大東文化大学百年史編纂

コラム

Column

Column 06

大東文化協会「文教改革意見書」(1931年8月)について

筆者:百年史編纂委員 浅沼薫奈

 1931(昭和6)年8月に大東文化協会によって作成された、「文教改革意見書」があります。「文教」とは、「学問や教育」「教育によって人心を導くこと」「文化・教育に関する行政」などのことで、つまり広義の意味での教育政策全般を指す言葉と言えます。大東文化協会による「文教改革意見書」もまた、広く日本社会全体の教育の見直しを求めて文部大臣へと提出されたものでした。
 大東文化協会「文教改革意見書」は、11頁ほどの薄い冊子です。中には「添状」が挟まれており、「近時悪思想防止策の攻究に伴ひ財政整理を基調としたる教育改革の説が一部に唱導せらるゝや各方面の識者及団体は此機会を逸せず(中略)本会に於ても別冊意見書を田中文相に提出仕候(後略)」と書かれていました。時の文部大臣は田中隆三でした。
 意見書の最初には「文教改革」が必要な「理由」を5点、次に「主要」として5点が挙げられています。最後に「現行教育制度其ノ他ニ関」する「改革卑見」が、やや長い文章で6点にわたり述べられています。
 この意見書を提出する「理由」としてあげられたのは、「帝国ノ教育」の現状について、1)「却って危険思想ヲ養成」していること、2)「欧米ノ模倣」であり「帝国独自ノ見識」を欠くこと、3)「非実際的ナル学校裡ニ費」していること、4)「施設ハ往々華美虚飾」であること、5)「教育万能ノ弊」「就職難」によって家庭は蕩尽する一方、青年の破壊思想を招いていることを問題点として挙げています。
 次に改革の「主要」としては、1)「道義徳操ノ涵養」、2)「師範教育ノ改造」、3)「修業年限短縮」、4)「官学ヲ整理シ、私学ノ発達ヲ助成」することで「社会協同ノ精神ヲ涵養スル」こと、5)「女子ノ教育ヲ進メ、婦道ヲ振作スル」ことを求めました。
 これらの「精神ニ立脚」したうえで、最後に次の6点からなる「改革卑見」が述べられました。
  第一、 教育行政
  第二、 教育制度
  第三、 教員ノ任用及ビ待遇
  第四、 学校建築及ビ設備
  第五、 社会教育ノ振張
  第六、 国家社会ノ協同
 「教育行政」は、文部大臣などの人材任用についての意見でした。「教育制度」は、国民教育のほか、大学、実業教育、師範教育および師範大学、家塾教育の在り方や修業年限の短縮への提案がなされ、「教員ノ任用及ビ待遇」は上記の教育機関の「教師」資格についての見直しを提言、「学校建築及ビ設備」では質素であること、校舎そのほかの建物は画一的であることを求めないこと、「社会教育ノ振張」では図書館や博物館など公共の教育施設を現行より簡易にし、学校教育の補助となるような研究会や講習会などを盛んにすることを提案しています。最後の「国家社会ノ協同」については「説明省略」とあります。
 1923(大正12)年2月に発足した大東文化協会は、同年9月より財団法人となりました。財団法人大東文化協会の定めた「寄付行為」の第二條によれば、その目的を大きく5つ掲げていました。
  第二條 本会ハ東亜固有ノ文化ヲ振興スルヲ以テ目的トス其ノ要項左ノ如シ
  一、 我 皇道ニ遵ヒ及国体に醇化セル儒教ニ拠リ国民道義ノ扶植ヲ図ルコト
  二、 本邦現時ノ情勢ニ鑑ミ儒教ノ振興ヲ図リ及東洋文化ヲ中心トスル大東文化学院ヲ設立維持スルコト
  三、 文書、講演其ノ他ノ方法ヲ以テ前示目的ノ達成ニ務メ且海外ニ亙リ斯学ノ振展ヲ図ルコト
  四、 高等及普通教育ニ於ケル漢学ニ関スル強化ノ編制並教科書及教授法ノ改善ヲ図ルコト
  五、 東亜ノ美術音楽等ノ維持発達ヲ図ル事業ヲ行フコト
 ここに示された協会の「目的」を遂行すべく「文教改革意見書」は作成され、文部大臣へと提出されたのでした。この提言がまとめられた1931(昭和6)年の日本社会や教育は、多くの課題を抱えていました。当時の日本は深刻な不況にあえいでいました。1923年に発生した関東大震災により関東地方の企業は大打撃を受けており、多くが不良債権を抱えた状態であったなか、復興を進める最中に追い打ちをかけるように起きた1930年の昭和恐慌により大量の失業者が生まれていました。一方、大正期に花開いた大衆文化は庶民の娯楽への関心を広げ、雑誌や映画が一気に普及しました。治安維持法が誕生し、普通選挙法が施行されたのも同時代の1925年のことでした。社会が大きな変革期にあるなか、あらためて教育がどのようにあるべきなのかが問われた時代でした。
 大東文化協会は多方面にわたる多様な活動を行うなか、日本社会における「教育」をより良いものへすることを目指していたのでした。

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