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8000キロを超え、楕円球がつないだ人生 元ラグビー日本代表 ラトゥ・ウィリアム 志南利インタビュー

2020.06.19 / 2,251PV

文=菅野浩二 写真=谷本結利(1枚目)

 

11歳から始めたラグビーの腕を見込まれ、19歳のときにトンガ王国から大東文化大学に留学したラトゥ・ウィリアム志南利さん。実のところ、日本についてほとんど知らず、親からは反対されていた。けれども「行ってみたい」という好奇心が上回り、「嫌になったら帰ればいい」という軽い気持ちで飛行機に乗った。

 

2019年のラグビーワールドカップ(W杯)で注目が集まった外国出身の日本代表選手。その草分けの一人として知られる元日本代表のラトゥさんは、1986年度、88年度のラグビー全国大学選手権優勝に貢献した主力として大東大の歴史に名を残している。87年から3大会連続でラグビーW杯に出場。

 

50歳を過ぎた今は、大型空調の営業パーソンとして全国をめぐる。同時に海外の高校生選手を発掘する大東大ラグビー部のスカウトを務める。

 

「大東文化大学by AERA」でおこなわれた取材で、大学時代、言葉が通じないうえ、ラグビーに向き合う姿勢も異なり、わずかな戸惑いを感じていたことを語ったラトゥさん。それをどう乗り越え、異国の環境に溶け込んでいくことができたのか――。

日本のことは何も知らなくて

1985年、トンガ伝統の巻きスカート姿で成田空港に降り立つと、全身がぶるぶると震えた。

 

「2月2日だったね。日本のことは何も知らなくて、冬ってこともわからずに巻きスカートで来たから、めっちゃ寒くて。だからあの日のことは忘れられないです」

 

俊足のラガーマン、ワテソニ・ナモアと来日した。同胞2人の勉強不足を見越し、冬服を抱えて空港で出迎えてくれたのが、先輩のホポイ・タイオネとノフォムリ・タウモエフォラウだ。2人は80年にトンガ国王が大東文化大学に送った留学1期生で、ラグビー部で活躍したのち、日本に残って就職した。日本代表としてもプレーしており、トンガでは英雄的存在として知られる。

 

トンガと大東大を結びつけたのは偶然の出会いだった。75年、商業簿記が専門で、大東大ラグビー部長だった故・中野敏雄名誉教授がニュージーランド遠征の際に、トンガの教育次官とたまたま飛行機内で隣り合わせた。聞けば「親日家の国王がそろばん大会を開く」という。そろばん話に花が咲き、その日にトンガ国王に謁見する運びになった。

 

その後、国王から「そろばん留学生」の受け入れを依頼された中野名誉教授は、自身がラグビー部で支援できるように「ラグビーのうまい子が欲しい」と伝えた。そして80年に1期生として来日したのがホポイとノフォムリだった。以降、大東大ラグビー部で活躍したトンガ出身の選手は29人を数える。

日本語は全く勉強してこなかった

日本から8000キロほど離れた南太平洋のトンガは、約170の島群で構成される国だ。琵琶湖ほどの総面積の国土におよそ10万人が暮らす。ラグビーが国技で、11歳から楕円球に親しみ、高校生でトンガ代表に選出されたシナリ・ラトゥもまた、先輩2人に続き大東大を進路に選んだ。ただ、そもそもの意気込みはさほど強くなかったという。

 

「嫌になったらトンガに帰ればいい、という軽い気持ちだったね。だから『はい』も『いいえ』も、日本語は全く勉強してこなかったんですよ」

 

当然、当初は言葉の壁にぶつかった。最初の1年は、留学生別科で日本語を必死に学んだ。言葉が通じなかった歯がゆい経験は、今ではもう笑い話になっている。

 

「初めの2カ月くらいで同じ部屋のナモアに『俺もう帰るわ』と何度か言いました。ナモアに『一緒に頑張ろうよ』と引き止められて、その直後にはナモアが『もう帰る』と逆の立場になって僕が止めてね。ナモアと会うといつもその話をしますよ」

 

つらい時間がなつかしい思い出になっているのは、自分たちの意志で壁をぶち壊してみせたからだ。同じ部屋に2人でいると英語に逃げてしまう。弱音を吐いてしまう。寮ではそれぞれ日本人と同じ部屋で過ごすことに決め、日本語で会話するしかない状況に身を置いた。

 

来日直後の練習で感じた不満も語学習得の意欲に火をつけた。思いっきりタックルを決めると、先輩たちに「試合じゃないんだぞ!」と怒鳴られた。でも、その考えが理解できなかった。

 

「勝つためには毎日試合と同じ感覚でやらないとダメ。それを部員に伝えるには日本語ができなきゃいけないし、必死でした。だから猛勉強して、半年くらいでしゃべれるようになりましたよ」

 

ラトゥの情熱に触れた鏡保幸監督は、試合同様の激しい接触プレーを練習に組み込んでくれた。

先輩から「ありがとう」と言われたことは忘れられない

部員とコミュニケーションがとれるようになると、持ち前の明るさで理不尽とも思える上下関係の改善にも取り組んだ。86年度、ラトゥとナモアによる「トンガ旋風」に乗って勢いを増したチームは「のびのびラグビー」とも称されたプレーで伝統校を次々と打ち破り、初めて全国大学ラグビーフットボール選手権大会を制した。

「決勝の国立競技場にはトンガの人口の半分もの観客がいて、気合が入りました。優勝して、練習内容や上下関係でけんかした先輩から『ありがとう』と言われたことは忘れられないです」

在学中に日本代表入りを果たす。攻守の要として87年から3大会連続でW杯に出場した。ラグビーは居住年数などの要件を満たせば、外国人選手も代表資格を得られる。

トンガ代表の誘いもあったが、空港で迎えてくれた2人の先輩のように日本で働き、日本でラグビーを続けたかった。だから、勉学にも力を注いだ。茶目っ気を含んだ笑みで振り返る。

「目立つから授業はサボれないでしょ? もちろんレポートも日本語で書きました。寮のラグビー部員にもずいぶん助けてもらいましたね」

大学卒業後はホポイとノフォムリがいる三洋電機(現パナソニック)に入社し、同社ラグビー部ではキャプテンも務めた。2002年から08年までは大東大ラグビー部を監督として率いている。

現在はパナソニック産機システムズに所属し、大型空調の営業として全国を飛び回る。営業先はラグビー部がある学校が中心だ。同時に、海外の高校生選手を発掘する大東大ラグビー部のスカウトとしての顔ももつ。

「ラグビーは15人がまとまらないといけない。だから人間性も見ます。留学が決まった子には、自分の経験から『日本語を一生懸命勉強しなさい』と助言しています」

11年には「子どもを日本で育てたい」と日本国籍を取得。社会現象にもなった19年のラグビーW杯ではアンバサダーの大役も務めた。濃厚な人生を支えているのは、大東大でのハングリーな時間だ。

「トンガの先輩2人や、鏡監督がいなければ今の僕はないです。最初は嫌になったら帰ればいい、と思っていたけど、結局そんなことはなかった。日本が大好き。大東大で懸命に過ごしたからこそ、今の人生があると思っています」

 

■プロフィール

ラトゥ・ウィリアム 志南利

ラトゥ・ウィリアムしなり/1965年、トンガ生まれ。90年、大東文化大学経済学部経営学科卒業。86 年度、88年度のラグビー全国大学選手権優勝に貢献。現在は、パナソニック産機システムズ空調営業本部勤務。

 

 

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