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高田 眞治(1893〜1975)書「本学創立四十周年記念の賀詩」

この書については、原田種成先生(当時中国文学科講師)が、1990年5月15日発行の大学新聞『大東文化』第416号にお書きになった文章があるので、下記に転載させていただいた。掲載時にすでに原詩の旧漢字は、新漢字に訂正されている。この大きな額は、二号館二階の常務理事室(現在副学長室として使用)の壁面にかけられている。サイズは次の通り。
作品:縦60cm×横260cm  額:縦85cm×横300cm

本学五十周年記念館四階の大会議室に大きな額が掲げてある。これは創立四十周年の昭和三十八年十月に高田真治博士が作った賀詩である。高田博士は元東京帝国大学教授で中国哲学が専門であるが、陶軒と号して漢詩にも長じた。本学には昭和三十一年四月に中国文学科教授に就任し、四十一年三月に退任した。
この賀詩は五言(ごごん)古詩で四十韻、漢詩は偶数句に押韻するから八十句四〇〇字の長編である。途中、韻を三回変えており、それを換韻といい、同一の韻を用いている部分を解といい、段落に相当する。その個所に“」”印を付した。古詩であるから典故のある難しい語句が用いられている。文字も高田博士の自筆である。
詩は大東文化の創立の由来から説き起こし、学院が幾多の人材を世に送り出したことを述べ、戦時中の学徒の苦難と校舎の戦災を述べ、西台に移って校舎を新築し、学科を増設してますます発展することで結ぶ。
ただ途中に高田博士の思い違いの個所がある。それは九段校舎の時代は漢学だけの単一学科であったが、東亜政経科などを設けて三部制となったので池袋に移った。戦災で校舎が焼失したために、一時青砥の仮校舎に移り、池袋に仮校舎を造り、それから西台(今の高島平)に移ったのであるが、詩では九段から青砥に転じ、それから池袋に移ったと詠じているので明らかにしておく。