篠原章『J−ROCKベスト123』(講談社文庫・1996年6月)所収

日本ロック通史(第一部 1956〜1978


*文庫収録のものと内容は若干異なります。また、文庫用書き下ろし原稿のため、数字等は縦書きフォーマットのままとなっています。読みにくいとは思いますがご理解のほどお願いします。

もくじ(第一部)

1.「進駐軍ポップ」からロカビリーへ   1956-59年

2.翻訳ティーン・ポップの興隆      1960-63年

3.エレキ・インスト・ロックの波     1964-65年

4.ビートルズの落とし子・GS      1966-68年

5.日本ロックの誕生           1968-72年

6.ロックの多様化とニュー・ミュージック 1973-78年

第二部(1978-1990年代)へ


1.「進駐軍ポップ」からロカビリーへ 1956-59年

 第二次世界大戦後における日本のポップ・ミュージックの出発点は「進駐軍ポップ」であった。一九四五年から一九五〇年代前半にかけて、米軍がもちこんだポップの影響を受け、ブルース、ブギウギ、マンボなどの要素が流行歌のなかに入り込み、ハワイアン、カントリー&ウエスタン(C&W)、ジャズなどがちょっとしたブームになった。こうしたポップのうち、“日本ロック”の生い立ちにもっとも深い関係をもったのはC&Wであった。

 五〇年代半ばのアメリカでは、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が大ヒット(五五年)、翌五六年にはプレスリーが登場するなど、ロックンロール/ロカビリーの時代を迎えていた。

 これを受けて、折からのC&Wブームですでに人気のあった小坂一也がプレスリー「ハートブレイク・ホテル」のカバー・ヒット(五六年六月)を放ち、時代は一気にロカビリーへと突入した。プレスリーのカバーで若者を熱狂させる小坂を見て、他のC&Wバンドも続々とロカビリー化、五八年になると、平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎の“ロカビリー三人男”がそろってレコード・デビュー、二月には渡辺プロの肝煎りで、ロカビリーの祭典「第一回日劇ウエスタン・カーニバル」が開かれ、ロカビリー・ブームは本格化した。

 和製ロカビリアンは、当初、本場のロックンロール/ロカビリーのカバーに専心したが、五九年になると状況は一変する。カバー・ヒットは後退し、オリジナル・ヒットが台頭したのである。オリジナル曲の先駆け「星はなんでも知っている」(平尾昌章/五八年七月)が十五万枚もの売上げを記録したことがその原因だった。これ以降、大半のロカビリアンが歌謡曲化し、ブームは急速に冷めていくのであった。

 

2.翻訳ティーン・ポップの興隆 1960-63年

 楽曲のオリジナル化・歌謡曲化によってブームとしてのロカビリーは消滅したが、日本のポップ全体のアメリカ指向に変化はなかった。アメリカを後追いするかのように「ロックンロールの終焉↓ロカビリーのソフト化」という道をたどり、六〇年代に入ると日本でも白人中産階級的なポップがもてはやされるようになった。

 この時代の日本のポップを特徴づけるのは、俗に言う「翻訳ポップス」である。新しい感覚をもった訳詞家がつぎつぎに登場、彼らが描いた一種の“アメリカン・ドリーム”を、戦後世代の若々しいシンガーたちが挑発的に歌い、全国のティーンズがこれに夢中になる、という新たなパターンが生まれたのであった。

 翻訳ポップス時代の幕開けは、ロカビリー三人男がニール・セダカ恋の片道切符」をそろってカバーした六〇年二月に遡るが、五九年六月のフジTV「ザ・ヒット・パレード」の放送開始も重要なポイントである。テレビという“ニュー・メディア”ならではのこの番組は、翻訳ポップスの普及に大きく貢献したばかりか、ザ・ピーナッツなどのビッグ・スターも育て、後の洋楽紹介番組の原型ともなった。

 この時期に登場または活躍した男性アイドルには、ダニー飯田とパラダイス・キング(ボーカルは坂本九)、ブルー・コメッツ(ボーカルは鹿内孝)、スリー・ファンキーズ、飯田久彦、竹田公彦、佐々木功、ほりまさゆきなど、女性アイドルには、ピーナッツのほか、森山加代子、田代みどり、弘田三枝子、中尾ミエ、ベニ・シスターズ、青山ミチ、梅木マリ、安村昌子、渡辺トモコなどがいる。

 翻訳ティーン・ポップ期は、六二年のツイスト・ブームでその頂点を迎える。日本でのブームはチャビー・チェッカー「ザ・ツイスト」のカバーに始まり、藤木孝などのツイスト名人を生みだしつつ小林旭や美空ひばりをも巻き込んで、六二年中にはしぼんでいく。ツイスト・ブームが終わる頃には、アメリカン・ドリームの日本的受容スタイルの一つだったはずの翻訳ティーン・ポップは、ロカビリーとおなじくオリジナル化を通じて霧散してしまう。

 なお、翻訳ティーン・ポップ末期の六三年に坂本九「上を向いて歩こう」が、英題「SUKIYAKI」として全米ナンバー1に輝いている。この成功はあくまで偶然の産物だったが、これ以降、日本のポップ界はアメリカ市場への参入を繰り返し試みるようになった。

3.エレキ・インスト・ロックの波 1964-65年

 大筋ではアメリカのポップ・シーンをなぞっていた日本の“ロック先史時代”だったが、東京オリンピック開催の六四年を境に独自の方向性を示す。この年、アメリカがビートルズ中心の展開となっていくのに対して、日本はベンチャーズに代表されるエレキ・インスト・ロック中心の展開となっていくのであった。

 まずアメリカの無名インスト・バンド、アストロノウツが“サーフィン・ブーム”に火をつけた。ベンチャーズを彷彿させる彼らの「太陽の彼方に」が評判となり、この曲に日本語詞を載せた藤本好一(ブルー・ジーンズ)のカバーが大ヒット、さらに橋幸夫の和製サーフィン「恋をするなら」の爆発的なヒットによって、日本のサーフィン・ブームは頂点に達した。

 こうしたなか、アストロノウツの先輩格であるベンチャーズの人気も沸騰、六四年から六五年にかけて、彼らは「パイプライン」「キャラバン」などのヒットを立て続けに放ち、日本の若者たちのあいだに一大エレキ・ブームを巻き起こした。彼らに触発されて、寺内タケシのブルー・ジーンズや東宝の若手俳優・加山雄三が率いるランチャーズを筆頭に、ベンチャーズ・スタイルのバンドが続々と登場した

 東京オリンピックに合わせて急速に普及したテレビもこの傾向を加速した。フジTV「勝ち抜きエレキ合戦」(六五年六月放映開始)をきっかけに各局はバンド・コンテスト番組をこぞって放映、日本じゅうのエレキ少年が番組出場をめざして秘かに腕を磨いた。そのなかに、のちに日本のロックを背負うことになる人材が多数含まれていたことはいうまでもない。

4.ビートルズの落とし子・GS 1966-68年

 すでにエレキ・インスト期に電気楽器はアマチュア・レベルまで広く普及、こうした楽器を使った小編成のバンドも珍しくなくなっていた。そこへ来日(六六年六月二十八日〜七月三日)をきっかけとするビートルズ人気の異常なまでの盛り上がりである。ビートルズに熱狂する少女が急増し、これをとりあげるマスコミ報道も過熱、彼らの音楽や長髪の是非をめぐる議論、ビートルズを通じた少女たちの不良化という議論まで起こった。ビートルズはまさに社会現象として語られたのである。このような状況下、プロ・アマを問わず日本のエレキ小僧たちが、ベンチャーズからビートルズなどリヴァプール系サウンドの模倣に走ったのは、まったく自然のなりゆきであった。グループ・サウンズ(GS)時代の始まりである。

 先陣を切ったのはスパイダースとブルー・コメッツである。両者とも本来ロカビリー/C&W系のバンドだったが、スパイダースは全曲オリジナルの『ザ・スパイダース・ファースト・アルバム』(六六年四月)で完全にリヴァプール化、ビートルズ来日に先だってGSの原型を確立し、ブルコメは、リヴァプールの影響を受けた大ヒット「青い瞳」(六六年七月)以降、独自のGSサウンドを定着させた。

 スパイダースに象徴されるように、GSがリヴァプールに触発されて生まれたことはたしかだが、そのヒット曲の系譜は、ブルコメに由来する“歌う哀愁のエレキ・バンド”という道を歩み、リヴァプール・サウンドとは似て非なる世界が描かれたのであった。

 このふたつのバンドをGSの出発点として、最盛期の六七年〜六八年には一〇〇近いバンドがレコード・ビジネスの世界で活躍した。GSという呼称が一般化したのもこの頃だが、その代名詞のような扱いを受けたジュリー(沢田研二)を擁するタイガースのデビューも六七年二月だった。六七年五月発売の「シーサイド・バウンド」で一気にスターダムにのし上がると、以後「モナリザの微笑」「君だけに愛を」「シー・シー・シー」など立て続けに大ヒットを放ち、その人気は他のGSを圧倒した。

 タイガースをビートルズにたとえれば、ローリング・ストーンズはショーケン(萩原健一)を擁するテンプターズだった。埼玉県大宮出身の彼らは、アマチュア時代からストーンズやビートルズのカバーが得意だったが、六八年三月の「神様お願い」でブレイク、同年六月の「エメラルドの伝説」でその人気を確立した。

 GS最盛期は、このふたつのバンドを頂点に多数のグループが人気を競い合った。モッズ系のカーナビーツ、失神パフォーマンスのオックス、フォーク・ロック系のワイルド・ワンズのほか、ジャガーズ、ヴィレッジ・シンガーズ、ゴールデン・カップス、モップス、パープル・シャドウズ、リンド&リンダーズ、ダイナマイツ、フィンガーズ、フラワーズなどを主要なGSとして挙げることができる。

 華々しかったGSブームも六八年暮れから六九年にかけて急速にしぼんでいく。ブームの仕掛人・ブルコメが、六八年十一月発売の「さよならのあとで」のヒットによってGSサウンドに訣別、以後ほとんどのGSは歌謡曲化した。この頃には英米のニュー・ロックも入ってきていたが、既存の芸能秩序のなかに組み込まれていたGSには、もはや体制撹乱的なニュー・ロックという潮流を消化する力はなく、歌謡曲化に活路を見いだすほかなかったのである。

 こうして、ロカビリーに始まる日本の“ロック先史時代”は、GSの歌謡曲化とともに終わりを告げるのであった。

5.日本ロックの誕生 1968-72年

 六〇年代末のニュー・ロックの時代に入ると、英米ではたんなる8ビートの循環コードを基本とするポップはもはや“ロック”と呼ばなくなっていた。世界的な反体制運動に呼応するように、既成のポップや芸能の秩序を解体する意思を備えていることが、“ロック”の特性となった。ロックは、その精神性や思想性、芸術性を問われるようになったのだ。だが、日本のポップには、このような新しい潮流を消化するだけの技量も伝統もなければ、PAシステムなど高度化し巨大化するロックのツールを利用するだけの資金的蓄積もなかった。

 こうした状況を打破したのが、六八年に「帰って来た酔っぱらい」の大ヒットを放ったフォーク・クルセダーズと、『ジャックスの世界』で衝撃的に出現したジャックスだった。フォークのフィールドに片足を踏み入れながらも、彼らにはニュー・ロックに匹敵する斬新さとオリジナリティが宿っていた。彼らが日本で果たした役割は、ニュー・ロックが英米で果たした役割とほぼおなじものだったのである。ニュー・ロックを消化しきれなかった日本のポップは、フォークルとジャックスを通じて、はじめてロック的なものを身につけたのであった。

 七〇〜八〇年代にかけての“日本のロック”に直接的につながるという意味で、フォークル、そしてジャックスこそが最初の“日本のロック”だった。ロカビリーも、六〇年代アメリカン・ポップスも、エレキ・インストも、GSも、それぞれが日本のロックに遺産を残した。が、現在の日本に“ロック・シーン”あるいは“ロック的シーン”があるとすれば、それはフォークルとジャックスの先駆的な活躍を抜きには生まれなかったものだ。したがって、フォークルとジャックスが活躍した一九六八年こそ日本の「ロック元年」なのである。

 彼らはいわゆるアングラ・アンダーグラウンド・シーンから登場したが、このシーンは、既存のポップ・カルチャーのシステムを拒んだところに成立していた。その支持層はGSアイドルに熱狂したティーンズではなく、大学生など二〇歳前後が中心で、反体制運動の前線に立つ世代と一致していた。音楽的には旧体制・GSへの反動もあり、彼らはニュー・ロックよりも知的でサブカルチャー的な印象の強い、ボブ・ディランなどのニュー・フォークを好んだため、このシーンで活躍したミュージシャンの多くが“フォーク”シンガーだった。アングラ・シーンの象徴的存在だった日本最古のインディー・レーベル“URC”を拠点に、高石友也・岡林信康などが「反戦フォーク」「関西フォーク」とも呼ばれたアングラ・フォークの旗手として活躍し、日本のウッドストックに例えられる全日本フォーク・ジャンボリー(六九〜七一年)などの時代的なイベントを先導した。もっとも、日本ロックにこうしたフォークの旗手たちが残したものは意外なほど少ない。

 七〇年には、このアングラ・シーンを足場に、今もなお日本のロックに強い影響力をもちつづけている細野晴臣、大滝詠一、松本隆、鈴木茂の四人から成る“はっぴいえんど”がデビュー、フォークルとジャックスが先鞭をつけた「日本のロック」の進むべき道を示した。フォークルとジャックスが日本ロックの無意識の創始者とすれば、『はっぴいえんど』と『風街ろまん』の二枚のアルバムによって「日本語ロック」を確立したはっぴいえんどは、日本ロックの意識的な創始者といえるかもしれない。

 アングラ・シーンからは、このほか遠藤賢司、高田渡、加川良、三上寛、あがた森魚、友部正人、はちみつぱい(後のムーンライダーズ)など、その後の日本ロック/ポップに影響を与えた個性的なミュージシャンも登場、さらにこのシーンの周辺から、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるなども登場している。

 こうしたアングラ・シーン以外からも、後の日本ロックを支えるグループやミュージシャンが続々と現れた。天才ギタリスト・竹田和夫のブルース・クリエイション、GS系ながらニュー・ロックに精通していたゴールデン・カップスやスピード・グルー&シンキ、七〇年代始めに日本最高のギタリストといわれた成毛滋、元ジャックスのつのだひろ、日本のロック・バンドとして初の本格的な海外遠征も果たしたフラワー・トラベリン・バンド、パンク以前のパンクともいえる村八分、政治状況をそっくり背負い込んだかのような頭脳警察、元フォークルの加藤和彦が結成した伝説のバンド、サディスティック・ミカ・バンド、矢沢永吉のキャロル、桑名正博のファニー・カンパニー・・・。七二年頃までに、今も日本ロックを導くビッグ・ネームがほぼ出そろったのであった。

 このように、黎明期にして多様な指向性を示していた日本ロックだったが、フォークルや岡林などアングラ系の一部を除いて、ビジネス的な成功とはほど多かった。“ロック”がビジネスとして成立するためにはつぎの時代を待たなければならなかったのである。

6.ロックの多様化とニュー・ミュージック 1973-78年

 GSとおなじように「ニュー・ミュージック」も日本ロック史に固有のジャンル分けである。ただし、その“定義”はGSにまして曖昧だ。しかしながら、七〇年代における日本のロック/ポップの潮流全体を俯瞰すれば、およそよつぎのような性格づけが可能だろう。“ニュー・ミュージック”とは、移入文化としてのロックを音楽的なベースとしながら、日本固有の「現在」を表現しうる新しいポップの体系を構築しようとする試み全体であると。言い換えれば、ニュー・ミュージックとは、移入音楽・ロックをいかなる形で受け入れるかという試行錯誤のプロセス全体だったのである。

 ニュー・ミュージック期ははっぴいえんどの解散した七三年に始まり、YMOが結成され、SASがデビューした七八年に終わる。この六年間は、日本が第一次石油ショックを克服して変動相場制下で成長を継続し、第二次オイル・ショックを主因とした安定成長に移行するまでの時期と一致する。すなわちニュー・ミュージックは、高度成長末期を象徴するポップであり、モノの価値が相対化され「絶対」という基準が遠ざかる時期に開花したポップだった。

 まず、七一〜七二年にかけての「日本語ロック論争」がニュー・ミュージック期の前奏曲であった。これは、表面的にははっぴいえんどの評価をきっかけとする「日本語ロックか英語ロックか」をテーマに行われた論争だったが、実は、移入文化・ロックを絶対的な基準として受け入れるか、ロックを日本という文脈で相対的に評価しながら受け入れるか、というロックの評価とその受入れ方をめぐる論争だったのである。アングラ“フォーク”シーンで誕生した日本ロックにとっては、不可避の宿命的な論争だったといえよう。

 「相対ロック派」を先導したのははっぴいえんどだ。彼らは七三年の解散後も、ロックを神棚に載せることなく、幅広いポップのエッセンスを吸収しながら、それを日本という風土の中でいかに具体化するかを追求し、新しいニュアンスのポップの体系を問い続けていった。はっぴいえんどからはキャラメル・ママ/ティン・パン・アレー(細野晴臣)とナイアガラ(大瀧詠一)という二つの大きな潮流が生まれたが、この二つの潮流からは多数の個性的なアーティストが巣立っている。たとえば荒井由実、山下達郎(シュガー・ベイブ)、吉田美奈子、あがた森魚、矢野顕子、ムーンライダーズ等々である。彼らはいずれもロックの相対化を通じて独自の世界を構築していった。

 しかしこの時期の「絶対ロック派」の活動が相対ロック派に及ぼした影響も無視できない。たとえば絶対ロック派の代表格・内田裕也プロデュースによる「ワン・ステップ・フェスティバル」(七四年)は、“ロックという普遍性”を布教するための一大イベントだったが、ここにおいて展開された日本ロックの多彩さは、八〇年代のロック/ポップの状況を先取りするものであった。カルメン・マキ&OZや紫といったハード・ロック系バンドが大きな支持を集めたのもこの時期の特徴だ。彼らの存在が八〇年代以降のヘヴィメタ・ブームのベースとなっていることは今更触れるまでもないだろう。またハードといえば本家本元のクリエイションもフェリックス・パパラルディとのコラボレーションを実現(七六年)、世界レベルで通用する日本のハード・ロックが確立された。

 七〇年代の日本ロックは、こうして相対ロック派と絶対ロック派との相克を一つの軸として展開するが、結局は相対ロック派に収束することになるのである。

 確かにこの時期は八〇年代のロック状況を予告するかのように、新しいスタイルのロックが次々に誕生し、それぞれ独自の発展を遂げていく。ロックの大衆化に大きな役割を果たしたキャロルの登場(七二年十二月)も手伝って、ロックもしだいにビジネス的な裏づけを与えられるようになり、ロック専門レーベルも設立された。ロック系レコードの発売タイトルも増加し、コンサートの動員力も増し、ライヴ・ハウスも定着、以前は注目されなかった地方のロック・バンドやブルース系のミュージシャンも活動の場を広げていく。七〇年代の終盤には、ゴダイゴ、甲斐バンド、ロック御三家(原田真二・桑名正博・チャー)もブレイクした。すでに触れた相対ロック派・絶対ロック派の活躍と併せて考えれば、この時代の特徴を「ロックの多様化」とは言えても「ニュー・ミュージック時代の到来」とは言えそうもない。

 が、それでもなお「ニュー・ミュージック」という表現にこだわりたい。というのは日本のポップ・マーケットには英米と同義の“ロック”が存在しうる素地はなかったのである。歌謡曲も含めたポップの世界全体を取り込むことによってのみ、あるいはポップの世界全体に革新をもたらすことによってのみ、つまり、ロックを相対化し、ポップ全体に直接・間接に革新をもたらそうという意図を多かれ少なかれ持っていなければ、ロックは生き残れなかったのだ。ロックの多様化はむしろポップを革新するための方法論の多様化なのであった。その意味でこの時代のロックの特徴は多様化そのものではなく、ロックの相対化によって生まれた新しいポップへの意志とそれを具体化する試行錯誤のプロセスだったのである。むろん、これこそが「ニュー・ミュージック」の本質なのだ。

 こうした本質を備えたニュー・ミュージック期の主役は、相対ロック派・はっぴいえんど↓ナイアガラ/ティン・パン・アレー系人脈であり、彼らと交流しながら独自性を獲得したサディスティック・ミカ・バンド系人脈であった。彼らの試行錯誤がシーンに与えた影響は絶大で、その後のポップは彼らの描いた軌跡を軸に展開したといってよい。八〇年代に入ってからのYMOおよび大滝詠一の大成功もその証しだが、松田聖子プロジェクトを経てユーミン帝国・サザン帝国へと至る潮流も彼ら抜きでは語れない。はっぴいえんど解散に始まるニュー・ミュージックは、ユーミンのブレイクおよびSASのデビューに帰結し、さらにYMOの結成によって乗り越えられることになるのである。

 なお、七〇年代中盤以降の歌謡曲化したフォークを「ニュー・ミュージック」ということもあるが、彼らはロックの相対化とは無縁で、新しいポップへの意志も備えていなかった。したがって、本書では彼らをニュー・ミュージックに含めなかった。

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