1923(大正12)年2月に設置された大東文化協会は、同年9月に財団法人大東文化協会となり、同時に同協会を設立母体とした大東文化学院の開設が認可された。大東文化協会初代会頭は鉄道大臣等を歴任した大木遠吉、大東文化学院初代総長は後に第35代内閣総理大臣となる平沼騏一郎が就任した。関東大震災の影響で実質的な開校は当初の予定よりも3ヶ月ほど遅れたが、翌年1月から「漢学」を中心とした高度な授業が開始展開されたのであった。
-
- 1923年
- 大正12
財団法人大東文化協会・大東文化学院 設置認可
-
大木 遠吉 [1871(明治4)年8月~1926(大正15)年2月]
-
大東文化協会 初代会頭をつとめた。
明治後期から大正期にかけての政治家であり、貴族院議員、司法大臣、鉄道大臣などを歴任した。
初代文部卿・大木喬任の嗣子。生まれつき病弱だったことから学校教育を受けることなく、自宅で父喬任の膨大な蔵書に囲まれながら、父や家庭教師から教育を受けた。
遠吉は、1899(明治32)年9月に父喬任が亡くなると、同年11月伯爵を襲爵した。このとき28歳であった。
1908(明治41)年に貴族院議員となり政界に入ると、伯爵同志会を組織して官僚系議員団と対抗し、1919(大正8)年には伯爵団と研究会(貴族院における院内会派のひとつ)との合同を実現させた。
1920(大正9)年より原内閣及び高橋内閣における司法大臣をつとめ、1922(大正11)年には加藤友三郎内閣の鉄道大臣として入閣した。内閣総辞職による退官後は研究会の幹部として、政友会と政友本党との合同問題に尽力する。
大東文化協会会頭のほかに、帝国公道会会長、大日本国粋会総裁、帝国農会会長など民間諸団体の役員も多くつとめ、国粋主義者としても知られた。
1926(大正15)年2月14日、九州別府からの帰途、京都の客舎にて心臓麻痺のため死去。享年56歳。
-
小川 平吉 [1855(安政2)年~1942(昭和17)年]
-
大東文化協会の初代副会頭、第4代会頭。
明治から昭和前期にかけて活躍した政党政治家であり、立憲政友会幹部をつとめた。内閣では司法大臣や鉄道大臣を歴任。号は射山。
長野県諏訪郡富士見村御射山神戸(みさやまごうど)に、呉服商人の父小川金蔵、母あい子の八人兄弟の三男として生まれた。もともとこの地方における名家であり、かなりの資産家であった。
1892(明治25)年に帝国大学法科大学仏法科を卒業後、代言人(翌年より弁護士法が施行され「弁護士」)となった。1897(明治30)年に日本弁護士協会を組織。積極的に司法の革新を目指し、1918(大正7)年には東京弁護士会会長に就任した。
1900(明治33)年、立憲政友会の成立とともに入党し、1903(明治36)年に衆議院議員に初当選を果たしたものの、政友会革新運動を起し脱党することとなる。1910(明治43)年、伊藤博文の死去後に復党。1915(大正4)年、政友会幹事長となった。
1920(大正9)年、原敬内閣のもとで国勢院総裁となるも、1922年6月の高橋内閣の総辞職にともない国勢院総裁を辞任。1925(大正14)年の第1次加藤高明内閣(護憲三派内閣)で司法大臣、1927(昭和2)年の田中義一内閣で鉄道大臣をつとめた。
同時に、この時期には大東文化協会及び大東文化学院の創設にかかわり、大東文化協会副会頭、会頭を歴任した。
1929(昭和4)年、鉄道大臣在任中の5つの私鉄の買収にからむ収賄容疑(「五私鉄疑獄事件」)に連座して収監され、一時は無罪判決を受けるも1936(昭和11)年になって有罪判決を受け、政治生命が絶たれた。これにともない大東文化協会会頭も辞任した。
平吉は国粋主義者として知られた人物であった。明治30年前後から大陸問題や東亜問題に関心を示すようになり、また国内における「思想問題」の解決にも関心を抱き、政界引退後も内外の政策についてさらに活発な活動を続けた。特に満州問題や対ソ強硬論を主張し、大陸積極政策を唱えた。しかし、日中戦争開始に際しては蒋介石との直接和平交渉の必要を主張し、軍部にも働きかけるなど和平工作に奔走した。それらは結局成功することはなかったが、国粋主義者としての立場から統制経済・三国同盟・日米開戦にも強い反対姿勢を貫いた。
1942(昭和17)年2月5日、逝去。
私生活では10人の子どもに恵まれた。一族には政財界の著名人が多く、元首相の宮澤喜一氏も平吉の孫の一人(次女ことの子)である。
-
平沼 騏一郎 [1867(慶應3)年9月28日~1952(昭和27)年8月22日]
-
大東文化学院初代総長、大東文化協会第3代会頭。
明治から昭和前期にかけて活躍した司法官、政治家。第35代内閣総理大臣。号は機外。
美作国津山(現在の岡山県津山市)に津山藩士平沼晋の次男として生まれた。早稲田大学学長をつとめた経済史学者で法学博士の平沼淑郎は実兄。
1872(明治5)年、家族とともに東京へ上京した騏一郎は、津山藩出身の宇田川興斎や箕作秋(しゅう)坪(へい)(三叉学舎を設立)について漢学、英学、算術を学んだ。その後、1878(明治11)年東京大学予備門に入学、1883(明治16)年東京大学法学部へ入学し、1888(明治21)年帝国大学法科大学を首席で卒業した。
同年、司法省参事官試補となり民事局に勤務。以後、各地の裁判所で判事試補を、東京控訴院において検事をつとめ、その功績により法学博士の称号を与えられた。1912(大正元)年、検事総長に補せられ、以後約10年にわたりシーメンス事件や大浦内相事件、八幡製鉄所事件などを取り扱った。
1923(大正12)年、第2次山本内閣の司法大臣に就任。翌年1月に貴族院議員に勅撰されたが、翌月枢密顧問官に任じられ、1936(昭和11)年には枢密院議長に就任した。また1925(大正15)年に男爵を授けられた。
1939(昭和14)年1月、近衛文麿内閣を引き継ぐ形で内閣を組織。しかし世界情勢の悪化にともなう国際環境の緊張や国内対立勢力の調停等に苦慮し、わずか8ヶ月で総辞職となった。1940(昭和15)年12月に第2次近衛内閣の内務大臣に就任、引き続き第3次近衛内閣では国務大臣として留任した。
一方、1915(大正4)年に無窮会を創立、1926(大正13)年に右翼系政治団体である国本社を改組して社長(会長)に就任、修養団団長を引き受けるなど、東洋道徳学術の振興、国民精神作興を目指し、日本国粋主義を掲げた。そのほか、東洋文化学会第2代会長、東洋文化研究所を創設し初代所長に就任した。
なお、大東文化学院初代総長をつとめた同時期の1923(大正12)年~1932(昭和7)年には日本大学総長にも就任している。
総じて法曹界を中心として広く官僚、枢密院の中にあって影響力のある存在と目された。敗戦後には東京裁判においてA級戦犯で訴追され、終身禁錮の判決を受けた。1952(昭和27)年に病気により仮釈放になり、同年8月22日死去。
騏一郎は、1924(大正13)年1月の大東文化学院開設とともに初代総長に就任し、1925(大正14)年1月までその職にあった。また、学院開設以前の学院綱領並学則編制委員会の委員となり学院方針の決定に携わるとともに、学科課程制定委員会会長として学科編成の任も負った。
1924(大正13)年1月11日に行われた第一回始業式において、「二千年来皇道を輔翼し我国体に醇化せる儒学を振興し普及するを以て眼目とし、学則に於ては特に皇学の一科を設けて其の標的を明にせり」と学院創設の目的を述べた。これを「究極の目的」と位置づけた騏一郎は、それらを担当する教授陣を「孰れも各学派の泰斗にして当代の碩学大儒なれば、諸子は研鑽の功を積み他日其の蘊奥を究むるの階梯を成すに於て万遺憾なかるべし」として、錚々たる教授陣による最高の漢学教育機関であることを示唆した。
大東文化学院草創期の教授陣には、多くの著名な学者が名を連ねた。第2代総長となる井上哲次郎が哲学を担当したことをはじめ、法学の鵜澤總明、山岡萬之助、漢学の松平康國、牧野謙次郎、内田周平のほか、哲学者北昤吉も論理・心理学を講じている。また、騏一郎の実兄淑郎も開設時から大東文化学院の経済学教授として教鞭をとった。こうした官学私学の出身を問わず、その道での第一人者であった学者たちが挙って教授陣として名を連ねることが実現したのは、騏一郎の広い人脈に寄るところも大きかったと考えられる。
わずか1年の総長在任期間ではあったが、「平沼先生の教育方針」を尊重する声はその後も長く聞かれ、大東文化学院の教育の基盤となった。
-
井上 哲次郎 [1855(安政2)年~1944(昭和19)年]
-
明治・大正期に活躍した哲学者。号は巽軒。筑前国(福岡県)大宰府出身。東京帝国大学哲学科卒業。1882(明治15)年に外山正一・矢田部良吉らと「新体詩抄」を刊行し、世間に名を知らしめた。1884年よりドイツに留学し、ドイツ観念論哲学を追及。1890年の帰国と同時に、日本人としてはじめて東京帝国大学哲学科教授に就任した。1923(大正12)年退官。
教育勅語発布の翌年、教育勅語の注釈書『勅語衍義』を著し、その哲学的基礎付けをあたえた。また「教育と宗教との衝突」を雑誌に連載し、キリスト教を反国体的宗教として排撃し、大きな反響をよぶ。その後、一貫して天皇制国家における国民道徳のあり方を論じた。
1925(大正14)年2月より大東文化学院第2代総長に就任し、1926年10月までつとめた。雑誌『大東文化』にも創刊号(大正13年3月)より、数回にわたり論説を寄稿するなどしている。しかし、1926年、著作『我国体と国民道徳』における三種の神器の解釈を「不敬」とする非難が起こったことから、問題拡大を避けるために大東文化学院を含む一切の公職を辞任した。
主な著書に、『巽軒論文集』、『日本陽明学派之哲学』、『日本古学派之哲学』、『日本朱子学派の哲学』、『国民道徳概論』等。享年88歳。
-
初期の教員たち
-
諸橋 轍次 【1883年(明治16年)6月4日~1982年(昭和57年)12月8日】
大東文化学院教授。東京文理科大学名誉教授、都留文科大学初代学長。
号は止軒。新潟県南蒲郡森町村(現、三条市下田)に生まれた。東京高等師範学校(後の東京文理科大学、東京教育大学、現、筑波大学)を卒業後、1919年(大正8年)より中国へ2年間留学した。帰国後、1923年(大正12年)の大東文化学院創設と同時に教授に着任した。
同時期に大修館書店の企画を受けて『大漢和辞典』の編纂事業に取り組むこととなったが、一説には、この事業が大東文化学院の生徒たちの生活費の一助とするのに最適であると考えたことも引き受けた理由の一つであったという。
1929年(昭和4年)より母校である東京文理科大学内の漢文科設置編制に携わるため、大東文化学院を退職した。東京文理科大学教授として長年にわたり尽力した以後は、國學院大学や都留文科大学において教育に携わった。
長い生涯の中では、全15巻からなる壮大な『大漢和辞典』の監修をはじめ、多くの研究業績を残した。
生まれ故郷の生家跡は現在もそのまま残されており、隣接して「諸橋轍次記念館」が建てられている。
小柳 司氣太 【1870年(明治3年)11月3日~1940年(昭和15年)7月18日】
新潟県上保内村(現、三条市上保内)に生まれる。西蒲原郡吉田町の私塾「長善館」に学んだ後、1891年(明治24年)9月に帝国大学文科大学に進み、漢学を修める。卒業後は哲学館(現、東洋大学)や学習院、東京帝国大学、國學院、慶應義塾等多くの高等教育機関において漢学を教授した。
1926年(大正15年)4月より大東文化学院教授に就任。以後、大東文化学院の発展と教育に情熱を注いだ。1938年(昭和13年)には大東文化学院教頭となった。なお、1940年(昭和15年)4月~12月頃の一時期、従前の「教頭」職を「学長」と呼称したため、戦前期の学院時代において唯一の「学長」となった。
文学博士として漢学のみならず道教研究の第一人者でもあった。主として『新修漢和大字典』の監修者として知られるが、他にも精力的な研究により『老荘の思想と道教』『東洋思想の研究』等多数の著書を残した。
川田 瑞穂 【1879年(明治12年)5月24日~1951年(昭和26年)1月27日】
大東文化学院助教授。早稲田大学教授。
高知県に生まれた。号である「雪山」は、郷里である土佐の雪光山からとったもの。明治から昭和前期にかけて活躍した漢学者。
郷里の先達山本梅崖のもと大阪「梅清処塾」で漢学を学んだ後、東京専門学校(現、早稲田大学)政治経済学科に進んだ。1923年(大正12年)の大東文化協会及び学院の創設に尽力し、助教授として「日本政記」等を担当した。1930年(昭和5年)に早稲田大学高等師範部(後に教育学部)教授として移り、以後は1950年(昭和25年)まで漢学を教示した。
大東文化学院初代総長・平沼騏一郎の設立した初期の無窮会においても中心的な存在として活動し、会長事務代行や理事をつとめた。また、東洋文化学会創設者の一人として、生涯にわたり漢学の研鑽と普及とに尽力した。
太平洋戦争終戦時には鈴木貫太郎内閣官房嘱託として、「終戦の詔書」を起草。この詔勅は、迫水久常内閣書記官長と陽明学者の安岡正篤大東亜省顧問の修正過程を経て成立したものである。
なお、よく知られている頭文の
「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し茲に忠良なる爾臣民に告ぐ」
は、雪山によって起案された原文のままである。その他にも多くの学会の重鎮が携わっていた。
学院設立から草創期にかけて携わった主な漢学者には、『日本儒学史』等を著した安井小太郎【朴堂】(経学)や、史記研究の第一人者として知られた池田四郎次郎(史学)、全15巻からなる世界最大の漢和辞典『大漢和辞典』を監修した諸橋轍次【止軒】(宋学)、敗戦にあたり「終戦の詔勅」を起草した川田瑞穂【雪山】、最後の大漢詩人と言われる土屋久泰【竹雨】(漢詩)、「早稲田派」の急先鋒であり大東文化学院創設の一端となった「漢学振興運動」を牽引した牧野謙次郎【藻洲】(経学)のほか、小柳司氣太(東洋思想)、中山久四郎(東洋史)、飯島忠夫(史学・東洋天文学)、内田周平(宋学)、国分高胤【青崖】(漢詩)、川合孝太郎(文字学)、高田真治【陶軒】(経学)、加藤常賢【維軒】(文字学)、山田準【済斉】(陽明学)、藤塚鄰(経学)等々が名を連ねており、当時として錚々たる顔触れであった。
また、大東文化学院高等科を卒業して戦中戦後にかけて活躍した漢学者も多く、例えば、近藤杢や下斗米晟、原田種成、笠井輝男【南村】、猪口篤志等は、卒業後に大東文化学院の教員となり、学院の教育に尽力した人々である。
-
- 1932年
- 昭和7
創立10周年
1932(昭和7)年10月、本学の前身校となる大東文化学院は、創立10周年を記念し各種の記念事業を執り行った。
記念事業では、次のことが行われた。
- 記念式典(祝賀会)の開催
- 記念講習会。(4人の教授による講義)
- 校旗と学院歌の制定披瀝
- 大東文化協会・学院編集発行『創立十周年記念 大東文化協会・大東文化学院創立沿革』(昭和7年10月13 日発行)の刊行
- 大東文化協会・学院編集発行『創立十周年記念号』(昭和7年12月25日)の刊行
行われた記念式典(祝賀会)の様子は、『創立十周年記念号』に詳しく記録されている。列席した来賓の名簿も同誌に記載されており、齋藤實内閣総理大臣、一木喜徳郎宮内大臣、山本達雄内部大臣、鳩山一郎文部大臣等、錚々たる面々より祝辞をいただいた。また、創立7周年の際に学生によってデザインされていた校旗と、国分青厓が作詞した学院歌とが、創立10周年記念式典にて正式に制定され、公開披露された。
-
- 1943年
- 昭和18
創立20周年
1943(昭和18)年9月20日、創立20周年を迎えた。
戦時下のこの時期、20周年記念式典が開催されたのかどうか、詳細はわからない。ただし、20周年を記念した事業として記念小冊子等が刊行された記録が残されている。
-
- 1949年
- 昭和24
新制大学「東京文政大学」開設認可
1949(昭和24)年4月より大東文化学院専門学校は新制大学へと昇格し、名称を東京文政大学と改めた。「大東文化」の名称は戦時色を感じさせるため好ましくないとの文部省の見解により、継続して名称を使用することが却下されたためである。東京文政大学は文政学部のみの単科大学として発足した。池袋校舎も戦火で焼失したままであり、校地や図書設備の再整備を進めながらの、まさに復興に向けた状態での再出発であった。
-
土屋 久泰(竹雨) [1887(明治20)年4月10日-1958(昭和33)年11月5日]
-
新制大学・東京文政大学(4年後に大東文化大学へ校名復帰)初代学長。戦後復興からの大東文化発展の基盤を作った。
山形県鶴岡市出身。庄内藩士であった父土屋久国と母寿満との長男として生まれる。本名は久泰、字を子健、号を竹雨(ちくう)とした。書窓の寒竹を見て、自ら竹雨を名乗るようになったという。
庄内中学校(現;鶴岡南高等学校)、第二高等学校(仙台)を卒業後、東京帝国大学法学部へ進学。1914(大正3)年に卒業後は大須賀均軒(いんけん)等に師事し、漢詩の世界を追究する。
1923(大正12)年より大東文化協会幹事となり、雑誌『大東文化』創刊に携わり、長く同誌の編集人(主幹)を務める。1931(昭和6)年より大東文化学院講師、1935(昭和10)年より同教授となった。
戦時下には故郷の鶴岡へ疎開、同地の人々に漢詩の指導を行っていたが、敗戦とともに大東文化学院へ復帰した。1948(昭和24)年、新制大学・東京文政大学の初代学長に就任。同時に大東文化学院専門学校の第14代総長もつとめ、専門学校の新制大学への移行、閉鎖までを指揮した。以降、昭和33年に逝去する直前まで学長職に就いた。
竹雨は、昭和期における漢詩壇の第一人者として広く知られている人物である。「最後の漢詩人」「漢詩界の巨星」とも称せられた。東大在学中より著名な漢詩人である国分青崖(大東文化学院教授、「学院歌」作詞者)を慕って師事し、その後も大東文化学院でともに教鞭をとり、日本人の漢詩教育に貢献した。1928(昭和3)年に『東華』(芸文社)を創刊、1949(昭和24)年に日本芸術院会員となった。1950(昭和25)年、鶴岡市の以文会(現;到道博物館)顧問に就任した。
いわゆる研究論文を執筆することはあまり好まず、純粋に漢詩の世界を愛好した。漢詩選を積極的に行い、余香吟社など多くの漢詩社の指導にも携わった。主な作品に、『日本百人一詩』(砂子屋書房、1943年)、自選詩集『猗廬詩稿 乾・坤』(芸文社、1957年)等がある。
鶴岡市多磨霊園にある土屋家之墓に眠る。享年71。
-
- 1953年
- 昭和28
「大東文化大学」への名称変更申請
「東京文政大学」は2年後には「文政大学」へと名称を改めた。しかし、同窓生をはじめとした関係者の「大東文化」名への思い入れは深く、幾度となく名称復活の訴えがあったこともあり、首脳陣は早々に「大東文化大学」への名称変更申請を決意。新制大学となって4年後の1953(昭和28)年4月、創立30周年を記念する年に、学校法人大東文化大学へと名称変更されることとなったのである。大学一期生の卒業証書は「大東文化大学」名で授与され、東京文政大学は幻の校名となった。
なお、大東文化大学への校名復帰もあり、30周年記念式典では学院歌に代わる新たな校歌が制定、披露された。作詞原案は谷鼎。当時大東文化大学で教鞭をとっていた谷が依頼を受けて作詞した原案を、教授会で若干の修正を行って制定したとされる。
-
創立30周年
1953(昭和28)年9月20日、敗戦後、種々の課題をかかえつつ新制大学へ昇格した本学は、「大東文化」から「東京文政大学」への校名変更を余儀なくされていた。しかし、30周年を迎えたこの年、悲願であった旧校名「大東文化」に復することが認可され、大東文化大学へ再び校名変更が行われたのであった。
なお、大東文化大学への校名復帰もあり、30周年記念式典では学院歌に代わる新たな校歌が制定、披露された。作詞原案は谷鼎。当時大東文化大学で教鞭をとっていた谷が依頼を受けて作詞した原案を、教授会で若干の修正を行って制定したとされる。
-
- 1963年
- 昭和38
創立40周年
1963(昭和38)年9月20日、40周年を迎えるにあたり、昭和35年4月、さらなる学園の拡大拡充を目指し、多角精鋭主義の経営方針が、理事会を通じて打ち出された。
「創立40周年記念振興計画」と名付けられた同方針は、創立40周年を機とし、板橋区に広い校地を入手して池袋校舎から移転すること、学部を現在の1学部制から2学部4学科に拡大し、付設校として高校と技術専門学校(弱電気関係・土木関係)を設置することを提案した。さらに、将来展望として、大学に技術専門学校卒業生を受け入れるための工学部を加えて、文系理系を兼ね備えた総合大学となる3学部6学科体制とし、同時に大学院と幼稚園とを兼ね備えた学園組織へ発展したい旨を打ち出したのであった。
同「振興計画」に基づき、昭和36年より校地校舎が池袋から板橋へ移転、翌昭和37年度より「文政学部」が文学部と経済学部とに改組された。同時に、同37年度より大東文化大学第一高等学校も開校したのであった。なお、昭和36年より大東医学技術整復専門学校も付設校として学園に加わった。
学部学科及び付設校の拡充を果たして、確実に発展の一途を辿っていたこの時期、盛大に「創立40周年記念式典」は開催された。
なお、本学教授であった高田真治による40周年を祝う漢詩が載った扁額も残されている。
-
- 1973年
- 昭和48
創立50周年
1973(昭和48)年9月20日、50周年を機とし、昭和47年度に外国語学部を、昭和48年度からは法学部を開設した。大東文化大学は、4学部9学科に拡大し、ほかに専攻科と、二つの研究科からなる大学院をも備えるようになっていた。さらに、学園の付設校として第一高等学校、付属盈進高等学校、同中学校、同小学校、同幼稚園、付属青桐幼稚園、大東医学技術専門学校を持つまでに発展した。
また、大学キャンパスも板橋のほかに東松山が加わり、昭和42年度からは広大な敷地面積を誇る東松山校舎で教養部の授業が行われることとなった。
さて、創立から半世紀が過ぎたことを祝って行われた記念事業は盛大であった。
新学部の開設のほか、初めて編まれた本格的な学園史であり、現在に至るまでなお本学の正史として中心的な位置を占める『大東文化大学五十年史』の編纂刊行をはじめとして、周年記念の各種刊行物を出すことも、この時期より恒例となって盛んになったようである。また、板橋キャンパスの再整備も50周年を機に進められ、6階建てからなる「50周年記念館」の建設、周年記念式典の同日には記念館落成式も行われた。
なお、この時期の大東文化大学後援会の会長は岸信介、副会頭は福田赳夫で、盛大に開催された記念式典には政界からの来賓も多かった。
-
- 1983年
- 昭和58
創立60周年
1983(昭和58)年9月20日、創立50周年を機として法学部を設置して以降、その後の10年間は新設学部を設けておらず、代わって、教育環境の整備充実が進められた。
教員と学生との比率が、ピーク時には1人当たり50人であったのを、この時期までには30人程度まで改善させ、同時に、昭和55年、板橋キャンパス内に研究管理棟(現2号館)を建設して教育研究環境の改善を図った。嬬恋ゼミハウス(昭和50年)、大東文化会館の開設(昭和51年)もこの頃に行われた。また、昭和51年度より専任教職員の長期中期海外研修が制度上明文化され、国際的な視野で研究活動を行っていくことを支援することとなったのもこの時期のことであった。
創立60周年を迎えた同年より、東松山キャンパスの校地拡大・拡充計画が打ち出された。以降、70周年までのおよそ10年をかけて東松山キャンパスの再開発が行わることとなる。
記念式典は、ホテル・センチュリーハイアットで盛大に行われた。創立60周年を記念して刊行されたものは、『創立60周年記念 軌跡』、『創立六十周年記念 大東文化大学書法展』、『大東文化大学創立六十周年記念 中国学論集』、東洋研究所が復刻・発行した『Ex Oriente』(エクスオリエンテ)等であった。
-
- 1993年
- 平成5
創立70周年
1993(平成5)年9月20日、創立70周年を記念して出された刊行物は非常に多い。
『大東文化大学七十年史』、『大東文化大学創立七十周年記念論集』(上中下、全3冊)、『大東文化大学漢学会誌 第三十二号 創立七十周年記念論集』、『21世紀の民族と国家』(全11冊、「創立70周年記念学術調査・研究」プロジェクト報告)等が刊行された。
一方、この年、記念式典や各種記念行事等は中止することが理事会において最終決定され、刊行物や記念品のみが配布された。
これよりさき、昭和61年度より国際関係学部が新たに新設され、5学部13学科となった本学は、人文科学系大学として多くの学生数を誇る大規模な大学へと発展していた。また、当時のベビーブームや大学進学率の増加に対応するため、この頃は入学定員を臨時増加する大学が相次いでおり、本学も昭和61年度より平成3年度、同4年度と、段階的に臨時定員増を行っており、年々入学する学生数が急増していった。
学生の急激な増加に対応するべく、60周年を機に再開発が宣言された東松山キャンパスは、およそ10年をかけて拡張され、通学バスや屋内プール、グラウンドも整備新設された。また、平成元年には板橋キャンパスの1号館も完成している。
-
- 2003年
- 平成15
創立80周年
2003(平成15)年9月20日、80周年記念式典はホテルメトロポリタンにおいて盛大に行われた。
また、学生たちが自主的に集まり、創立80周年を迎えた大学を80歳とみなし、近隣の80歳を迎えて話を聞く、「80歳が80歳を迎える集い(ハローハローの集い)」を行った。大学院生及び学部生が、平成15年10月~翌年2月の間、主として地域の老人会を訪問し、所属する老人たちから経験談・意見などを真摯に伺うという活動で、延べ187人の協力を受けた。
『大東文化大学創立80周年誌 心は放て天地間、まなこはさらせ世の移り』(80周年記念誌)、『大東文化大学創立80周年記念事業 80歳が80歳を迎える集い -ハローハローの集い- 記念誌』等が、80周年を記念し刊行された。
これよりさき、平成12年に経営学部、平成13年に環境創造学部が新設され、7学部17学科となった大学は、大学院生も含め学生数1万4千人を超える大規模校となった。「書道学科」が開設されたのもこの時期である。板橋校舎の再開発の取り組みで現図書館や3号館の建設が行われ、また、イメージキャラクター「パラブン」が平成13年に決まるなど、新しい時代を意識した取組が目立つようになった。
-
- 2013年
- 平成25
創立90周年
2013(平成25)年9月20日、記念式典が開催されたほか、学術シンポジウム、ホームカミングデー、WALK等の記念イベントが実施された。記念ロゴマークやステッカーが作られるとともに、校内は90周年記念仕様にラッピングされ、また記念グッズも多数販売されるなど、新しい取り組みもなされた。それら記念事業の一つとして、90周年ブックレット『大東文化大学の歩んできた道』が刊行された。
80周年からの10年には、ビアトリクス・ポター資料館及び、大東文化歴史資料館(大東アーカイブス)の開設がなされた。以降、現在に至るまでピーターラビットがキャラクターとして活躍するようになるとともに、全学的なアーカイブス活動が始まった。また、2004年に大学院法務研究科が信濃町校舎で開設、2005年にはスポーツ・健康科学部が設置され、2012年に大東医学技術専門学校が閉校となるなど、学科再編等を含め学内の新設統廃合が進められた。
施設面では、板橋キャンパスの大規模再開発が2003~2006年にかけて行われ、図書館や3号館等が新設された。現在は、東松山キャンパスの再開発が進行中である。2010年10月に始まった東松山キャンパス整備事業では、新3号館と10号館、新4号館と新5号館との2棟を結ぶ横断歩道橋(ふらっとストリート)が新設された。キャンパス整備事業の集大成となる第3期工事では、新2号館(3階建、総面積5,100平米)が建設された。
-
- 2023年
- 令和5
創立100周年