶏のから揚げや、鶏のカレーには手を付けようとしなかった。

3年前のイクバール先生のときのことがまた起ってしまった。朝、出がけに魚のフライでも揚げておくように言っておかなければならなかったのだ。だが以前に来た先生はみな、鶏のから揚げも鶏肉のカレーでも平気で食べてくれた。

ハスニー先生は2ヶ月の滞在予定なのに、わざわざ『クルアーン』を持って来た程のイスラーム教徒であった。その『クルアーン』には、「かれはただ死肉・血及び豚肉、ならびにアッラー以外の名が唱えられ屠殺されたものを禁じたもう」(第16みつばち章26節)とちゃんと書いてある。そこでハスニー先生もイクバール先生も豚肉以外だからと言って安心して日本では食べないのである。それはわれわれが食べている肉は屠殺されるときにアッラーの名が唱えられていないからである。

何年か前、ワゴン車に肉を積んで原宿や渋谷で売っている写真が新聞に載った。ちょうど日本にアジアや中東から来る出稼ぎ人が多くなりだした頃である。なぜそんな所で肉を買う必要があるのかと思ってしまった。だが新聞をよく見てみると売っている人も買う人も日本人ではなく中東やアジアから来た人たちで、みんなイスラーム教徒であった。スーパーの肉を買って食べられない人たちが取った苦肉の策が新聞で紹介されていたのだ。

当時と較べると日本にいるパーキスターン人の食生活の難しさも今は大分楽になったように見える。東京や東上線沿線にもパーキスターン人専門の店ができたからである。そこでスーパーや普通の肉屋では手に入らないイスラーム式で屠殺され処理された肉が手に入るからである。

同じ嫌われるものでも酒のことはパーキスターンに行っている方がよく分かる。われわれが日本で会ったり見たりするパーキスターン人の数はそれ程多くない。しかしそれらの人たちが日本に来て酒の味を覚え、飲んでいるのを見れば、パーキスターンでも人々は酒を飲んでいるだろう、とついつい思ってしまう。だがパーキスターンではどこを探しても今、酒屋が見当たらない。人々は酒とは無縁の生活を送り、酒は忌むべきものと教え込まれている。だがその教えがかえって酒に対する関心を持たせているらしく、向こうにいると日本では子供や女子まで酒を飲むのかとよく聞かれる。

パーキスターンでは通りに沿った塀や建物に大きな字でよく落書きがしてある。選挙のときなどとくにひどく、落書きを見るとそのときどきの人々の様子が分かる。「シャラーブ、ムルクコ、タバーカルター、ハイ、酒は国を亡ぼす、か」と塀の前に立ち止まり、声を出しながら私は落書きを読んでいた。すると後ろから「トウバー、トウバー」(くわばら くわばら)と声がするので振り向くと、耳をふさぎながら男がわきを通り過ぎて行った。私は何か悪いことでもしていたかのような感じにとらわれ、その男の後ろ姿に目をやりながら、これ以上立ち止まっていてはいけないのだという妙な気持ちになったことを今でも覚えている。その男は少し極端だったかもしれないが、酒という言葉を耳にすることも嫌だったのである。

学生のとき、カラーチーで友達の家へ行ったときのことである。夕食に呼ばれた訳ではなかったが帰るのが遅くなり、夕食時になってしまった。帰ろうとすると食事をして行けと言う。あまり強く言われるので帰るに帰れずご馳走になっていくことにした。食べるときになり、その家のおじいさんだったと思うが、「あなたは酒を飲むのか」と私に聞く。幾らか飲むと言うと、そのおじいさんは、「じゃ私は別の所で食べる」と言って、別の部屋に行ってしまった。これも少し極端だったかもしれないが酒を飲む人と一緒に食事をすることでも敬度なイスラーム教徒には耐えがたきことらしい。

パーキスターンでは人口の98%がイスラーム教徒である。すなわち会う人のほとんどすべてがイスラーム教徒であると考えておくのが無難である。そこではイスラーム教の聖典『クルアーン』が人々の日常生活の指針となっている。その『クルアーン』では酒が禁じられている。とすれば私の後ろを耳をふさいで通り過ぎた人も、私と一緒に夕食を食べないと言った人も理由のない訳ではなかった。

だがイスラームの教えの中では初めから酒が禁じられていた訳ではない。いくつかの段階を経て、禁じられることになった。第16みつばち章67節は「またナツメヤシやブドウの果実を実らせて、なんじらはそれから強い飲物や、良い食料を得る。まことにそのなかには、理解ある民への1つのしるしがある。」とあり、酒は人間に対する恩恵とされている。それが第4婦人章43節で「信仰する者よ、なんじらが酔ったときは、己れの言うことが理解できるようになるまで、……礼拝に近ずいてはならぬ。……」と礼拝のための注意となっている。第2雌牛章219節では「かれらは酒とかけ事にっいて、なんじに問うであろう。言え、それらには大きい罪があるが、人間のために益もある。だがその罪は、益よりも大である。……」と酒の害悪を大きいとしている。全面禁止にする課程を第5食卓章90節で「……なんじら信仰する者よ、まことに酒とかけ事、偶像とくじ矢は、忌みきらうべき悪魔の業である。これを避iけよ。おそらくなんじらは成功するであろう」、さらにその後の91節では「悪魔の望むところは、酒とかけ事によって、なんじらの間に、敵意と憎悪を起こさせ、なんじらがアッラーを念じ、礼拝をささげることを妨げようとする。それでもなんじらは慎まないか」として、酒は人間の問に敵意と憎悪をあおり、神を忘れさせ、礼拝を怠らせる悪魔の業ととらえられ、全面禁止となった。

(2)女性

パーキスターンで誰か人を訪ねて行ったとき、ときどき変な感じに襲われることがある。「ごめん下さい」と言って家の中へ入って行くと、家のなかに人がいる気配がするのだが誰も出てこなかったりする。

大分前になるが、インドのカーンプルで人を訪ねて行ったときのことであった。その人の家族は71年の末、カラーチーの親類に来ていたがイン・パ戦争でインドへ帰れなくなっていた。その家族はカラーチー大学のある先生の親類で、先生の家に行くとその家族とも先生の家族と同じように何でも自由に話した。

戦争が終わりその家族はインドへ帰った。その4年後、インドへ行くことがあり、カーンプルにあるその人の家を私ともう一人の日本人とともに訪ねて行った。出て来た人はカラーチー時代とは見違えるほど大きくなってしまった息子だった。そしてお父さんは今いないから少し待っていてくれるようにと言った。長い間待ってようやく帰ってきた。しかしその間、戸の後ろの方でカタオカだカタオカだと女の人や子供の声が聞こえてきた。戸の隙間からこちらを覗いているのも分かった。奥さんらしき人もいた。だが目の前に現われてはくれなかった。4年の歳月が私をアカの他人にしてしまった。

パーキスターンやインドでなく、この日本でも同じようなことをつい2,3年前に経験した。パーキスターンから来た人であったが、その人の家へ行き一緒に食事をしても、奥さんは台所でチャパティーを焼いているだけで、一度も顔を出さなかった。3年間日本にいたが、その間とうとう一度もその奥さんの素顔を見ずじまいだった。

マンションの7階に住むその人を訪ねて行ったとき、たまたま奥さんしかいなかった。私であることが分かりドアを開けてくれた。だが目しか見せないチャードルを被って、ドアを半分あけ、ドアの所からぬっと顔を出してきたので、私の方が驚いてしまった。「ナンゲー・デカーナー・グナー・ハイ(肌を見せるのは罪である)」の言葉を覚えたのはカラーチーで先生の家の7歳の女の子からであった。前庭で遊んでいるとき、飛び跳ねた拍子にその子の腹が見えてしまった。私の他に誰もいなかったが、服を直し笑いながら私に向かってそう言った。

イスラーム国のパーキスターンでは子供のときから親がそういうふうにしつけるのであろう。そしてやがてみだりに顔などを見せなくする女性隔離へと進むのである。

『クルアーン』第24み光り章31節は次の通りである。「信者の女たちに言え、かの女らの視線を低うし、貞淑を守れ、外に現われるもののほかは、かの女らの美や飾りを目だたせてはならぬ、それからヴェイルをその胸の上にたれよ。己れの夫または父のほかは、かの女の美や飾りを現してはならぬ、なお夫の父、己れのむすこ、また己れの兄弟、兄弟のむすご、また自分の女たち、自分の右手の持つ奴隷、また性欲をもたぬ供回りの男、または女のからだに意識をもたぬ幼児のほかは。またかの女らの飾りの隠れたものを知らしめるため、その足で地を打ってはならぬ」33連盟章59節にも次の通りある。「予言者よ、なんじの妻、娘たちまた信者の女たちにも、かの女らに長衣をまとうよう告げよ。それで認められ易く、悩まされなくてすもう。アッラーは寛容者、慈悲者であられる。」

パーキスターンでは程度の差はあるが女性が顔や手以外、頸や胸、腕をあらわにすることは基本的に禁じられている。家庭内においても女子の住む所は決められている。このようなことは女性の自由を束縛するように見えるが、実際はパーキスターンの社会で女性を保護することにもなっている。その一例はバスの中である。パーキスターンのバスは、前の方が女性用である。バスが混み、女性が後方に来はじめると黙っていても男性は立って女性に席を譲らなければならない。もし譲らないで知らない顔をしていても、次の停留所まで座っていられない。周りの人達が後ろから肩を小突き出すからである。私はパーキスターンではできるだけバスの混み合いそうな時間には決してバスの前方の席に座らないことにしている。いつ女性が乗って来るか分からないからである。

(3)パーキスターンでの食事作法

インドやパーキスターンと言うと、二言目には、向こうの人は手で食べるのですかと言う。そしてその言葉の中に何と不衛生な、何と粗野なという意味が込められている。だが初めて暗い道を誰かと手をつないで歩いたことを思い出してみると、手の神経がどんなに鋭敏なものかすぐ分かる。

インドやパーキスターンの人たちは1つの食べ物を2度味わって食べると言われている。1度は右手で、1度は口でである。だが左手は決して使わない。それは「シャイターン・キ・ハート」と呼ばれて悪魔の手とされているからである。

食べ終わると残りのチャパティーでカレーの皿をきれいにしてしまう。食べ散らかし残して平気な顔をしている我々は大いに見習うべきことである。

薄暗いホテルの椅子に座り、ローティーとカレーを食べ、ローティーを残してしまったことがあった。食べ残しをそのままにしておいては悪いと思って、外のゴミ箱に捨てに行った。もとの席に戻り紅茶を飲みはじめると、脇で黙々と食べていた油だらけの男がすっと立ち上がって外に出て行き、私の食べ残しのローティーを籠に手を入れ取り出している。どうしてそんなことをするのかと思っているうちに、その若者は中に入って来た。私の前を通り、料理人の側の高い所にあった籠の中に入れ、また私の脇に座り、何事もなかったように食べ始めた。

どうしてそんなことをするのかと思わず聞いてしまった。するとアッラーの神様に怒られるからと小声で言った。翌日、そのことを友達に言うと、その残りは屋根や木の上に置き鳥に食べさせるのだと言う。その後、道を歩きながら注意して見ていると塀の上や高い所に籠が置いてある。そして小鳥が来てそれをついばんでいる様子を何度も見た。パーキスターンではローティーの残りは大切にしなければならないという考えがあるからである。それは日本で「米を粗末に扱うと目が潰れる」との考えと通じている。

ついでにその友達は水の飲み方を教えてくれた。水は座って飲み決して1度に飲みほしてはいけない、どんな時でも3度に分けて飲めと教えてくれた。

初出誌情報

片岡弘次 1994「タブー、マナー、エチケット:パーキスターン―食事のタブーと女性への儀礼」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第4号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.118-122.

お読み下さい

ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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