大東文化大学百年史編纂

コラム

Column

Column 03

学院創設時の蔵書印「大東文化学院所蔵記」について

筆者:書道学科教授 澤田 雅弘

 昨夏、河野隆教授から示された印箋2枚のうちの1枚に、「大東文化学院所蔵記」が捺されていました。版心に石雲山房印譜と刷った印箋(完整ではありません)には、釈文とともに、「癸亥嘉平月 疇邨作」と墨書し、「達・彦」の連珠印を捺しています(図1)。この1枚の印箋から、この蔵書印が大正12年12月、大東文化学院の創設に合わせ、当時の印壇の雄、足達疇邨(名は彦作1869~1946)が作ったものであることが判明しました。風合からみて、疇邨が強い関心を寄せた鋳造印であることがわかりますが、印身は亡逸して存否は不明です。
 いま1枚は版心に石雲山房蔵と刷った完整の印箋で、印文は「東洋文化学会会長印」です。こちらも同年4月の鋳造印で「疇邨居士」と署し同じ連珠印を捺しています。この2枚の印箋がどうして一緒になったのか精査していませんが、東洋文化学会と本学院が、漢学振興運動によって相前後して設立した事情が関係しているのでしょうか。この両印は、後年に編まれた『疇邨印譜』(1981)にも、またその故郷山梨で近年2回開催された疇邨展図録にも見えません。なお、『疇邨印譜』には銅印とだけ注記された朱文「大東文化学院」印が収録されています。
 戦災によって、学院創設時の書籍はいま多くは残っていませんが、「大東文化学院所蔵記」を捺した書籍のひとつ武英殿版十三経注疏(同治10年1871重刊)には、「大東文化協会蔵書印」とともに捺されています(図2)。大東文化協会が大東文化学院の開設母体であることやこの鈐印位置からみて、「大東文化学院所蔵記」が「大東文化協会蔵書印」より後に捺されたことは自明です。ただどのような事情か、「大東文化学院所蔵記」が捺されたのは、学院創設から10年を経てからです。 というのは、印泥の汚れ移りを防ぐために印影を覆ってあった新聞紙の断片には、印泥が強く滲み、鈐印直後のものであることが察せられますが、その断片に見える記事が昭和8年10月1日の出来事であるからです。 

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