この秋で丸一年がたった沖縄問題は、県民投票をへて、国も沖縄県も互いに譲歩しあいながら、より具体的な基地縮小策を模索する段階に入った。だが、沖縄(あるいは県当局)の最終的な目標が「基地の全面返還」にとどまらないようだ。注目すべきは、日本の一地域にすぎない沖縄が、県民投票という示威行動を契機に、彼ら自身も、また日本のいかなる地域もこれまで経験したことのない、もっといえば、近代国家・日本が経験したことのない新しい歴史的局面を切り開こうとしている、という点なのである。
ここに『二十一世紀・沖縄のグランドデザイン』という報告書がある。今年の四月に沖縄県が作成した将来構想なのだが、驚いたことにそこには行政単位としての「県」という表現はほとんど見あたらない。未来の沖縄は、アメリカともアジア諸国とも日本とも等距離にある「国際都市OKINAWA」として描かれ、もはや「沖縄県」ではない。一方、「本土」はすべて「日本」と表現されている。まるで「日本をやめよう」と宣言しているのかのようだ。
誤解を恐れずにいえば、この構想は「沖縄独立宣言」の草稿なのである。実際、この構想の策定に関わった県の担当者からも、基地返還後の沖縄が目指すのはたんなる経済的自立などではなく、それ以上のもの(独立)という感触を得ている。
基地の跡地利用を見据えて沖縄県がとりまとめた『規制緩和等産業振興特別措置に関する要望書』(同八月)をみても、日本というシステムから離脱したいという彼らの意志が伝わってくる。たとえば「独自関税制度の導入」や外国人に対する「ノービザ制の拡充」といった要求項目がそれである。国の権限である関税権や出入国管理権の一部を沖縄に委ねるということは、一国二制度どころか国境の変更を意味している。これはまさに「独立」のための下地づくりを企図したものといってよい。
さらに、那覇空港のハブ化や那覇港のベースポート化といった要求の背景にも、香港やシンガポールといったフリーポートを参考にして創られたという「国際都市OKINAWA」構想、つまり独立国・沖縄のイメージがある。沖縄は、日本の枠内での特別扱いを求めているのではなく、あくまで日本の枠外においてほしいと主張しているのである。
要は、基地返還後に沖縄経済の自立化を図ろうとしても、強力な集権的規制体系を備えた日本というシステムが邪魔をしてうまくいきそうにないということなのである。ならば、いっそのこと琉球王朝時代を見習って、カネやモノやヒトの流れについて日本から自由な自立的経済圏を構築したらどうか、というのが一連のプランを発想した原点だろう。「アメリカ統治も散々だったが、日本復帰後もろくなことはなかった」という声さえ聴こえてきそうである。
県当局のこうした構想を「薩摩侵攻以来初の本格的沖縄独立論」ともてはやすのはたやすいが、その実現にはあまりにも多くの障害が伴うだろう。たとえ沖縄が独立を勝ち得るとしても、その間に日本からの途方もない財政援助が必要となろう。アジア各国の資本と労働者が大量に流入し、沖縄の人々が主役の座から引きずりおろされる可能性も危惧されよう。むろん、外交や安全保障の問題もまったく手つかずである。
「自立」のための構想の中に見え隠れするこの「独立」については、まだ一般県民を含め広く論議される段階には至っていない。なによりも重大なのは、これが今後果たして県民全体の総意となるか、そして日本国民全体の承認を得られるかという点であろう。
もっとも、私たちはこうした構想を絵空事とばかりせせら笑ってはいられない。沖縄が提起したのは、日本の一地域として脇役に甘んずるか、独立して主役を張るかという主権をめぐる普遍的な問題だからだ。強力な集権システムと引き替えに多くを失ってきた日本の各地域にとっても、これはきわめて切実な問題である。
沖縄問題は、日本という国家、日本というシステムへの問いかけでもあるのだ。
これまで「沖縄問題」といえば、米軍基地をめぐる政治的・社会的な問題にほぼ限定されていたといってよい。「基地=悪(もしくは必要悪)」であって、メディアに流布される議論の多くが、米軍基地がいかに沖縄の人々の命と心を踏みにじってきたかを告発するものであった。
たしかに、一九四五年春の沖縄戦で軍民計二〇万人ともいわれる犠牲者を出し、戦後も米軍統治下で信じがたいような辛酸を舐めてきた沖縄の人々の傷は、簡単に癒されるものではない。七二年の本土復帰後も、基地という負担を沖縄に対して重点的もしくは一方的に配分するという日米安保体制の構図に基本的な変化はなく、軍用機・軍用車両事故や騒音などによる基地公害はもちろんのこと、数は少なくなったとはいえ、米兵による犯罪被害の実態も依然として軽視できない。
九五年十月二十一日に開かれた「米軍人による少女暴行事件を糾弾し日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」における一高校生の次のようなスピーチが、沖縄問題のこれまでのあり方をまさに象徴している。「私たちに静かな沖縄を返してください。軍隊のない、悲劇のない島を返してください」(沖縄タイムス 九五年十月二十二日)。
本土復帰運動を先導した一人である元コザ市長・大山朝常も、その近著において、琉球処分以来今日に至るまでのヤマト(日本)による沖縄政策を糾弾しながら、以下のように切々と訴えている。
(日本という国の)迷走の行き着いた先が、あのオウム真理教事件ではないでしょうか。もともと、あのような狂気集団を生み出す土壌が日本にはあったのかもしれませんが、私にはあの事件が、戦後五十年、国をあげてひたすら金儲けに走った結果を象徴する事件に思えてなりません。沖縄を踏み台にしたあげく、日本という国は狂ってしまったとしかいいようがありません。
大山朝常『沖縄独立宣言』(現代書林刊・九七年四月)
半ば感情的なこうした論調が現在でも一定の影響力をもっていることは否めないが、その一方で「沖縄問題」はより冷静で多面的な検討を要する問題へと変化している。
こうした変化の前提となったのは以下のような政治的プロセスであった。
九五年九月四日に、米兵による少女暴行事件が発生するが、大田沖縄県知事はこの暴行事件に対する県民感情に配慮して、当時の村山首相に対して軍用地の強制使用にかかる代理署名を拒絶する旨表明(同年十一月四日)、その後首相に就任した橋本首相は、代理署名をめぐる沖縄県との一連の係争を引き継ぐ一方で、モンデール駐日アメリカ大使やクリントン大統領との会談を通じて、基地の整理縮小という方針を確認、九六年四月十二日には米海兵隊が使用する普天間飛行場(宜野湾市)の返還が日米両国政府の間で合意された。
普天間飛行場の返還については、沖縄県や宜野湾市が従前から強く要求してきたことではあったが、九六年春の時点で返還が合意されるとは予想の外だったのである。もっといえば、小規模な米軍施設を除いて、大規模な米軍施設が返還される事態を、沖縄の人々はほとんど誰も想定していなかったのである。「返ってこないことを前提とした」(沖縄県の某現役首長が筆者に語った言葉)という性格が強い返還要求運動だったため、いざ基地を返すと言われて、地元の指導者たちは大いに困惑した。というのも「跡地利用」をより真剣に検討しなければならなくなったからである。返還に伴って、基地の使用料(地代)や基地に関連したさまざまな政府補助金の合計額に匹敵する、あるいはそれを越える収益を生み出す跡地利用事業をプランニングする必要に迫られただけではなく、普天間だけで数十億とも百億超ともいわれる跡地整備の直接的な費用をいかに捻出するかについても、思案をめぐらせなければならない。沖縄県や宜野湾市も、それまで跡地利用のプランをもっていなかったわけではないが、返還がスケジュールに乗るのと乗らないとではその対応に大きな違いがでるのは当然であった。
「沖縄問題」が変化したのは、まさにこの段階であった。「沖縄問題」を「沖縄の心」を訴える政治問題・社会問題として扱っているだけでは出口がみえない、沖縄を経済的側面から見直さなければ、未来はけっして見えてこないということに、人々が気づき始めたのである。
普天間返還の対応に苦慮するなかで、沖縄県は、返還が合意される以前から準備していた『二十一世紀・沖縄のグランドデザイン』(九六年四月)と題する将来構想を発表した。この構想には、基地と経済振興のはざまで揺れ動く沖縄の姿が浮き彫りにされている。日本という枠組みのなかで沖縄が浮上することはむずかしい、いっそのこと日本という枠組みを取り払ってみたら、という苦肉の策ともいえるアイデアが構想の下地となっていた。この点については、拙稿の一部を引用しておきたい。
ここに『二十一世紀・沖縄のグランドデザイン』という報告書がある。今年の四月に沖縄県が作成した将来構想なのだが、驚いたことにそこには行政単位としての「県」という表現はほとんど見あたらない。未来の沖縄は、アメリカともアジア諸国とも日本とも等距離にある「国際都市OKINAWA」として描かれ、もはや「沖縄県」ではない。一方、「本土」はすべて「日本」と表現されている。まるで「日本をやめよう」と宣言しているのかのようだ。
誤解を恐れずにいえば、この構想は「沖縄独立宣言」の草稿なのである。実際、この構想の策定に関わった県の担当者からも、基地返還後の沖縄が目指すのはたんなる経済的自立などではなく、それ以上のもの(独立)という感触を得ている。
基地の跡地利用を見据えて沖縄県がとりまとめた『規制緩和等産業振興特別措置に関する要望書』(同八月)をみても、日本というシステムから離脱したいという彼らの意志が伝わってくる。たとえば「独自関税制度の導入」や外国人に対する「ノービザ制の拡充」といった要求項目がそれである。国の権限である関税権や出入国管理権の一部を沖縄に委ねるということは、一国二制度どころか国境の変更を意味している。これはまさに「独立」のための下地づくりを企図したものといってよい。
さらに、那覇空港のハブ化や那覇港のベースポート化といった要求の背景にも、香港やシンガポールといったフリーポートを参考にして創られたという「国際都市OKINAWA」構想、つまり独立国・沖縄のイメージがある。沖縄は、日本の枠内での特別扱いを求めているのではなく、あくまで日本の枠外においてほしいと主張しているのである。
要は、基地返還後に沖縄経済の自立化を図ろうとしても、強力な集権的規制体系を備えた日本というシステムが邪魔をしてうまくいきそうにないということなのである。ならば、いっそのこと琉球王朝時代を見習って、カネやモノやヒトの流れについて日本から自由な自立的経済圏を構築したらどうか、というのが一連のプランを発想した原点だろう。「アメリカ統治も散々だったが、日本復帰後もろくなことはなかった」という声さえ聴こえてきそうである。
拙稿「日本のシステム問う沖縄の<独立>構想」(朝日新聞・九六年十月八日夕刊)
九六年秋の時点で、沖縄県の将来構想が「独立」をも視野に入れた経済的・政治的自立さえ企図したものだとの議論は意外なほど少なかったが、その後の「沖縄問題」に関する議論の展開は独立を強く意識したものへとシフトする。
政治的舞台でいえば、九七年二月十三日の衆議院予算委員会における上原康助代議士(社民党・沖縄県選出)の「私はほんとうに琉球王国を作ろうかと思っている。遅いけれども、大田知事を新琉球国王にして・・・」といった発言がこうした事態を象徴している。前年(九六年)の九月八日に行われた基地整理縮小の是非をめぐる県民投票も、独立というカードをちらつかせながら、日本政府から沖縄に有利な条件を引き出す政治的環境を醸成するための大田知事独自の戦術だったという見方さえ可能である。
また、九七年五月十五日の復帰二十五周年を控えて、ジャーナリズムの側でも『Newsweek(日本版)』の特集<沖縄が「独立」する日>(九七年五月二十一日号)や『This is 読売』の特集「沖縄独立論の虚実」(九七年六月号)など、沖縄問題は今や沖縄独立問題である、との印象を与える記事が増えていった。
もっとも、こうした「沖縄独立論」あるいは「沖縄自立論」の多くは、経済の重要性を語りながらも具体的で実現可能なプログラムをほぼ欠いていた。むろん、県当局も、こうした難点を十分承知の上であえて理念としての「沖縄独立」を掲げたのであった。
しかしながら、「独立」がこのように議論されるなかで、これまでの感情論を基軸とした「沖縄問題」のあり方は急速に変化していった。少なくとも独立・自立と経済が一体のものであるという認識が広まりはじめたのである。結果として「米軍基地全面撤去」を声高に叫んできた勢力をも含めて、今や政治的立場を越えて「問題は経済にあり」という点では一致しつつある。
基地はないほうがいい。が、基地がなくなれば、軍用地の地代と基地従業員の賃金などから構成される直接的な基地収入(県民総支出の約5%)ばかりか、基地の受け入れと引き替えに補償されてきた政府からの莫大な財政援助も失いかねない。筆者の試算によれば、沖縄県における県民総支出の約3割が、何らかのかたちで政府の補助金と絡んでいる。基地撤去によってこうした補助金が大幅に削減されれば、四十七都道府県中最低の所得水準、全国平均の約2倍にのぼる失業率といった沖縄の経済的な現実は、いちだんと過酷なものになりかねない。逆に経済という足腰さえ鍛えておけば、基地全面撤去というスローガンの実現も、より現実性の高いものとなる、というわけである。
こうした世論の変化を受けるかのように、県当局は、沖縄の経済的自立を可能とする具体的なプランの策定を急いだ。県による沖縄経済振興策は、田中直毅委員長(経済評論家)がとりまとめた『産業・経済の振興と規制緩和等検討委員会報告書』(九七年年四月)を下敷きとしている。日本政府も、この田中報告を土台とした沖縄振興策を尊重するという姿勢を見せている。
田中報告は、沖縄経済の自立的発展を図るために、自己決定・自己責任を最大の原則としながら、
(1)沖縄自由貿易地域(FTZ)の全県への拡大
(2)マルチメディア・アイランド構想の推進
(3)国際観光・保養基地としての育成
という三つの柱を立て、その障害となるさまざまな規制の緩和もしくは撤廃を求める内容となっている。
三つのなかでいちばんの目玉となっているのは(1)の全県FTZの実施である。
沖縄自由貿易地域は、沖縄振興開発特別措置法第二十三条に基づいて昭和六十二年十二月に認可された日本で唯一のフリー・トレード・ゾーン(FTZ)である。指定地域に立地するかぎり、当該企業は、関税免除などの優遇措置を受けられる。指定地域内で原材料を輸入し、それを加工して輸出する場合、最大のメリットを受けられるが、製品を国内に出荷する場合にはその時点で関税がかかるので、メリットはあまりない。製造業振興のために鳴り物入りでオープンした施設だが、ほとんど効果を挙げていないのが実状である。
田中報告は、現状では東京ドーム程度の面積しかないFTZを全県に拡大すると同時に投資税額控除制度などを実施して(県当局は併せて法人税軽減も提案・自民党税制調査会もすでに承認済み)、「沖縄経済特別区」とでもいいうるような経済空間を創出することを提案している。
しかしながら、沖縄経済が「自由化」「無関税化」することによって、沖縄経済が享受するメリットよりも、沖縄の地場産業・地場企業が受けるダメージのほうが大きいのではないか、という懸念もきわめて強い。
この全県FTZ構想について、沖縄有数のエコノミストである琉球銀行の牧野浩隆常任監査役は筆者に語った(九七年八月二十五日)。
「基本的に経済の自由化というのは強い経済をもつところが行うものなんです。発展途上にある経済はむしろ国内産業の保護育成に力を入れて、自由化には一定の歯止めをかけるものでしょう。沖縄は果たして強い経済をもっているといえるでしょうか?たとえFTZが成功したとしても、世界貿易の趨勢は関税免除の方向に動いていますよね。そんな時代ですから、沖縄がメリットを享受できる期間あるとしても、それはきわめて限られたものとなるでしょう」
九六年十一月に出版された牧野の『再考沖縄経済』(沖縄タイムス社)は、沖縄経済の実態を丹念に分析した労作だが、従来ほぼタブーとされてきた「基地全面撤去」というスローガンを批判し、現実的な対応を説いたことでもちょっとした物議を醸した。
「あの本でも言ってるんです。企業誘致といった旧来型の手法で地域開発を進めることはもうやめましょうと。沖縄から内発的に産業が育つようにがんばりましょうと。そのために研究開発と人材育成に力を入れることが大切です。規制緩和や自由化がすべてではない、規制緩和や自由化によって失うものもきちんとみきわめないといけないんです」
牧野のFTZ批判は説得力がある。筆者の専門である租税論の領域にてらしてみても、自民税調の段階では既定の方針といわれる法人税軽減の対沖縄特別措置が、沖縄に経済的な繁栄を約束するとの保証はまったくない。というのも、企業は関税や法人税など税制のみを投資の意思決定要因とはしないからである。一般に企業は、立地、人材、人件費、物流コスト、金融機関の融資条件、道路・港湾・空港・上下水道など社会資本の整備水準、他の諸税あるいは補助金制度のあり方、治安・社会経済的安定度など、きわめてさまざまな条件を総合的に勘案した上で意思決定を行う。たとえ関税免除・法人税軽減によって、企業誘致に成功したとしても、国内外の他の地域がより有利な条件を提示すれば、あるいは内外の投資環境が、景気その他の理由で一変すれば、初期投資の回収が終わる前に、企業は対沖縄投資を見直す恐れもある。たとえば、アジアの経済危機が現在のように深刻化してしまうと、沖縄は日本やアジアのみならず、ヨーロッパやアメリカとの競合関係も意識しなければならない。
沖縄有数の海運会社、有村海運の有村喬会長もFTZに批判的な一人である。
「今、全県FTZを実施したら沖縄経済は壊滅的な状態になりかねない。農業しかり、製造業しかり。なにしろ関税のかからないものがどんどん入ってきてしまうわけだからだから、全県FTZ案は売国的と断じてもいい。私は(県東南部で進められている)中城湾の港湾開発、それから那覇港の整備によってインフラを準備し、港湾地区限定型のフリーポートを実施したらいいと思っている。物流コストが抑えられ、経済全体にも大いにプラスになるはずだ」(九七年八月二十六日・筆者の面談調査に答えて)
全県FTZに対する経済界の態度は思いのほか冷たい。沖縄タイムスの調査(九七年七月二十三日朝刊)でも、製造業や農業などでは全県FTZに対して懐疑的な事業者が多い。かといって、特定産業を保護するために、無関税適用除外品を多数設定するとしたら、一般には自由化のメリットも薄くなる。
こうした声も考慮すると、全県FTZのもつリスクはあまりにも大きいと断じざるをえない。競争が企業や人を強くすることは事実だが、そもそも競争力をほとんど備えていないところに自由化の波が押し寄せれば、生きながらえるのは難しい。地域限定のFTZにしても、限定や規制のあり方によっては、これまでの経験が示すように、効果がほとんど生じない可能性も強い。少なくともFTZ構想が万能であるかのような幻想を抱くのは厳に諌めなければならない。
「沖縄問題」を経済的な側面から捉えるという近年の傾向は、心情に振れすぎた嫌いのあるこれまでの「沖縄問題」の経緯からいって歓迎すべき事態であるが、この問題をより本質的に捉えるとすれば、やはり国家のあり方をめぐる問い掛けを回避できないだろう。
これについては、故・司馬遼太郎の次のような言葉がヒントを提供する。
――島津の琉球侵略後、また明治の琉球処分(廃藩置県)後、日本とくっついていて、ろくなことがなかった。
とも、その論者はいう。
明治後、「日本」になってろくなことがなかったという論旨を進めてゆくと、じつは大阪人も東京人も、佐渡人も、長崎人も広島人もおなじになってしまう。ここ数年そのことを考えてみたが、圧倒的におなじになり、日本における近代国家とは何かという単一の問題になってしまうように思える。
司馬遼太郎『街道をゆく 6 沖縄・先島への道』(朝日文庫)
近代国家としての日本が集権的な体制を構築するに当たって、各地方は甚大な犠牲を払ってきた。その意味では沖縄だけが特別だったのではない。むろん、沖縄が払ってきた犠牲は他の地域にまさるだろう。だからといって、沖縄以外の地域が無視されてよいということにもならない。沖縄だけが独立や自立を語る資格を有するわけではないのである。
つまり、軍事力を含む国家権力と国家のもつ財政力(財政高権)を、受益と負担との関係に配慮しながらいかに配分していくか、さらにそのプロセスを進めながら、国際的な競争力と協調性とをいかに確保していくか、といった視点を取り込むことによって、集権と分権のあり方、国家のあり方を再検討する必要があるのである。
真に問われているのは、日本というシステムそのものの構造改革であって、沖縄の独立・自立の問題だけではないのである。
(1998年1月23日記)
も く じ
1.「沖縄問題」の経済化
(1)「経済化」の瞬間〜普天間飛行場返還問題
(2)沖縄独立論・沖縄自立論の台頭
(3)沖縄自立論の現在
2.自立のための選択肢
(1)優位性の検討
(2)「貿易立国」の可能性
3.文化としての沖縄的ライフスタイルとその事業化
(1)文化としてのライフスタイル
(2)ケーススタディ:沖縄大衆文化の可能性1
(3)むすび
1.「沖縄問題」の経済化
(1)「経済化」の瞬間〜普天間飛行場返還問題
1980年代末から90年代にかけて、それまで主として政治的な舞台において語られてきた「沖縄問題」は、政治的な足枷を引きずりながらも、しだいに「経済化」、つまり経済問題化していった。たしかに「沖縄の心」に重心をおいた論調が、現在でもなお大きな影響力をもっていることは否定しがたい。が、地方分権推進法が施行され(平成7年7月3日)、その具体的な推進の方策について、地方分権推進委員会より5次にわたる勧告が提出されてから1、「分権」と「自立」が表裏一体の最優先課題として論じられるようになり、結果として、沖縄問題の経済化がいっそう明確なかたちで推し進められることになった。
以下ではまず、沖縄問題が経済化するまでの経緯を簡単にまとめておきたい。
1995年秋に米兵による少女暴行事件が発生するが、大田沖縄県知事はこの暴行事件に対する県民感情に配慮して、当時の村山首相に対して軍用地の強制使用にかかる代理署名を拒絶する旨表明した(同年11月4日)。その後就任した橋本龍太郎首相は、代理署名をめぐる沖縄県との一連の係争を引き継ぐ一方で、モンデール駐日アメリカ大使やクリントン大統領との会談を通じて、基地の整理縮小という方針を確認、1996年4月12日には、日米両国政府のあいだで米海兵隊が使用する普天間飛行場(宜野湾市)の返還が合意されることとなった(職名はいずれも当時)。
普天間飛行場の返還については、沖縄県や宜野湾市が従前から強く要求してきたことではあったが、1996年春の時点で返還が合意されるとは予想の外だったのである。もっといえば、小規模な米軍施設は別として、軍事的な重要性の高い米軍施設が返還される事態を、ほとんどの人々は想定していなかったのである。「返ってこないことを前提とした」(沖縄県の某現役首長が筆者に語った言葉)という性格が強い返還要求運動だったため、沖縄の頭越しに急遽返還が決まると、地元の指導者たちは大いに困惑した。というのも「跡地利用」をより真剣に検討しなければならなくなったからである。返還に伴って、基地の使用料(地代)や基地に関連したさまざまな政府補助金の合計額に匹敵する、あるいはそれを越える収益を生み出す跡地利用事業をプランニングする必要に迫られただけではなく、普天間だけで数十億とも百億超ともいわれる跡地整備の直接的な費用をいかに捻出するかについても、具体的な案をまとめる必要がある。沖縄県や宜野湾市も、それまで跡地利用プランを検討していないわけではなかったが、返還が実体としてスケジュールに乗って来ると、その対応に大きな違いがでるのは当然であった。
「沖縄問題」が変化したのは、まさにこの段階であった。「沖縄問題」を「沖縄の心」を訴える政治問題・社会問題として扱っているだけでは出口がみえない、沖縄を経済的側面から見直さなければ、未来はけっして見えてこないということを、自覚せざるをえなかったのである。
(2)沖縄独立論・沖縄自立論の台頭
普天間返還の対応に苦慮するなかで、沖縄県は、返還が合意される以前から準備していた『二十一世紀・沖縄のグランドデザイン』と題する将来構想を発表した(96年4月)。この構想には、基地と経済振興のはざまで揺れ動く沖縄の姿が浮き彫りにされている。日本という枠組みのなかで沖縄が浮上することはむずかしい、いっそのこと日本という枠組みを取り払ってみたら、という苦肉の策ともいえるアイデアが構想の下地となっていた。この点については、すでに発表した拙稿の一部を引用しておきたい2。
ここに『二十一世紀・沖縄のグランドデザイン』という報告書がある。今年の四月に沖縄県が作成した将来構想なのだが、驚いたことにそこには行政単位としての「県」という表現はほとんど見あたらない。未来の沖縄は、アメリカともアジア諸国とも日本とも等距離にある「国際都市OKINAWA」として描かれ、もはや「沖縄県」ではない。一方、「本土」はすべて「日本」と表現されている。まるで「日本をやめよう」と宣言しているのかのようだ。
誤解を恐れずにいえば、この構想は「沖縄独立宣言」の草稿なのである。実際、この構想の策定に関わった県の担当者からも、基地返還後の沖縄が目指すのはたんなる経済的自立などではなく、それ以上のもの(独立)という感触を得ている。(中 略)
要は、基地返還後に沖縄経済の自立化を図ろうとしても、強力な集権的規制体系を備えた日本というシステムが邪魔をしてうまくいきそうにないということなのである。ならば、いっそのこと琉球王朝時代を見習って、カネやモノやヒトの流れについて日本から自由な自立的経済圏を構築したらどうか、というのが一連のプランを発想した原点だろう。「アメリカ統治も散々だったが、日本復帰後もろくなことはなかった」という声さえ聴こえてきそうである。
1996年秋の時点で、沖縄県の将来構想が「独立」をも視野に入れた経済的・政治的自立さえ企図したものだとの議論は意外なほど少なかったが、その後の「沖縄問題」に関する議論の展開は独立を強く意識したものへとシフトする。
政治的舞台でいえば、1997年2月13日の衆議院予算委員会における上原康助代議士(社民党・沖縄県選出)の「私はほんとうに琉球王国を作ろうかと思っている。遅いけれども、大田知事を新琉球国王にして・・・」といった発言がこうした事態を象徴している。前年(1996年)の9月8日に行われた基地整理縮小の是非をめぐる県民投票も、独立というカードをちらつかせながら、日本政府から沖縄に有利な条件を引き出す政治的環境を醸成するための大田知事独自の戦術だったという見方さえ可能である。
また、1997年5月15日の復帰25周年を控えて、ジャーナリズムの側でも『Newsweek(日本版)』の特集<沖縄が「独立」する日>(1997年5月21日号)や『This is 読売』の特集「沖縄独立論の虚実」(1997年6月号)など、沖縄問題は今や沖縄独立問題である、との印象を与える記事が増えていった。
もっとも、こうした「沖縄独立論」あるいは「沖縄自立論」の多くは、経済の重要性を語りながらも具体的で実現可能なプログラムをほぼ欠いていた。むろん、県当局も、こうした難点を十分承知の上であえて理念としての「沖縄独立」を掲げたのであった。
しかしながら、「独立」がこのように議論されるなかで、これまでの感情論を基軸とした「沖縄問題」のあり方は急速に変化していった。少なくとも独立・自立と経済が一体のものであるという認識が広まりはじめたのである。結果として「米軍基地全面撤去」を声高に叫んできた勢力をも含めて、今や政治的立場を越えて「問題は経済にあり」という点では一致しつつある。
基地はないほうがいい。が、基地がなくなれば、軍用地の地代と基地従業員の賃金などから構成される直接的な基地収入(県民総支出の約5%に相当)ばかりか、基地の受け入れと引き替えに補償されてきた政府からの莫大な財政援助も失いかねない。筆者の単純な試算によれば、沖縄県における県民総支出の約30%が中央政府の支出に依存している3。基地撤去によってこうした補助金が大幅に削減されれば(筆者の単純な試算では県民支出の約20%に相当4)、47都道府県中最低の所得水準、全国平均の約2倍にのぼる失業率といった沖縄の経済的な現実は、いちだんと深刻なものになりかねない。逆に経済という足腰さえ鍛えておけば、基地全面撤去というスローガンの実現も、より現実性の高いものとなる、というわけである。
(3)沖縄自立論の現在
しかしながら、『21世紀・沖縄のグランドデザイン』に象徴される「沖縄独立論」あるいは「沖縄自立論」の多くは、「経済」の重要性を語りながらも具体的で実現可能なプログラムをほぼ欠いていたといってよい。
大田県政時代における沖縄経済振興策は、田中直毅委員長(経済評論家)がとりまとめた『産業・経済の振興と規制緩和等検討委員会報告書』(97年4月/以下「田中報告」)を下敷きとしていた。田中報告は、沖縄経済の自立的発展を図るために、自己決定・自己責任を最大の原則としながら、
@沖縄自由貿易地域(FTZ)の全県への拡大 Aマルチメディア・アイランド構想の推進 B国際観光・保養基地としての育成
という三つの柱を立て、その障害となるさまざまな規制の緩和もしくは撤廃を求める内容となっている。
三つのなかでいちばんの目玉となっているのは@の全県FTZの実施である。沖縄自由貿易地域は、沖縄振興開発特別措置法第23条に基づいて昭和62年12月に認可された日本で唯一のフリー・トレード・ゾーン(FTZ)である。指定地域に立地するかぎり、当該企業は、関税免除などの優遇措置を受けられる。指定地域内で原材料を輸入し、それを加工して輸出する場合、最大のメリットを受けられるが、製品を国内に出荷する場合にはその時点で関税がかかるので、メリットはあまりない。製造業振興のために鳴り物入りでオープンした施設だが、実際にはほとんど効果を挙げられなかった。
そこで田中報告は、東京ドーム程度の面積しかなかったFTZを全県に拡大すると同時に投資税額控除制度などを実施して(県当局は併せて法人税軽減も提案)、「沖縄経済特別区」とでもいいうるような経済空間を創出することを提案した。
この全県FTZ構想について、沖縄有数のエコノミストである琉球銀行の牧野浩隆常任監査役(当時/現在は沖縄県副知事)は、1997年夏、次のように筆者に語っている5。
「基本的に経済の自由化というのは強い経済をもつところが行うものなんです。発展途上にある経済はむしろ国内産業の保護育成に力を入れて、自由化には一定の歯止めをかけるものでしょう。沖縄は果たして強い経済をもっているといえるでしょうか?たとえFTZが成功したとしても、世界貿易の趨勢は関税免除の方向に動いていますよね。そんな時代ですから、沖縄がメリットを享受できる期間あるとしても、それはきわめて限られたものとなるでしょう」
沖縄有数の海運会社、有村海運の有村喬会長(当時)もFTZに批判的な一人であった6。
「今、全県FTZを実施したら沖縄経済は壊滅的な状態になりかねない。農業しかり、製造業しかり。なにしろ関税のかからないものがどんどん入ってきてしまうわけだからだから、全県FTZ案は売国的と断じてもいい。私は(県東南部で進められている)中城湾の港湾開発、それから那覇港の整備によってインフラを準備し、港湾地区限定型のフリーポートを実施したらいいと思っている。物流コストが抑えられ、経済全体にも大いにプラスになるはずだ」
いずれも沖縄経済が「自由化」「無関税化」することによって享受するメリットよりも、沖縄の地場産業・地場企業が受けるダメージのほうが大きいという指摘である。沖縄タイムスの調査でも7、製造業や農業などでは全県FTZに対して懐疑的な事業者が多数を占めた。かといって、特定産業を保護するために、無関税適用除外品を多数設定するとしたら、一般には自由化のメリットも薄くなるため、政府当局および県当局は苦慮したすえ、結果として従来通りの地域限定型のFTZを強化する方向で検討を進めた。
田中報告後の1998年4月1日に施行された改正沖縄振興開発特別措置法は、@特別自由貿易地域の創設、A自由貿易地域の機能強化、B情報通信産業振興地域制度の創設、C観光振興地域制度を創設、D中小企業の支援などを骨子としている。具体的な施策としては法人税の所得控除(特別自由貿易地域/法人所得の35%を所得控除)と投資税額控除(自由貿易地域・情報通信産業振興地域制度・観光振興地域制度)などが盛り込まれているが、全県FTZ化は避け、FTZ機能の強化拡大を指定地域のみに限っている。
同措置法によってあらためて実施されたFTZについては、「法人税の35%減免は進出を検討する企業にとって、また原料製品の選択課税制度は原材料を輸入して製品を国内で販売する加工組立業者にとって、それぞれ大きなインセンティブとなる」8というポジティブな評価もあるが、筆者は依然としてその効果に対して懐疑的である。法人税軽減という租税政策が、沖縄に経済的な繁栄を約束するとの保証はまったくないからである。
というのも、企業は関税や法人税など税制のみを投資の意思決定要因とはしないからである9。一般に企業は、立地、人材、人件費、物流コスト、金融機関の融資条件、道路・港湾・空港・上下水道など社会資本の整備水準、他の諸税あるいは補助金制度のあり方、治安・社会経済的安定度など、きわめてさまざまな条件を総合的に勘案した上で意思決定を行う。たとえ関税免除・法人税軽減によって、企業誘致に成功したとしても、国内外の他の地域がより有利な条件を提示すれば、あるいは内外の投資環境が、景気その他の理由で一変すれば、初期投資の回収が終わる前に、企業は対沖縄投資を見直す恐れもある。たとえば、アジア経済の停滞が現在のように長期化してしまうと、沖縄は日本やアジアのみならず、ヨーロッパやアメリカとの競合関係も意識しなければならない。なによりも環境制約がこれまでにない規模で進行する時代にあって、経済成長型のタックス・インセンティヴに対する過信は禁物である10。もっとも、改正沖縄振興開発特別措置法の効果が判明するには、少なくとも2〜3年は要するので、現在は注意深く見守るほかない。
一方、従来タブーとされてきた「基地全面撤去」というスローガンを批判し、現実的な対応を説いた牧野浩隆(現副知事)の議論11は、内発的な産業振興の重要性を指摘した点できわめて大きな説得力があった。牧野が副知事に就任後にとりまとめられた沖縄政策協議会12の『沖縄経済振興21世紀プラン』(中間報告・1999年6月)13は、従来の経済振興プランに比べてれば、はるかに具体性を備えており、牧野による従前からの主張が反映されたものといえよう。しかしながら、あまりにも網羅的で諸施策間のリンケージも明確になっていないため、沖縄で振興すべき産業の具体像あるいは優先順位が、必ずしも明確にされているとは言い難い。ただし、「自立型経済とは、活力のある民間経済を主体とする経済にほかならない。そうした点から、まず第一に、自立型経済への取組の主役は、産業界や県民であり、その自主性が尊重されるべきである」(政策目的と政策手法)や「『沖縄の持つ優位性をいかに徹底的に活かしていくか』という視点がますます重要になってきている。沖縄の抱える不利性の克服は引き続き重要な課題であるが、不利性の克服という視点中心のアプローチだけでは、もはや限界があるものと思われる」(「優位性」の重視と「不利性」の克服)という理念的な方向性は、これまでにない視点として評価されなければならない。
稲嶺県政が誕生し、九州・沖縄サミットを大過なく終えた現在、沖縄における経済的自立をめぐる議論がいかなる展開を示しているかについては必ずしも十分伝えられていないが、普天間基地移設問題がネックとなって、再び問題解決の糸口が、政治と経済と狭間で消失しかけているように思われてならない。普天間から名護に移設される予定となっている基地の使用期限の問題、いわゆる「15年問題」が政治的に決着をつけなければならない難題であることは重々承知しているが、この問題に手足を縛られて、沖縄経済の自立に向けてのプランを吟味し、これを実施に移す余裕を奪われているとすれば、将来に禍根を残すことは明らかだ。新聞報道によれば、複数任命した副知事のうち、経済に強い牧野副知事までも政治的な交渉に使っているようだが、果たしてこのような姿勢で沖縄の経済的な自立が可能となるのであろうか。
また、サミットの際に政府から支出された総額500億という資金の使い道についても14、従来型の公共事業支出と同じような土木建設業優先の配分原理が働いたといわれているが、もしそうであるとすれば、沖縄問題は再び「政治化」の道に押し戻されていることになる。政治的な力学にもとづく公的資金配分は、長期的な視野での経済振興を阻むものになりかねない。
篠原はここであらためて沖縄問題は基本的に経済問題として扱うべきであるという立場を確認する一方、さらにステップを進めて、具体的な産業のあり方を根本から問うておきたい。
2.自立のための選択肢
(1)優位性の検討
沖縄経済は現在もなお、「公経済」に牽引されるかたちでその命脈を保っている。公共事業や公共サービスに伴って中央政府から配分される資金が途絶えれば、現状を維持することはできない。こうした現実を打開するために、日本の他の地域よりも優位性のある地理的特性を生かして、ある種の「貿易立国」も構想されてきたが15、東アジア・東南アジア地域諸国との競合関係を前提にすれば、必ずしも現実味があるとは思えない。情報通信インフラの整備を通じてIT産業を沖縄経済の軸として育成しようという提案も有力視されているが、何を目標にいかなるIT化を進めるのかというビジョンははっきり見えてこない。「沖縄がマルチメディアにおけるフロンティア地域となり、21世紀の新産業創出及び高度情報通信社会の先行的モデルを形成する」という決意の下、県主導でスタートした「マルチメディアアイランド構想」16にしても、県内の情報通信産業における雇用吸収力を6,000人(1997年)から24,500人(2010年)に引き上げるという具体的な到達目標を設定しているものの、そのために何をすべきかという点が今ひとつはっきり見えてこない。日本の経済社会全体がIT化の大波を被って各自治体がしのぎを削るようになっている現在、IT化に関わる沖縄の優位性が何かをあらためて捉え直す必要がある。
(2)「貿易立国」の可能性
では、沖縄はいかにして自立へのシナリオを描いていけばよいのか。ここで想起されるのが、いわゆる「経済的差異」をめぐる一般的な議論である。所得形成の機会として地域間の「差異」あるいは「比較優位」を利用するという手法は、古典派経済学以来、ひとつの有力な経済振興の手段と見なされてきた。沖縄にもこれを応用することが可能だとすれば、沖縄固有の比較優位を何に求めればよいのだろうか。
もっともしばしば持ち出されるのは、その地理的条件である。たとえば先に触れた『21世紀・沖縄のグランドデザイン』は、巻頭に沖縄を中心とした世界地図が描いた上で、次にように述べている17。
琉球王国時代・沖縄はアジアでも最も活力に溢れる海洋交易国家の一つであった。「平和」と「友好」の旗印を高く掲げ、遠くマラッカまで出航し、近隣諸国と友好的関係を築き上げた「南海の王国」琉球。首里城正殿に掛着された「万国津梁の鐘」には、以船楫為万國之津梁、すなわち「舟を操って海外諸国と交流し、世界の架け橋となる」との意が刻まれている。
こうした地理的認識に立って同報告書は、沖縄の未来像を、アメリカともアジア諸国とも日本とも等距離にある「国際都市OKINAWA」として描いている。この国際都市OKINAWAは、アジア太平洋の経済的・文化的交流の要と位置づけられ、「加工貿易」による所得形成が期待されている。この報告書を受けるように沖縄県がとりまとめた『規制緩和等産業振興特別措置に関する要望書』(1996年8月)には、「独自関税制度の導入」、「外国人に対するノービザ制の拡充」、「那覇空港のハブ化」、「那覇港のベースポート化」といった要求が盛り込まれている。そこでは、琉球王国時代における対 外交流が「実績」と捉えられ、万国津梁の時代に発揮された積極性の再生が企図されているのである。
先に触れた1999年6月の『沖縄経済振興21世紀プラン』(中間報告)の立場もこれらと基本的に同じである18。
沖縄を中心とした同心円が示すアジア・太平洋地域の中での沖縄の地理的優位性は、沖縄が主体となってその優位性を積極的に利用する場合においてこそ活かされる。沖縄の製造業が今後さらに発展していくためには、県内の需要のみにとらわれない積極的な対外的販路開拓の取組が不可欠である。製造業及び関連産業を「加工交易型産業」として再定義する背景にも、こうした対外的積極性の発揮への期待が込められている。
こうした提案を見るかぎり、その地理的特性を生かした「加工貿易」が、沖縄にとってもっとも有力な所得形成の機会であるとの判断が適切であるかのように見える。だが、実態的にいえば、加工貿易の主役となる第2次産業の県内総生産に占めるシェアは、平成9年度で18.2%と全国平均(34.4%)の約半分であり、しかも、うち約7割(産業全体に対しては12.3%)が建設業による生産額である。こうした現状をみると、加工貿易型の「貿易立国」への可能性はきわめて低いといわざるをえない。
ただし、強化されたFTZなどを活用しながら、沖縄が近隣諸国・地域と連携をとることによって、「加工貿易型」の産業を育成するという手法もありうる。たとえば、台湾の李登輝総統(当時)が、対沖縄10億ドル投資計画を発表し、注目を集めたことがあった。自由化を前提に沖縄を台湾のもっとも重要なパートナーと位置づけ、世界最大の投資機関とささやかれることもある台湾・国民党が対沖縄直接投資を進めるという計画である。折しも香港返還が秒読みに入り、総統公選や台湾独立問題の浮上で、台中関係全般が微妙な時期に入った1996年のことである。同年および1997年と2回にわたって台湾・沖縄双方の代表団が交換され、台湾側からも要望のあったノービザ制や法人税軽減が、国に対する県の要求のなかに含まれた。さらに李総統は「台湾の年間海外旅行者550万人のうちの一割を沖縄へ振り向ける」とも発言、沖縄の観光開発への期待も表明した。台湾のこうした姿勢を捉えて、沖縄を「台湾防衛」や「台湾独立」のために利用するのではないか、という穿った見方もあったが、おおむね沖縄の自立を支援しようという友好的な計画だったと考えてよいだろう19。
ところがその後の展開は、どちらかといえば尻窄みの方向に向かっている。対沖縄投資プロジェクトにその後大きな進展はく、沖縄を視察に訪れた台湾企業家たちは、大方期待を裏切られて帰っていくという。ある県当局者は「法人税軽減は台湾の要求に沿ったかたちで行われたが、ノービザ制が実現しなかったから」と説明してくれたが、それよりももっと根本的な理由があるはずである。台湾の企業家たちがもっとも大きな関心を抱いていたのは、21世紀のリーディング・インダストリーになるはずのIT産業分野の投資対象として、沖縄が適しているか否かだったと思われる。おそらくIT投資の対象としての魅力が沖縄に欠如しているのである。IT分野での集積がない上、台湾に比べて賃金などが相対的に高コストとなるので、やはり投資について二の足を踏まざるをえないのだ。また、李前総統の発言にもかかわらず、ピーク時には15万人にのぼった台湾人観光客も近年減少の一途で、現在は10万人前後の水準まで落ち込んでいる。回復の兆しはあるものの、台湾の人々にとって、沖縄は観光地としても魅力的であるとはいえないのかもしれない。
東南アジア・東アジアに近接するという地理的優位性が逆にマイナスになることもありうる。共生・協力ではなく競争・競合である。香港、シンガポール、マレーシア、台湾、中国沿岸部、フィリピン20などが、競争相手として沖縄と向かい合う可能性も少なくないのである。しかも国内の他の地域のなかにも、「国際化」を謳って沖縄と同じようなプランを策定しているところも多い。
同じ製造業でも、他国・他地域と競合の起こりにくい分野に特化する手法もありうる。たとえば沖縄特産の一次産品を加工している食品加工業や農林漁業とリンクしたエコビジネス関連の産業分野がこれにあたる。こうした分野については、たしかに一定の優位性を備えているが、それらが沖縄の自立に資する産業に育つまで、かなりの時間的な猶予が要請されることもまた明らかである。
以上のように検討してみると、地理的特性を生かした「貿易立国」という構想を実現するにはあまりにもハードルが多すぎるという印象は否めない。もちろん、こうした方向で産業基盤を整備し、集積を進めていくことに全面的に反対するものではないが、在来型の製造業に寄りかかるかたちで地域の経済的自立を進めるという手法は、沖縄の現実には馴染まないというのが筆者の最終的な評価である。
では、製造業(加工貿易)に依存できないとすれば、「差異」すなわち「優位性」を基準としてみた場合の21世紀沖縄におけるリーディング・インダストリーはなにか。結論的にいえば、沖縄の場合、それは「文化」でしかありえない。メディアの発達により、80年代・90年代を通して日本では文化の東京一極集中化が急速に進んだが、それでもなお、沖縄は「差異」として強調しうる独自の文化的諸相を示している。沖縄の文化的独自性こそ、新たなるビジネス・チャンスや新たなる所得形成の機会を創造するものなのである。
3.文化としての沖縄的ライフスタイルとその事業化
(1)文化としてのライフスタイル
一般に沖縄文化とは、古典芸能も含めた固有の芸能であり、伝統工芸品も含めた沖縄固有の芸術等を指すことが多い。しかしながら、古典芸能・芸術および伝統工芸自体を「産業化」することで沖縄の経済的自立を計ることは、貿易立国によって経済的自立を計るよりもさらに困難である。たとえば、1997年度における伝統工芸品の生産額は約37億円であって、これは同年度における県内総生産3兆3650億円のわずか0.1%にすぎない21。
筆者がここで「沖縄文化」と呼ぶのは、こうした狭義の文化、保存すべき伝統文化やそれに準じたものではない。いわゆるや「ウチナータイム」や「テーゲー」といわれる俗語に代表される沖縄的ライフスタイル全般である。かつて筆者は、沖縄のポップカルチャーやライフスタイルを紹介する一種のガイドブックとして『ハイサイ沖縄読本』を執筆した経験があるが、本稿のような性格の論文に馴染まないことは敢えて承知の上で、その一部分を引用しておきたい22。
沖縄人(ウチナーンチュ)独自のライフ・スタイルを理解する上で、もっとも重要なキーワードは、やはりテーゲーとウチナータイムである。ウチナータイム(沖縄時間)とは、本土などとの時間的感覚の違いを表現する言葉である。簡単にいえば、東京の1時間=沖縄の10分あるいは20分というのがウチナータイムの基本公式となろう。テーゲー(大形)には、しばし適当とかホドホドという意味があてられる。
これらふたつの言葉を単純にレイジー(怠惰)と同義に使う人も多いが、亜熱帯・沖縄の長く暑い夏を一度でも経験すれば、ウチナータイムが、沖縄人の暮らしの知恵のひとつであると理解できるし、沖縄の歴史を知ることによって、テーゲーが、英語のtake it easy(気楽にいこうよ)にも相当する、一種の生活哲学を表現する言葉だと理解できるはずである。
沖縄は近代的な意味での生産性・生産力はけっして高くはない。それはまさに地理的・歴史的条件に負うところが大きいだろうが、最終的に貨幣評価を伴う「限界効用」や「交換価値」が重視された重視された社会にあっては、沖縄社会の特性を象徴する「ウチナータイム」や「テーゲー」はネガティブなイメージを表現する言葉として捉えられていた。しかしながら、筆者が「環境創造学」との関連ですでに明らかにしているとおり23、成長型社会から循環型社会に移行しつつある現在、つまり古典派的な使用価値概念の現代的再構成によって人間の生存環境を改善する必要に迫られている現在、経済社会にとってもっとも重要視されなければならないのは、地球環境制約下での「ライフスタイルの質」の問題である。このとき、近代的な生産力に逆行していると思われてきた「ウチナータイム」や「テーゲー」というある種の生活哲学は、社会科学が最終的に目標としなければならない「福祉(welfareあるいはwellbeing)の改善」にあたって、ひとつの示唆を与える言葉として再評価される必要がある。
つまり、「ウチナータイム」は、時間という資源に対する生産指向の規律に反するものとして捉えるのではなく、時間という資源を個人のレベル・生活のレベルまで引き戻す契機として捉えるべきであり、「テーゲー」は、会社主義的・官僚主義的な組織としての規律に反するものとして捉えるのではなく、裁量する能力のある個人の主体的な創造という観点から捉えるべきなのである。もっと端的にいえば、これらのタームは「時間的・精神的にゆとりのあるライフスタイル」を表す言葉として捉えるべきなのだ。
こうした沖縄的ライフスタイルを、産業形成のひとつの評価基準とすることが、沖縄の経済的自立の新たなる契機を与えると思われる。たとえば、北谷町美浜地域が、沖縄本島全体を商圏にしかねない勢いで伸びているのは、疑似アメリカ的なライフスタイルを、北谷という場所で具現化することに成功したからだが、やはり時間や組織に必ずしも縛られることのない沖縄的なライフスタイルを土台にしているからこそ、一般の消費者や観光客を取り込むことが可能となったのである。もちろん、沖縄固有の自然環境を利用しなければ、こうしたプロジェクトは容易に成功しない。沖縄市のショッピング・モールであるコリンザが失敗した原因は、そこがもともと墓所だったという風水的な神秘主義に求めるべきではなく、沖縄固有の自然環境の優位性とそれに裏づけられた独自のライフスタイルをまったく感じさせない設計とマーケティングにこそ求めるべきだったのだ。
繰り返しになるが、沖縄的なライフスタイルを文化と見なして、これを基軸に産業を再構成することこそ、経済的自立のひとつの契機となるはずである。以下では、音楽文化をひとつの例証として、ライフスタイルの産業化の道筋を説明しておきたい。
(2)ケーススタディ:沖縄大衆文化の可能性24
戦後日本と戦後沖縄で共通に認識できる文化的基礎、それは米軍基地からにじみ出してきたアメリカ大衆文化(ポップ・カルチャー)である。程度の差こそあれ、おそらく1960年代まで日本(本土)も沖縄もアメリカ文化に対する距離感には等質のものがあった。アメリカの大衆文化がライフスタイルの細部まで浸透し、ときには「誤解」という名の異質性や柔軟性を伴いながら深く根を下ろした沖縄ほどではないが、日本本土においてもアメリカ文化に対するアンビバレントな思いは大衆文化に広く影響を与えきた。それこそ「カムカムエブリバディ」の英会話ラジオ講座から宇多田ヒカルや和製ヒップホップ・カルチャーに至るまで、アメリカ大衆文化を抜きに戦後日本の大衆文化を検証することは困難である。加藤典洋25などに代表される最近の日本論も実はこうした認識と部分的に同じ土俵で語られている。
筆者は、日本の戦後大衆文化が決定的な影響を受けた外来文化を、
a.天皇制ヒエラルキーのもとで一部に蓄積されてきた「富」と「人材」を媒介として「輸入」されたヨーロッパ文化とアメリカ文化26
b.基地からにじみ出してきたアメリカ文化
の2系統あると考えている。
いうまでもなくaとbはリンクしているが、沖縄ではaの部分が欠落していた。本土のメディアを通じてaも沖縄に入ってはいたが、基本的に沖縄ではbという経路で入っていたと判断していい。ここでbについて空間的に表現すると東京では「六本木」や「赤坂」であり(両方とも米軍施設の下に育まれた新しい歓楽街)、沖縄では「コザ」が対置されることになる。
六本木や赤坂から生まれた代表的な大衆音楽が、ジャズやカントリー、ハワイアンを基盤として60年代後半に花開いたグループサウンズ〜日本のロック(そして現在のJポップ)の系列である。コザから生まれたのは戦後の新作民謡であり、アメリカン・ポップスと沖縄民謡を折衷した照屋林助に代表される民謡ポップス、さらにはアメリカ経由のブリティッシュ・ハードロック(いわゆる沖縄ロック)である。東京の六本木や赤坂は、まさにaとbの交差点であった。米兵がたむろする歓楽街(六本木も赤坂もいわゆる「基地の街」)に旧華族・旧財閥一族、新興成金の子弟、そしてアメリカンポップスやハリウッド映画に憧れる少年少女たちが集い、テレビ局(赤坂は東京放送、六本木はテレビ朝日)が立地したことも大きな要因となって、戦後日本のポップ・カルチャーが醸成されていくことになる。
詳細については触れないが、1960年代までは沖縄と東京(本土)の大衆音楽は、アメリカの大衆音楽に対する距離感という点から見ればほぼパラレルに推移していたといえる。ただ、東京には経済的・政治的・社会的機能が集中していたということ、沖縄ではアメリカン・ライフスタイルがよりリアルであったということから、具体的な展開の諸相は異なって見えるが、事の本質は同じである。
東京と沖縄との「乖離」が問題となってくるのはむしろ1960年代末以降である。戦後経済成長の果実を利用できる東京と、利用できない沖縄とのあいだで格差が生じたとえば簡単だが、事態はもっと複雑である。1960年代末以降、東京の側は、加工貿易型のビジネスに徹していくプロセスで文化的なバックグラウンドを忘却してしまった。アメリカを受け入れる以前の文化的土台をも含めてである。基地が恒久化されつつあった沖縄の側はそれを忘却できるような状況にはなかった。幸か不幸かそれが沖縄の大衆文化に対する評価の条件を準備したことになる。アメリカをどのように受け入れ、どのように拒んできたのかを知ることは、カルチャーの問題を考えるときにきわめて重要である。だが、東京ではその痕跡が消滅してしまい、反対に沖縄にはこうした痕跡がいたるところに現実として残されてきた。
「純粋種の大衆文化」などというものはありえない。大衆文化はつねに異文化どおしがミックスアップしたもの、ウチナーグチでいうところのチャンプルーである。外来文化の影響を取り込みながら変化してはじめて新しい価値が生まれる。問題はどこまで主体的に取り込むかにかかっている。外来文化によって完全に「征服」されてしまっても、ひたすら「守り」の姿勢を堅持しても、新しい大衆文化は生まれない。1960年代〜70年代沖縄はこれを見事にやってのけたという意味で、日本の大衆文化を見直す際にも大きな手掛かりを与えてくれる。戦後沖縄音楽の評価は「大衆文化の普遍的なダイナミズムの評価」と同義であると筆者は考えている。
1970年代後半に、当時の沖縄大衆文化を代表する喜納昌吉、紫、知名定男が本土デビューを果たすが、継続的な成功には至らなかった。というのは、東京には沖縄音楽のダイナミズムを認識できる土壌はあっても、そのダイナミズムを自分の問題として受け止める土壌なかったからである。また、沖縄の側も自覚的な努力を怠ったという一面も否定できない。すべての「普遍」が「特殊」から演繹されるとすれば、沖縄も本土も「特殊」のみに拘泥しすぎたのである。あるいは沖縄大衆音楽の普遍的な意義を認識できなかったのである。
沖縄の大衆音楽が再び評価されたのは、1990年代に入ってからのことである。1980年代はむしろ暗黒の時代だったといえるだろう。90年代に沖縄の大衆音楽が評価された背景には世界的なワールド・ミュージック・ブームがあるが、ワールド・ミュージック・ブーム自体がアメリカや日本の大衆音楽の閉塞状況を表していた。アメリカの大衆音楽も日本の大衆音楽も内部の再生産だけでは生き残れない時代を迎えて、新たなるイノベーションを別天地に求めた。ジャマイカのレゲエ、ブラジルのサンバ、ニューヨークのサルサなどもアメリカン・カルチャーと非アメリカン・カルチャーとの対峙と融合の結果生まれたものだが、80年代後半にはアラビックや東欧ポップなどにまで触手を伸ばし、さらにはアフリカンやエイシアンも取り込まれることになる。
1990年代に本土デビューしたりんけんバンドを始めとする沖縄ポップも基本的にはワールド・ミュージック・ブームと同じ流れの中で再評価される。このとき再評価のコアにあったのは「異文化をもわがものとする大衆文化のダイナミズムとその普遍性」であった。沖縄に自覚的に影響を受けた上々颱風、琉球音階に影響を受けた楽曲を発表したサザンオールスターズ、坂本龍一、THE BOOMなどはむろんのこと、広く捉えればジャパニーズ・ネオ芸能とでもいうべき境地を示した米米CLUBやウルフルズに至るまで、りんけんバンドなどが提示したダイナミズムと深い関連がある。
ただこうした流れも、東京と沖縄との双方向の対等なコミュニケーションが生まれにくいために、さらなる発展を遂げにくくなっている。ひとつは沖縄のミュージシャンが「東京へのまなざし」によって自らの創造性を縛り付けているということに原因がある(日本のミュージシャンがアメリカ市場に進出しようとしても評価されないのも同じ理由である)。これと表裏一体をなすが、「沖縄の音楽は沖縄人にしかわからない」という閉鎖的な姿勢が沖縄の側に散見されるのも問題である。また、沖縄が、その政治的・経済的に弱体な構造も手伝って「地元の音楽は無料」という反市場原理的な体制を無条件に受け入れてきたことも遠因にあると思われる。
もちろん東京の側にも問題はある。たとえば音楽産業そのものの硬直性である。近年の日本の音楽産業は、採算ラインをきわめて高いところに設定し、本来の意味でのコスト削減努力を怠っているため、アルバムの売上げ枚数で3万〜10万枚の作品を切り捨てざるをえない。音楽市場というのは実は単層構造ではなく多層構造である。どんなに売れても3万枚の市場、どんなに売れても10万枚の市場、どんなに売れても100万枚の市場といったようにさまざまにセグメント化したマーケットが集まってひとつの巨大な音楽市場を形成している。日本中の誰しもが口ずさむ音楽だけが「売れる音楽」なのではない。3万枚市場で3万枚売り切ることを「売れた」というはずである。音楽は商品であると同時に文化的公共性を当初から担ったメディアである以上、音楽産業の側もこれを自覚して、3万枚市場には3万枚市場なりの「製造過程」「販売過程」を準備して採算ラインを設定すべきだが、こうした努力は欠落してしまっている。どんなに売れてもせいぜい10万枚という沖縄音楽を100万枚以上売るGLAYの音楽と同一視できない。幸いにしてネット配信の時代に移行しつつある。ネット配信の世界では、製造コストと販売コストを従来より大幅にカットできる。もしこれが一般化すれば、マイナーマーケット向けの作品を効率的に販売する可能性も生まれる。
今後の沖縄大衆音楽の可能性として注目しうるのは、1970年代的なモードをもった大衆音楽と洗練されたエンターテインメントとしての大衆音楽である。21世紀日本から見た日本の原風景は江戸時代でも明治時代でも1930年代でもけない。おそらく1960年代〜1970年代が原風景だ。沖縄には、その風土のせいか1960年代〜70年代の文化的・生活的イメージをよい意味で今も伝える音楽文化が残されている。こうした「21世紀の原風景」を音楽的に表現することは意外なほど困難で、現代日本の大衆音楽では容易に対応できない。ところが、沖縄の音楽文化は自然体でこれに対応できる。「21世紀の原風景」を追体験したい潜在的な需要層は百万単位で存在していると想定できるので、沖縄の大衆音楽はこの点において大いに可能性があると判断できる。また大衆音楽・大衆芸能としての普遍性を表現できるミュージシャンも沖縄には少なくない。安室奈美恵やMAXだけではなく、地に足が着いた芸能の伝統を感じさせながら新しい音楽体験を示しうるアーティストも活躍している。伝統と斬新の折衷である。沖縄にはそれを上手に表現しうる潜在力がある。
ただ、こうした音楽を東京経由で発信していこうとするのは、むしろ時代遅れだといえよう。マーケットとしての東京は確かに最重要だが、インターネット社会では必ずしも東京発か沖縄発かは問われない。リスナーが自分にフィットする音楽かそうでない音楽かをネット上で選択するだけである。ある意味では世界中の大衆音楽が競争相手となりうる。また、音楽のデータベース化が時代を超えた選択をもたらすケースもある。その選択に際して鍵になるのは地に足の着いたオリジナリティである。500万枚、300万枚という顔の見えにくいセールスを誇示する時代も終わり、いよいよこうしたオリジナリティを形成しうる風土や環境の整備こそ問題になってくる。沖縄はその意味で依然として優位性をもっているが、その優位性を生かすも殺すも「沖縄次第」である。
もし音楽文化を「育成したい産業」だと沖縄が判断すれば、競争上の「遅れ」をとりもどすための条件整備が、公的機関によって行われるのも許されることになるだろう。競争力で圧倒的に劣る第一産業や第二次産業への補助金をカットして、音楽芸能などの文化を支援すべきである。それも市場でのセールスに有利な形で行われるべきだ。市場での販売を目的とした沖縄産音楽文化には、一定の条件を付しながら制作費や販売費の一部を補助するなどして積極的に支援する必要がある。競争力を獲得しそうな後発産業が、政府の保護を受けながら育成されるのは資本主義経済の発展プロセスを見ても完全に正当化される。沖縄の芸能・音楽には自由貿易地域よりもはるかに大きな可能性があるのではないか。
ここで具体的に提案したいのは以下の点である。
1.沖縄の音楽文化(芸能文化)を沖縄固有の文化と認め、これを産業化するという決意を官民挙げて表明すること。
2産業化ための機関をNPOもしくは第3セクターというかたちで立ち上げること。
3.音楽文化を支援するための補助金制度を50〜100億円程度を限度に早急に措置すること。
4.本土や世界に開かれた音楽制作の組織・販売組織を、インターネット等も活用しながら確立すること。
5.その際、デジタル・コンテンツ制作支援とのリンケージを保つような組織形態をデザインすること。
6.音楽文化の産業化に資する人材を世界から広く集めるために、法人税減税ではなく所得税減税・住民税減税措置の可能性を検討すること。
7.制作のコアになる場としての「沖縄フューチャーデザインスタジオ」(仮称)を本島中部地区(基地跡地も候補とする)に設置すること。
8.ライヴハウス等表現の場に対する補助制度も措置すること。
9.観光業と音楽芸能文化のリンケージをいっそう深めること。
10.本土やアジア、欧米の音楽関連企業との提携関係を模索すること。
(3)むすび
上記はたんなるケーススタディにすぎないが、結論的にいえば、文化としての沖縄的ライフスタイルこそ、沖縄における経済振興の核となりうる。他産業の振興もむろん視野に入れなければならないが、いずれにしても沖縄的ライフスタイルを産業振興の核と認識した上で、沖縄の産業構造を再構成し、それにあわせた産業政策を県もしくは市町村で独自に策定する必要がある。
音楽文化だけにとどまらず、沖縄的ライフスタイルの産業化という観点から、高品質な環境調和型リゾートの建設、沖縄型医療福祉施設の建設、沖縄デザインを応用したファッション産業の支援、伝統工芸技術・技能のIT活用による現代化の支援などを個別に事業化していけば、また、一連の事業を永続化する場として、環境調和型のアメニティ都市を基地跡地などに建設すれば、沖縄の経済的自立は十分に担保されると考えるものである。
ただし、事業主体は「官」であってはならない。あくまでも「民」主体の事業として進める必要がある。「官」がなすべきことは、こうした事業の成功を長期にわたって保証する「インフラ」としてのワーキング・スタイルや学校教育の「沖縄化」の推進と、関連法規の整備、補助金の給付などが要請されることになろう。
既存の経済振興策では、おそらく沖縄の経済的自立は望めない。たしかに課題も多いが、筆者はこれまでにない視点を取り入れての産業の再構成こそ、沖縄の経済的自立のための土台となりうると確信している。
1.地方分権推進委員会第1次勧告は1996年12月20日に、第2次勧告は97年7月8日に、第3次勧告は97年9月2日に、第4次勧告は97年10月9日に、第5次勧告は98年11月19日に、それぞれ内閣総理大臣宛て提出されている。詳しくは同意委員会の公式サイトhttp://www.sorifu.go.jp/intro/bunken.htmlを参照のこと。なお、同委員会の作業プロセスで、諸井虔委員長は、非公式なかたちだが、大田知事の構想策定(『21世紀・沖縄のグランドデザイン』など)にコミットしていたと思われる。また、同委員会の勧告に見る機関委任事務等の改革も、代理署名をめぐる沖縄県の対応に影響を受けたものと考えるのが自然である。
2.沖縄問題が経済化する経緯については、拙稿「<沖縄問題>が提起するもの」(『大東フォーラム』第11号・平成10年3月・大東文化大学)においてすでに詳述している。ただし、平成11年以降の展開については筆者が触れるのは、本稿が初めてである。
3.あくまで概算であり試算であるにすぎない。県民総支出のうち、地方政府消費に公的資本形成を加算し、その合計値に(1−財政力指数)を乗じて得られた数値に県民総支出のうちの軍関係受取の百分率を加算し、これを「中央政府による一般補助率」と見なして利用している。財政力指数は、当該年度を含む3カ年間の基準財政需要額/基準財政収入額を加算して単純平均を求めたものなので、厳密には国民(県民)経済計算と比較対照する場合には注意を要する。また、軍関係受取も、細目を検討した上で加算しなければ正確さを欠くことは確かだが、ここでは概数を便宜的に得ることのみが目的なので、あえて単純な計算方法を選択している。平成9年度の県民経済計算をもとに中央政府による一般補助率を算定すると、政府最終消費支出(18.2%)と政府固定資本形成(13.5%)の合計に平成9年度の財政力指数を0.256として(1-0.256)を乗じ、さらに軍関係受取(5.2%)を加算すると28.8%という数値が得られる。
4.注4で示した計算方法によれば、「中央政府による一般補助率」の全国平均は、政府最終消費支出9.7%、政府固定資本形成7.6%、財政力指数0.481として、軍関係受取を無視すれば9.0%という計数が得られる。これを沖縄について算出された計数28.8%と比較すると、沖縄は全国平均を約20ポイント上回っていることになる。ここでは、その20ポイントを基地と引き替えに与えられている補助金の対県民所得比と見なしている。
5.1997年8月25日の筆者によるインタビューより。このインタビューは、「沖縄はアジアの中心になるのか」と題する『週刊アスキー』(1997年10月6日号)の特集記事(岩戸佐智夫と共著)のために行われた。
6.1997年8月26日の筆者によるインタビューより。前掲の牧野氏へのインタビュー同様、このインタビューも『週刊アスキー』の特集記事(注6参照)のために行われた。
7.「沖縄タイムス」1997年7月23日朝刊
8.松原徹「沖縄特別自由貿易地域の課題と展望」さくら総研調査報告・2000年vol.1
9.租税政策の効果に関する筆者の立場は、Schmoeldersの研究に負っている。この点については、Schmoelders, G., Finanzpolitik, dritte, neu berarbeitete Aufl., Berlin-Heidelberg-New York, 1979(山口忠夫・中村英雄・里中恆志・平井源治訳『財政政策(第3版)』中央大学出版部・1981年)および拙稿「日米欧にみる産業政策としての財政政策」(『国府台経済研究』第5巻・千葉商科大学経済研究所・1993年6月)を参照。
10. 環境制約と経済政策の関係については、山本孝則・篠原章「環境創造学事始め−転換する世紀と社会科学像の原理的転回」(『経済論集』第75号・大東文化大学経済学会・1999年11月)を参照。
11. 牧野浩隆『再考沖縄経済』沖縄タイムス社・1996年11月
12. 沖縄政策協議会は、「沖縄問題についての内閣総理大臣談話」(平成8年9月10日 閣議決定)に基づき、沖縄に関連する基本施策に関し協議することを目的として設立された(1996年9月17日閣議決定)。総理大臣を始めとする諸大臣の他、沖縄県知事がメンバーとなっている。
13.詳しくはhttp://www.kantei.go.jp/jp/topics/990706okinawareport.htmlを参照。
14.この点については、拙稿「Jポップ経済学 沖縄サミットの“Jポップ”収支予想〜“沖縄重視”とは名ばかりのカネの使い方」(『音楽誌が書かないJポップ批評7』宝島社・2000年7月)を参照。
15.前掲『21世紀・沖縄のグランドデザイン』
16.http://www.pref.okinawa.jp/98/mmi/right.htmを参照。
17.『21世紀・沖縄のグランドデザイン(調査報告書概要版)』(沖縄県・1996年4月)、1頁。
18.http://www.kantei.go.jp/jp/topics/990706okinawareport.htmlを参照。
19. 台湾の対沖縄10億ドル投資計画については、拙稿「沖縄はアジアの中心になるのか」『週刊アスキー』1997年10月6日号(前掲)を参照。
20.アジアからの関心という意味では、フィリピンにも沖縄との連携を予定した「海洋都市経済圏」構想があると伝えられている(林志行「アジア総括と展望(97-98)後編 ―拡大ASEAN、その他アジアの動向―」『Japan Research Review』日本総合研究所・1997年2月号)。詳細は不明だが、この林論文では、「 21世紀のアジア本格競争の時代において、大中華経済圏と拡大ASEANが個々に程良くまとまると、日本は蚊帳の外に置かれてしまう。これを回避する観点から、沖縄をアジア市場と見なし、アジアへのゲートウェイとしての沖縄のインフラ整備を進めることが重要である」「沖縄とならび、国内のいくつかの拠点都市を集中的に整備し、総花的なアジア進出への対応を改善すべきである。アジアの時代は一方向でのアジア進出の時代である必然性はなく、先進アジア諸国(特に韓国、台湾)からの研究開発デザイン拠点としての企業誘致を進めるとともに、観光立県をビジョンとするマーケティング戦略(顧客データベースの交換など)を優先すべきである」といった主張がなされている。 きわめて興味深い内容だが、残念ながら具体性は乏しい。
21. 沖縄開発庁沖縄総合事務局『沖縄県経済の概況』2000年6月
22. 拙著『ハイサイ沖縄読本』宝島社・1993年3月(改訂文庫版『熱烈!沖縄ガイド』宝島社・2000年6月)
23. 山本孝則・篠原章「環境創造学事始め−転換する世紀と社会科学像の原理的転回」(前掲論文)
24. 以下は、日本ポピュラー音楽学会沖縄大会(沖縄県立芸術大学・1999年12月4日)における篠原のシンポジウム報告原稿「ウチナーポップとヤマトゥポップ」を下敷きにしている。同原稿は近く印刷物として公表される予定である
25. たとえば、加藤典洋『日本の無思想』平凡社新書・1999年5月20日
26. こうした「富」や「人材」には猪瀬直樹がその著『ミカドの肖像』(小学館・1986年12月)で奇しくも指摘したような天皇制ヒエラルキーを利用して成り上がってきた新興企業家たちの生みだしたものも含まれる。