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研究部会

「大東」考素描―
「東方大国」としての「大東」を軸に


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研究班代表
尾花 清(「大東文化学院の教育思想史的研究」班)

大東文化大学の「大東」の意味は、荻生徂徠以来の「日本」である。「大東」ということばは中国の古典である『詩経』において「遠い東」の意味で使われたが、漢字文化圏の儒者たちの間で「大東」が「日本」を意味するに至るには、歴史的かつ論理的な前提が存在していた。「大東」の意味の転換は、ひとまずは朝鮮半島において発生した。すなわち、「大東」なることばが『詩経』とは異なった意味をもつようになったのは、漢字を「公用語」として使用していた15世紀半ばの朝鮮王朝においてであった。

それまで朝鮮半島においては統一新羅以来、自らを称する際に「中国の東にある国」という意味で「東国」ということばが使われていた。「東国」との呼称とは別に、「東方大国」を意味する「大東」もここから派生した。すなわち、朝鮮王朝第四代の王であった世宗がつくらせた訓民正音(ハングル)で書かれた歴史上初の詩歌作品である『龍飛御天歌』に「大東」ということばが初めて登場し、それが朝鮮王朝の全時期を通じて使われていくのである。

『龍飛御天歌』は「世宗が直系祖宗六代の業績を敬虔で堂々たる歌謡で表現した一大叙事詩」(金敏洙『新国語学史』)である。これは、権・麟趾・安止ら史実に精通した儒学者たちが世宗の命を受けて5年もの歳月をかけて準備したものであり、世宗27年 [正統10年、1447年] 5月に完成する(藤田亮策「龍飛御天歌解題」)。その後、成三問らの儒学者たちが注解と音訓を付した木版本5冊が1449年10月に刊行される。

この歌はハングルと若干の漢字で書かれ、一つの章が四句の詩からなる連二つから構成され、全体は125章となっている。「龍飛御天」とは、『周易』に出典をもつ「聖人の進退、すなわち、行績」の意味とされている(金敏洙)。それぞれの章は、第一連で中国の史実を描き、第二連でそれと対応する李朝の史実を対比させるという構成となっている。こうして、中国の王朝の交代を天命にもとづく革命として叙述し、それとの対応において高麗王朝の内部的なクーデタによって成立した朝鮮王朝の創建を天命にもとづいた革命であったと正統化することを意図したものであった。

『龍飛御天歌』において「大東」が登場するのは、まさに朝鮮王朝の創設にかかわる第六章である。それは次のようになっている。
  
商徳戚 衰廃走虞 天下研 減生叔 依戚糠稽 西水 悪亜亜 煽切人 旭生艦.
麗運戚 衰廃送虞 蟹虞研 減生叔 依戚糠稽 東海 海辺戚 煽切坦顕 紫寓戚 幻生艦.

(当時のハングル表記の原文はそのまま引用しても印刷できない。ここでは『龍飛御天歌』のハングル表記について初めて註解を施して解読した前間恭作『龍歌故語箋』(1924年)を参照して、現代ハングルに直してある。ただし、漢字表記の部分は原文のものであり、旧漢字は新漢字に直した。)

『龍飛御天歌』には各章についての「漢訳」が付されており、朝鮮王朝の正史である『李朝実録』に記す際には当時の「公用語」であった漢字のみが記されている。そこでの第六章の漢字表記は以下のとおりである。

商徳之衰 将受九圍 西水之滸 如市之帰
麗運之衰 将受大東 東海之浜 如市之従(『李朝実録』)

この第六章の意味は次のようなものである。「中国の商の国の政治が衰え周の国が天下を引きついだ故に、西水のほとりに人々が集まって市をなすように栄えた。高麗の運が衰え李氏が国を引きついだ故に、東海の海辺に市のように人々が集まり栄えた」(買枢 [許雄]『龍飛御天歌』)。

ここに見られるように、『龍飛御天歌』は李成桂の朝鮮王朝創建を天命による革命として、周の建国になぞらえて正統化しているのである。ここで注目されるべきことは、李成桂によって創建された新しい国を、原文ではハングルでたんなる「蟹虞」、すなわち「くに」と表現しているのに対して、これを漢字で表現するときには「大東」としていることである。先に記した成三問らの漢文の注解書によれば、「大東」とは「東方大国」の意味であると注記されている(『朝鮮群書大系第廿四輯 龍飛御天歌 全』)。

ここにおいて、もともと『詩経』においてはたんに一般的に方向と距離を示す言葉として使われていた「大東」は、特定の「蟹虞」すなわち李成桂が創建し世宗が統治している朝鮮王朝を示すことばとして用いられ、その意味も一般的な方向と距離をあらわすことばから、「東方大国」を意味するものへと変えられるに至った。

自分たちの国を天命による革命によって成立したものであり、それを「東方大国」と称したことは、当時の為政者やそれをとりまく忠臣たちにとっては快哉を叫ぶに足るほどのものだったにちがいない。『龍飛御天歌』の完成を記している『世宗実録』の条には、太祖(李成桂)を初めとした朝鮮王朝の創建者たちの功績を讃える文が書かれているが、自分たちの国を「大東」と称することがわずか3帖ほどの文中の4ヶ所にもわたって記されている(『李朝実録第九冊』)。こうして、「李朝」=「東方大国」=「大東」という意味の関係が成立し、定着していった。

そして、この用語法はその後朝鮮王朝の全時期を通して一般化されていき、朝鮮王朝滅亡後の20世紀に至る時期においては、「大東」は朝鮮王朝以前の時期も含めた朝鮮全史をつうじての朝鮮の別名として使われていった(いくつかの例を挙げれば、『大東韻府群玉』(1589年に權文海が編纂した20巻20冊の「百科書」、1812年に公刊)、『大東輿地図』(朝鮮半島全体の地図、1861年)、『大東歴史』(檀君以来の朝鮮全史、1905年)などがある)。

こうした事情は明治維新以前の日本の儒者にとっては周知のものであった。朝鮮通信使の儒臣と応接した日本側の儒者のなかには、自らの国を「大東」と筆記する朝鮮側の儒臣への敬意をこめて、朝鮮を「大東」と呼んだものもいた(山県良斎「奉呈青泉申公吟楊」『両関唱和集前篇』享保5年)。

しかし、漢字文化圏において、こうした「大東」の意味をさらに転換して「日本」の意味で使うようになったのは、荻生徂徠であった。徂徠は朝鮮儒学を朱子学の亜流的存在として否定していた節がある(吉川幸次郎『仁斎・徂徠・宣長』、平石直昭『荻生徂徠年譜考』参照)。そこから徂徠は「大東」と称するに足るのは朝鮮ではなく、わが日本であると考えたのだった。徂徠が富士山を題材とした七言律詩「奉和亞槐藤公富士二什」には「白雲玲瓏照大東」(『徂徠集』巻之五)とあり、そうした用語は彼の弟子たちにも継承されていき、本多忠純は徂徠の墓碑銘に「嗚呼大東物先生之墓也」と書いている(岩橋遵成『徂徠研究』)。

その後、徂徠学派を中心として「日本」を意味する「大東」は定着し普及されていった。諸橋轍次『大漢和辞典』の「大東」の項にも、『詩経』を出典とする「大東」とともに、「我が国の称」との説明が書かれている(ただし、ここでは参照として「大東世語」をあげるのみで、『詩経』においてはたんに「遠い東」を意味していた「大東」ということばが、なぜ「日本」を意味するようになったのか、さらにはそれが価値的な内容を含意するようになったのかという経緯などについては説明されず、「日本」を意味することの根拠についてのオリジナルな出典も示されていない)。

ここにおいて、漢字文化圏の儒者たちの間には「朝鮮」を意味した「大東」と「日本」を意味する「大東」とが並立し拮抗する関係が生まれ、それは大東文化学院の創設時まで続いていくことになる。私がかつてその問題を指摘した井上哲次郎・三宅雪嶺らの「由来の説明」(拙稿「語られなかった『大東』の由来」、2006年度『人文研所報』)なるものは、こうした事情を捨象して「大東」の出典を『詩経』にのみ求めようとするものであり、一知半解の短絡的なものであったことがわかろう。それらを盲目的に信仰する本学の正史の誤りもまた明らかである。

大東文化学院の命名者が誰であるかについては、本学の正史においてはいまだに明らかにされていない。だが、幻の命名者はこうした事情を十分に熟知した上で「大東」の名称を選びとっていったことだけはたしかである。(教育学科教員)


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