立喰い魯山人備忘録

*立喰い魯山人については「著作案内」の週刊アスキーの項目を参照

立喰い魯山人備忘録 VOL.11 2001年9月 世界は悲しみにくれている〜青山・NYC・沖縄
立喰い魯山人備忘録 VOL.10 2001年2月 18年ぶりのジャカルタ(仮題・未定稿) 
立喰い魯山人備忘録 VOL.9  2000年2月 いかチレの国・台湾
立喰い魯山人備忘録 VOL.8  2000年1月 旅のまにまに
立喰い魯山人備忘録 VOL.7  1999年12月 旅三昧も楽じゃない
立喰い魯山人備忘録 VOL.6  1999年9月 コザで目覚めたい、ナハでまどろみたい
立喰い魯山人備忘録 VOL.5   1999年3月 りんけんバンド・ジュニアの誘惑
立喰い魯山人備忘録 VOL.4   1999年2月・1月 『ナビィの恋』〜コザ情報
立喰い魯山人備忘録 VOL.3  1998年10月 カラハーイ
立喰い魯山人備忘録 VOL.2   1998年8月〜9月 夏の終わり(ペナン〜沖縄)
立喰い魯山人備忘録 VOL.1   1998年1月〜2月 東京〜バンコク〜サムイ〜東京〜沖縄〜東京〜沖縄〜東京


立喰い魯山人備忘録 VOL.11


世界は悲しみにくれている〜青山・NYC・沖縄(2001年9月)

2001年9月10日(月) 青山の登川誠仁

 先週の木曜日(2001年9月5日)に登川誠仁のライヴ(青山CAY)があった。大学の同僚の、沖縄好きN教授からの誘いである。チケットを取ってくれたのはN教授の友人で少女漫画誌の編集長を務めるSさんの奥様だ。佐藤夫妻は沖縄帰り、羽田から直行で青山まで馳せ参じたという。当の登川師匠もS夫妻と同じ便だったらしい。開演前の行列のなかで、初対面のぼくまでお土産のシークァーサーを頂戴した。仄かに漂う沖縄の香りを、ユニクロ製980円の鞄にしまい込むと、なんだか準備が整った気がした。

 ステージにはまず知名定男がたった。ネーネーズのプロデューサとしても、民謡歌手として有名だが、12歳の時に大阪から密航して、台風直下の辺戸岬(沖縄最北端)に上陸したという。登川誠仁の最初の内弟子になり、六畳一間、夫婦二人・内弟子一人・メジロ一羽の「お笑い同居生活」を三年間送ったというエピソードがいい。

 知名定男の店「島唄」には、92年から93年にかけてしばしば通った。コザの東側、太平洋に面した泡瀬に店があった頃だ。狭い店でちっぽけなステージがあった。店主の知名定男はいつも酔っぱらっていた。だから三線を持ってステージに立っても、ヨッパライの手慰みにすぎなかった。音盤を聞けば、知名定男以上の男性シンガーはいないと確信させるほど威厳と哀愁に満ちていた。が、「島唄」での期待はいつも裏切られた。当時生まれたばかりのネーネーズも、ホステスと歌者を兼ねていて、客の泡盛をつくっては歌い、歌っては客のビールを注ぎといった体たらくで、このままじゃ沖縄民謡の将来はないと悲観した。沖縄民謡は酒場の音楽だった。

 ところがこの日は違った。久々に濃厚だった。師弟共演は、ゆったりした緊張感に助けられて、もたれあうかあわないかというギリギリのところで、客を「おきなわ」へと引っ張り込む。さすがだと感心した。選曲は期待どおりではなかったが、そんなことはどうでもいいと思わせるほど、充実した時間が流れた。登川誠仁は病み上がりだったが、一番弟子を脇に控えさせながら、青山の空気を一気にウチナーの空気に変えてしまうような、底知れぬ迫力があった。「こんな歌、あんたらやまとぅにはどうせわからないからしょうもない」「八重山の歌だから私にもちょっともわからんが、歌ってみる」「ただ眠気をこらえるのに苦労するような歌だったねえ」歌に対するスタンスがいい。登川誠仁は一生懸命に聴くなと言っている。たかが「歌」じゃないかと言う。まったくもってその通り。たかが「歌」、というこのスタンスが、沖縄民謡を救ってきたのだ。林助もその点全く同じだ。これこそ沖縄民謡の神髄である。ぼくは元気を取り戻した。

2001年9月12日(火) WTCのドゥーワップ

 昨夜、脳天気に立ち食いそばのエッセイを書いていたら、ニューヨークが大変なことになっていると家人が騒いでいる。パソコンの画面にテレビの映像を映し出して見てびっくり仰天。、ワールドトレードセンターに穴が開いて黒い煙が出ている。もはや立ち食いそばどころではない。

 情報はまだまだ錯綜していて「旅客機がWTCに衝突したらしい」ということ以外に詳しい情報はない。が、画像はまさしくリアルタイムのニューヨーク。テロか事故か判然としないまま、画面に釘付けになっていると、まもなく2機目の旅客機がWTCに衝突。うわっ、こりゃテロだ、いや戦争だ。いやーな気分になる。

 テロリストがジャンボを何機も所有しているわけはないので、ぶつかった旅客機はハイジャックしたものだろうとトーシロのぼくにも容易に想像がついた。乗客をも巻き込んだ自爆テロ、地獄からの使者である。日本のTV局のアナウンサーや解説者のなかには、「まだハイジャックされたものかどうかわかりません」などと見当はずれな発言を繰り返している奴らがいる。呆れ果ててチャンネルを変えるが、どこも似たようなもの。といってわが家ではCNNは映らない。たまたまABCのニュースを流しつづけていたNHKのBS1・チャンネル7にチャンネルを合わせることにした。同時通訳の質が悪く、わけのわからんニッポン語も多かったが、自分のヒアリング能力よりはだいぶマシだろうと我慢して画面に見入る。

 さすがにふたつのタワーが崩落する瞬間は絶望的な気分になった。恐怖で躯が震え、涙が止まらない。起こってはいけないことが起こってしまったのだ。SF映画であればいいのに。悪夢そのものだった。

 1983年9月に初めてマンハッタンを訪れたとき、WTC直下の広場で街頭ミュージシャンによるアカペラのドゥーワップに出会った。ランチタイムで人が行き交うなかのあっという間の出来事である。ネクタイを締めた背広姿の5〜6人の若者たちがどこからともなく集まり、輪になって"Spanish Harlem"など3曲を披露、歌い終わると潮が引くように周囲のビルの中へと消えてゆく。その間約10分。腕前はもちろんプロ級。あれは何だったんだ?ドゥーワップ・サークルの練習?それともれっきとしたエンターテインメント?いずれにせよ、あまりの格好良さにしばし呆然とその場に立ちすくんでしまった。ドゥーワップはハーレムにありと思い込んでいた。まさかWTC直下で遭遇するとは。いや、これぞニューヨーク、これぞマンハッタン。東洋の島国のポップなど足下にも及ばぬと、明治期の薩摩出身の留学生のような気分になった。

 あの時のニューヨークでは音楽三昧の毎日。二週間ほどの短い滞在だったが、夜な夜なライブハウスやクラブに通い詰めていた。“スウィートベイジル”ではギル・エヴァンズに感動し、“RITZ”では黒人にも踊りの下手な奴が山ほどいると初めて知り、“CBGB”では縦ノリパンクの洗礼を受けた。ソーホーのロフトではカリプソナイトも経験、“ヴィレッジヴァンガード”ではサルサやマルディグラの記録映画を見た。余録として“アポロシアター”の楽屋に紛れ込んだりもした。音楽好きにとってはまさしくパラダイスである。

 ただ、ホテルと治安については最悪の時期だった。ビレッジの本屋で買ったガイドブックに「ニューヨークのホテルで客が従業員に朝食をサービスするようになるのは時間の問題だ」とか「あなたがニューヨークの地下鉄について知らされていることはすべてほんとうだ」と書いてあったほど。

 実際、地下鉄にはうっかり乗れない雰囲気があった。そもそも駅の入り口付近や通路は目だけギラギラして痩せこけたジャンキーやホームレスのたまり場だったから、ホームまでたどり着くのに汗びっしょりになるほどの緊張を要求された。WTCに行ったのも、目的があったからではない。42nd Streetからなんとか地下鉄に乗ったものの客はまばら。落書きだらけの車内にはいかにも怪しげな奴もいる。やがて到着した駅で、ただでさえ少ない客がどっと降りる。こりゃやばいと、あわててぼくも飛び出したのだが、そこがWTCの地下だったというわけだ。

 そのWTCが地上から消滅した。ニューヨークに住むあるニッポン人は「日本から富士山が消えたようなもの」と評した。が、ニューヨーカーは今もどこかでドゥーワップを歌っているはずだ。WTCが無くなってもニューヨークの音楽は無くなりはしない。それだけが救いだ。

 ニューヨークよ、歌え、踊れ、叫べ、弾けろ!!

9月13日(木) 中江裕司との「歌」論争

 実は12日に沖縄に飛ぶ予定だった。4月18日に活動中止を宣言したCoccoのことが気になって、その謎を解く手掛かりを沖縄で見つけたいと思ったのである。ぼくはCoccoの熱烈なファンではないが、「Cocco最後の手記」にはそそられるものがあった。沖縄を考える際のあらたな視点を炙りだしてくれるような気がしたのだ。

 ところが、9月11日の深夜から12日一杯まで飛行機に乗る気分にならなかった。しかし、このままでは時間がなくなってしまう。夏休みも終わりである。結局、焦りが恐怖に打ち勝ち、13日に意を決して沖縄に飛んだ。

 直前まで逡巡した旅立ちなので、空港へ着いたのがフライト15分前。偶然にも8月の末から髭を蓄えたのでどことなくアラブ系。テロリストと勘違いされやしないかと冷や冷やしながらセキュリティ・チェックの列に並ぶ。と、後ろから「しのはらー」と大声で呼ぶ声。

「やべえ、ついに逮捕か」

 人は自分の外見に左右されるものだ。何にもしていないのに髭を生やしただけで気分はすっかり似非テロリストである。

 が、振り返ると中学以来の親友・伊東武彦がそこにいる。駒澤女子大の英語の先生である。

「沖縄?」

「そうだよ」

「伊東は?」

「学会で北海道」

「じゃあね」

「気をつけて」

 たったそれだけの会話だったが、緊張はいくぶん和らいだ。親友とはそういうものだ。

 セキュリティ・チェックを無事通過。厳しいと聴いていたのだが、似非テロリスト・シノハラは荷物の奧に忍ばせたカッターナイフ(というか鉛筆削りみたいなもの)を機内に持ち込むことに成功してしまった。意図して持ち込んだものではないが、まだまだハイジャックは可能であると逆に不安になった。

 JALの機中では珍しく眠れない2時間半をすごす。ビンラディンとアルカイーダの犯行であると報道されているが、犯行声明がないので犯人が特定されたわけではない。テロリストの仕業だとわかっていても、その目的がはっきりしないかぎり自分の乗った便の安全性は確かめられないのだ。

 不安を抱いたままのフライトだったが、無事、那覇空港に到着。さすがにホッとする。拍手したいくらい。爆弾が仕掛けられているかもしれぬ空港なんぞに長居は無用、早足で通路を抜け、逃げ出すように空港ビルディングを出て、オリオン・レンタカーの送迎車に乗り込む。

 レンタルしたカローラを駆って空港近くにある宇栄原の奈須重樹宅へ。近々リリース予定のやちむんの二枚組CD『チムがある』のライナーノーツを頼まれていたので、その打ち合わせ。細君となったあっちゃん(比屋定篤子)も日向郎も元気そうだ。

 奈須宅を出て“でいごホテル”に向かう。米軍基地はどこもゲートが封鎖されている。緊張感が漂う。湾岸戦争勃発時にもぼくは沖縄にいたが、そのときよりも空気が張りつめた感じだ。

 チェックイン後、しばらくテレビに見入る。こちらにはFENのテレビ放送がある。BS1も入る。情報には事欠かない。ふだんはコメディ番組・バラエティ番組やホラー映画もたっぷり放映するFENだが、今回はNYとペンタゴンの映像だけが流れる。ニュースの合間には星条旗がはためき、アメリカ国家が流れる。やはり本質は軍事放送なのだと痛感する。

 夜、那覇へ。リウボウホールで『ナビィの恋』の中江裕司が登川誠仁を撮ったビデオを上映している。すでにNHKで放映済みのものだが、ぼくはまだ見ていない。楽屋を覗くと、中江さんがにこにこしていた。なぜかやちむんの満寿代もいる。満寿代と仲良く並んで作品を見ることにした。

 中江作品はむる上等だった。「世界が悲しみに満ちているこういうときだからこそ、音楽や芸能の力が必要だ」と感じさせずにはおかない。登川誠仁、照屋林助、りんけんバンド、やちむんなどを抱える沖縄はとても“豊か”だ。でも、その豊かさを活かし切れない。それはぼくたちの力不足の結果でもある。

 終演後、中江さんたちと合流して県庁裏で中華料理を囲む。途中、奈須重樹がぼくにテープを届けにやってきた。いつのまにか“歌”をめぐって議論になった。

 中江さんはやはり独自だ。「歌は永遠であるべき」という。「歌の深さが音楽のすべて」といったようなことをいう。中江さんの撮ったビデオのなかで、八重山民謡のウタサである山里勇吉が「この歌はまだ私には歌えません」といっている場面がある。「まだ歌えない」という科白に中江さんは感動したという。

 気持ちは分かる。が、ぼくは「歌よりも人」だ。みんなに「いい歌」として歌い継がれ、歌の深さに歌手が対峙していくという中江さんの議論には与したくない。それは古典の世界につながっていく。歴史の断層をそのまま引きずることになりかねない。

 歌なんてたかが歌なんだ。ボブ・ディランの歌はディランによってしか乗り越えられない。ディランを歌う日本のフォーク歌手はディランとは別物だ。そこがポップのおもしろさであり、ポップの力なのだ。

 いい歌が歌い継がれるのは真実だとしても、それが音楽のすべてではない。歌の深さを音楽の本質という中江さんの議論は、力強くは見えるけれど、そこから振り落とされるものが多すぎる。

 中江VS篠原・奈須という対立の議論は小一時間つづいた。久々に楽しく興奮できた。沖縄モノの本を企画中のK社のTさんにこの話をしたら、「ぜひ中江VS篠原で激しくやり合って、一本の原稿にしてください」だって。さすがにそりゃ難しいかも。

9月14日(金) 宮古そば「愛」から「ボトルネック」へ

 遅い目覚め。ベッドから抜け出してすぐにりんけんバンドの拠点・北谷アメリカンビレッジにあるアジマァに向かう。ソニーレコードを辞めて沖縄に移住、現在はアジマァをマネージしている中西義明さんとティンクティンクやりんけんバンドの将来を語りながら昼食。宮古そば「愛」の支店。支店といってもスタッフは本店と同じ。昼は支店、夜は中の町の本店という勤務態勢だという。つまり昼と夜の営業場所が違うってことだ。これって効率がいいんだか悪いんだかよくわからない。沖縄らしくはある。中の町といえば、テビチの名店「揚羽蝶」がこの夏に閉店してしまったので、魅力がまたひとつ減った。時流には抗しきれない。コザはこのまま朽ち果てていくのだろうか。

 今日も夜は那覇だ。やちむんの新作(『チムがある/チムがある2001』)のための撮影に立ち会うことになった。栄町の「ボトルネック」。かつて58号ぞい、宜野湾の真志喜にあったものが、栄町に移ってきた。昼は地元向けの市場、夜になると高齢(?)のオネエサンたちが出没する栄町市場の真ん中にある。ミュージシャンの知念保が経営している。酒場だが、カレーライスが美味い。そばにも力をいれているという。なかなかいい感じの店である。

 きょうの撮影には、93年に自主カセット『チムがある』を発売した当時のやちむんのメンバーが勢揃いしている。初めてこの編成でのやちむんを見たのは東村のつつじ祭りだ(93年)。りんけんバンドの前座だった。演奏はまとまりがなかったが、なにかがあると感じた。やちむんとはこのときからのつきあいである。

 撮影も終わった深夜、入院中の義父が亡くなったとの知らせを受けとる。半ば予測していたことだが、死に目にはあえなかった。昭和一桁として、新天地を切り開いてきた男である。ガン宣告が2年ほど前。長くても半年といわれたが、ガン細胞は最後の最後までほとんど増殖しなかった。ほんとうによく頑張りましたね。ながいこと苦労様。お世話になりました。合掌。


【やちむん『チムがある/チムがある2001』ライナーノーツ/2001年11月23日発売】

 やちむん【沖縄語(うちなーぐち)で“焼物”の意】は、奈須重樹(1964年3月22日宮崎県東郷生まれ)と山里満寿代(`73年7月28日沖縄県首里生まれ)の二人組だ。ボーカルとギターを担当する奈須は、琉球大学に進学するため沖縄を訪れ、卒業後はプロのカメラマンとして沖縄でお気楽に暮らしながら`91年に“やちむん”を結成。幾たびかのメンバー・チェンジを経て、`95年からはパイオリンの満寿代とのデュオで活動している。満寿代は沖縄県立芸術大学でバイオリンを勉強中だった`94年に“やちむん”と出会い、大学を中退してそのまま“やちむん”に「就職」してしまったという無謀な(?)女性である。

 「がんばれ いぼやーるー」がNHK沖縄の「あたらしい沖縄のうた」(`94年)に選ばれたのをきっかけに活動は本格化し、`96年12月には“しげなすレコード”を設立して、最初のアルバム『プリン』を発表、少年時代の皮膚感覚を取り戻させてくれるやちむん独自の世界を一気に開花させた。`98年7月には自宅録音のセカンド・アルバム『トゥナー、ストゥ&ピーツァ』を、2000年3月には、慶良間諸島・慶留間島で録音したサード・アルバム『ニューハウスミュージック』を発表。地道な活動が功を奏して、やちむんは今や沖縄のみならず全国各地に熱心なファンを得ている。東京を中心にたびたび行われるツアーも大盛況だ。

 熱心なやちむんファンでも、デビュー作は『プリン』ではなく、`93年10月に自主制作されたカセットテープ『チムがある』であると知る人は少ない。製作本数はわずかに200本、当時の奈須はこのテープを1本1500円で直売していた。かくいうぼくも、奈須から『チムがある』をしぶしぶ買わされた口なのだが、率直に言って最初は「かったりいなあ」という印象だった。実は同じ年の春に、やちむん(『チムがある』の録音メンバーと同じ)のライヴを見ていたのだが、感心できる演奏ではなかったからである。が、ある日ちょっとした手違いで『チムがある』をカーステレオにセットしてしまった。不揃いな演奏のせいか、体にベタついてくるような粘り気があったのだが、聴き込むうちにフーッとその粘り気がとれ、やがてやちむんの世界に吸い込まれてしまった。

 ぼくにとって『チムがある』はやちむん評価のきっかけだったことは確かだが、3枚のCDアルバムが出て、しばしその存在を忘れていた。数年前に『チムがある』をリイシューすべきだと満寿代が力説するのを聴いたことはあったが、「奈須+満寿代」という現在の編成が最善と思っていたぼくは、「アレはねえ…」と言ってあまり相手にしなかった。『チムがある』は、奈須(ギター・ボーカル)、本村実篤(パーカッション)、儀部高行(トランペット)、佐藤哉(トロンボーン)、平良受理(アコーディオン)、仲村和弘(サックス)という6人編成の「第5期やちむん」によって録音されており、今のやちむんとは似ても似つかないサウンドだったからだ。

 ところが、2001年の初夏頃から、結成10周年を記念して『チムがある』をリイシューしたいと奈須が言い出したのである。しかも、2001年時点でのやちむんが『チムがある』の全楽曲をセルフカバーした新録アルバムと2枚組でリリースしたいという。一度腹をくくったら、あっと言う間にモノが出来上がってしまう。やちむんはいつもそうだ。早くも夏の終わり頃にはそのテープが送られてきた。

 まず、久々に聴いた『チムがある』でぶっ飛んだ。時を経て音が熟したようで、鬼気迫る迫力がある。ホーンセクションと男性コーラスがサウンドを実に濃密にしている。アメリカ音楽発祥の地であるニューオリンズには、甘ったるさと泥臭さを併せ持った音楽が溢れているが、93年のやちむんは、まるでニューオリンズのストリート・バンドのような趣がある。もちろん、そこには沖縄の空気感が込められている。ただ現在のやちむんが、沖縄の朝も昼も夜も等しく表現できるグループであるのに対して、 93年のやちむんは、ミステリアスで粘っこい沖縄の夜の空気感しか表現できない。その不器用さがまた愛おしく思えるのだが。

 これに対して『チムがある』のセルフカバーである『チムがある 2001』は、現在のやちむんの実力が十分に発揮された、“やちむんベスト”的な仕上がりの作品となっている。これまで音盤として聴けなかった「タコス屋で逢いましょう」がステージのままの姿で収録されているのを始め、既発CD収録の「マイロード・アゲイン」「パイプラインそばでそばを食べて」「がんばれ いぼやーるー」もほぼ現在のライヴ演奏に近いかたちで収録されている。ライヴそのままを収録した「モクマオウのトンネルを抜けて」や満寿代がボーカルをとった「君といっしょに」も新鮮だ。最近はライヴで聴くことの少ない「ばんしるー」「バイ バイ バルブボックス」「マシキ・オン・マイ・マインド」も、こうしてあらためて聴くとかなりの名曲である。

 『チムがある』と『チムがある 2001』は、同じやちむんというグループとは思えないほど異質のサウンドだが、この2枚を対照しながら聴くことで、ぼくにはやちむんの本質が見えてきた。やちむんは“フォーク”に括られることが多いが、彼らの音楽はたんなるフォークではなく、ちょっとした巡り合わせでたまたま沖縄に生まれてしまった、アコースティックでポップなリズム&ブルース、言うなれば「南島リズム&フォーク」なのだ。

 最近はいいニュースが少ない。哀しみが世界を覆い始めている。が、ぼくは、この2枚組のやちむんを聴くことで、正直言って救われる思いがした。やちむんとはそういうものだ。ぼくはちょっとだけ幸せな気分になった。


9月15日(土) りんけんバンドの新地平

 義父が亡くなって重い気分を抱えたまま、午後には再びアジマァへ。新作『織りなす日々』のライナー執筆の打ち合わせである。スタジオで林賢と一緒にラフミックスを聴く。いつもどおり良質のポップに仕上がっている。夜、りんけんバンドのライブを久々に聴く。言葉にならないほどの感動だ。この感動をライナーノーツに込めようと思った。以下、そのライナーノーツを掲げておく。


【りんけんバンド『織りなす日々』ライナーノーツ/2001年11月22日発売】

 この9月15日、久々にりんけんバンドのライヴを見た。ホームグラウンド ・カラハーイでの定例ライヴである。初めてりんけんバンドを見たのが1990年1月のことだから、足かけ12年にわたって彼らの演奏を聴き続けてきたことになる。ライヴに足を運んだ回数も40回近い。その間、色々なことがあったが、彼らのステージの基本的なスタイルは今も昔も変わらない。にもかかわらず、不覚にも涙を流してしまうときがある。9月15日もそういうライヴだった。

 上原知子がいいのはあたりまえである。歌はもちろん、その一挙手一投足にいたるまで、もはやメ至極の芸モの域に達している。が、この日涙を誘われたのは、上原知子が素晴らしかったからだけではない。フロント3人衆(桑江良美・稲福克典・大城隼)のパフォーマンスに、人間としての無限の力を感じたからである。島太鼓や櫂を操りながら、ステージを縦横無尽に動き回る彼らの姿が、いつにも増して美しく見えたのである。

 直前の9月11日、にわかに信じられないようなテロ攻撃が行われた。人間とはなんと残酷で悲しい存在なのかと、ぼくは絶望的な気分を抱えたまま沖縄に飛んだのだが、りんけんバンドのステージは、「人間って、こんなに力強く、楽しく、そして優しい存在なんだよ」と、訴えかけてくるようだった。武力など、この上質のエンターテイメントを前にひれ伏すに違いないと、この日のぼくは、柄にもなく純真無垢な気持ちになった。

 そのりんけんバンドが、『織りなす日々』と題する12枚目のアルバムを制作した。CDデビュー以来足かけ12年で12枚、1年に1枚ずつアルバムを発表してきたことになる。十二カ月・十二支など、「12」という数字は暮らしのなかでよく使われる数字である。おそらく12という数字は、地球のリズムを表す数字ではないかと思う。その意味で12枚目というのは、地球のリズムを体に合わせながら音楽に取り組んできたりんけんバンドにとって、ひとつの節目を示す作品だ。

 このアルバムが以前と大きく異なるのは、エンジニアを照屋林賢自身が務めているという点である。そのせいか、陰影が増してキラキラしている。以前の作品より立体感があるのだ。上原知子のボーカルがまたまぶしい。吸い込まれそうな手触り感のあるこのボーカルを際だたせるように、ベース・上原顕の柔らかいフレージングやキーボード・山川清仁の小気味よいプレイが艶やかに織り込まれている。

 作曲はすべて当代随一のメロディーメーカーである林賢。「織りなす日々」や「夏ぬ風」のような新鮮な作風には感嘆するばかりだ。作詞のほとんどは例によって名嘉睦念で、小林一茶顔負けの素朴で印象的な言葉が連なる。「涙」あたりを聴くと、二人のコンビはレノン=マッカートニーに匹敵するんじゃないかと思う。今回はまた、「1.2.3.4」で桑江良美が作詞家デビューしている。

 沖縄とヤマトといちばん違うのは時間の観念である。沖縄では過去と現在と未来が、人を真ん中に置きながら融け合っている。時間を「経済的資源」としか見ないどこぞの世界とは違って、時間に温もりがあるのだ。『織りなす日々』というのはそういうことなのだ。過去に対する尊敬と、現在に対する柔軟さと、未来に対する希望とが、心のなかで融けあって共生している状態なのだと思う。

 そんなことを考えながら、『織りなす日々』を聴いていたら、ぼくたちの時の流れが紅型のように染め上げられて、天空の星まで届くような錯覚を覚えた。りんけんバンドの次の12年がまた楽しみになった。

9月16日(日) 帰京

 東京へもどる。世界は悲しみにくれている。家人も悲しみに満ちていた。

 深夜、夏目房之介さんにメールを書いた。

【 21世紀に近代国家は無形化するとぼくは考えてますが、こうした事件が起こると、「国家」信仰があらためて復権してきてしまいます。アフガンにしてもアラブ諸国にしても近代国家じゃありません。宗教的・経済的権益を堅持するためのデバイスにすぎないのです。ちょっと上等なならず者集団ですよ、基本的に。司馬遼太郎は「国家はある日突然やってくる」と書いてましたが、一部の先進国を除けば、国家なんてその程度のもので、ならず者と同様ある日突然やってきて民をいいように仕切るんです。そんなまともでない連中を相手に、「近代国家」が軍事的に対峙しようとしている。対応を間違えると地獄ですね】

【ロシアが撤退を余儀なくされたアフガンに侵攻するのはどうみても無謀です。アメリカはちょっとしたヒステリーで「やれ!やれ!やっつけろ!」てな感じですが、マドンナのように「報復は報復を生むだけ」と大声で叫ぶ勇気も必要でしょう。WTC崩壊の映像はまさに「戦争」を想起させるけど、ならず者相手にまともに戦争をすることは無茶ですよ。「ジハード」とかなんとかいってる中東諸国の情報も入ってきてるけど、「ならず者でないアラブ・アフガンの民」の日常について、ほとんど情報はありません。NY情報とジハード系情報だけってのも困りものです。こういうのも「情報の非対称性」っていうのかな】