*まんなか学部:本学の新タグライン。「真ん中に文化がある。」を体現するプロジェクト。
プロフィール
青山杉雨先生のもと著名な講師陣と学生が池袋に集う
──書道学科の開設が2000年(平成12年)ですから、ちょうど20年目、北村さんが生まれたのもその頃では?
北村優介さん(以下、北村):はい、今二十歳ですから同い年ですね。
──そして藤森先生は書道学科の1期生。その恩師であり長年にわたり大東文化大学の書道の発展に尽力されてきた田中節山先生をメインに、過去を振り返りつつ、未来を展望していければと思います。そもそも大東文化大学が書道に特化していったきっかけは何だったのでしょう。
田中節山名誉教授(以下、田中):校舎が青砥から池袋に移転し、青山杉雨先生が赴任されたのがはじまりです。
──田中先生が大東生になられたのはいつですか?
田中:昭和33年です。当時は日文(文学部日本文学科)と中文(文学部中国文学科)を含めて文政学部のみ。書道の講座は中文、日文で教員免許を取るために設けられていました。小さな校舎ゆえに自ずとまとまりができ、教室での授業に加え書道部での活動等、非常に楽しくやっていたのを覚えています。
──青山杉雨先生が求心力となり、著名な先生方や書を本格的に学びたい学生が集まってきたのですね。
田中:上條信山先生、松井如流先生、山崎節堂先生、宇野雪村先生、仮名の熊谷恒子先生など書道界でもトップクラスの方々、それから書道史や書学に詳しい真田但馬先生、今思えば最強の講師陣です。一方、先輩方も、西林昭一、足立豊、永井暁舟先生など素晴らしい方々がおられました。
──当時の書道部はどんな様子でしたか?
田中:私の時代は部員30人くらい。2年生の時には初の合宿を行い、また青山杉雨先生のご発令で全国書道展(2019年で61回、2020年は新型コロナウィルス感染症拡大防止の観点から中止)の運営に携わるなど、今につながる活動のきっかけはその頃はじまったといえます。
──教育の充実度は今も変わりませんが、文献や図書館など、当時の書道の環境はいかがでしたか?
田中:小さな学校でしたから施設は今とは比べものになりませんし、書道の資料も教員の私物です。篆刻の松丸東魚先生が、特別に書道部の講師として来てくださいました。そして中国の古い資料を数多く持ってこられて、教室で展示会を開いてくれました。学生には何よりありがたかったですね。のちに先生宅が火事に遭ってしまうのですが、書道部員が応援に駆けつけて水浸しの資料を屋上で干したり、色々なことがありましたが先生方のおかげで良い勉強ができたと感じています。
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※この取材は、新型コロナウイルス感染予防対策を施した上で行っております。