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contents #03 ヒストリア

Historia

『大漢和辞典』編纂と大東生の活躍

大修館書店から刊行された『大漢和辞典』の編纂事業は、大東文化学院生たちが行った最大の研究業績の一つとして現在まで語り継がれている。

『大漢和辞典』は、膨大な書物や資料をもとに通算30余年の年月をかけて編纂されたもので、全15巻からなる漢和辞典は今なお世界最大の位置を占めている。しかし、大東生が『大漢和辞典』を誇りとして語り継いでいる理由は、その規模や質の高さからだけではない。何よりも、編纂に携わった人々の高い志と苦難とがあったからである。

大正期以前、漢和辞典は簡易で簡素な字典しか存在せず、しかも用例の出典の明記がなかったり誤りがあったりと、何かと不便を強いられるものが多かった。そこで、大修館書店創業者で社長であった鈴木一平は、1925(大正14)年頃、漢字研究の第一人者であった諸橋轍次に新しく正確な漢和辞典を作ることを相談した。当時大東文化学院教授であった諸橋は本務との兼ね合いからなかなか受諾しなかったが、最終的には大東生たちの勉強を兼ねたアルバイトになると考え、この話を受けることとする。鈴木が当初2巻程度の漢和辞典編纂を想定していたのに対し、完全な大漢和を完成させるとなると、予備調査の段階で予想をはるかに上回る膨大な時間を要する大規模編纂事業となることが判明したが、熟考のすえ諸橋と鈴木は刊行を決断する。1927(昭和2)年に出版契約がなされると、諸橋監修のもと終わりの見えない大編纂事業が開始されたのであった。

編纂作業は、日本各地の有数の漢学者・漢字研究者数名とともに、大東文化学院高等科(現在の大学院に相当)を中心とした学院生たちが編纂助手として携わり、開始された。学院生たちは戯曲や小説を含む中国古典の原典に当たるなど古今和漢の典籍を渉猟、それまでの辞書が踏襲していた誤記誤釈を正していくという作業を一手に担った。特に原文中の熟語を拾って出典や引用文を探し出す作業や部首順・画数順に分類していく作業は、かなり高度な漢学知識を必要としたが、学院生の学力は相当なものであり、彼らの長期にわたる努力によってそれらの地道な作業は進められた。途中、目を酷使する過酷な作業によって視力を失う者も出たという。

1943(昭和18)年9月10日、第一巻が上梓された。しかし戦時下の資材不足の中での刊行続行は容易なものではなく、しかも1945(昭和20)年2月の空襲により、すでに組まれていた原版や資料の大方が焼失してしまう。敗戦後、戦災を免れた校正刷りや資料をもとに事業は再開された。1955(昭和30)年11月に改訂された第一巻が刊行され、1960(昭和35)年、『大漢和辞典』13巻が完成する。その後、補巻が2000(平成11)年に刊行されて全15巻からなる『大漢和辞典』となった。

この長い編纂過程の途中、諸橋は大東文化学院から國學院大学や東京文理科大学へ移籍している。編纂作業にはその教え子たちも加わったため、刊行直後には東京文理科大学の学生たちによる編纂という印象が強く残ってしまい、大東生たちは悔しい思いを強いられた。しかし、実際の地道な作業は大東生たちによるものであったと、諸橋自身が『大漢和辞典』序文に次のように記している。

(川又君、渡辺君、真下君、佐々木君は)終始事業のため精励してくれた。然るにこの四君は終戦と相前後して約一年の間に共々世を去った。これは事業完遂の行程に於て私の受けた最も傷心の事柄であった。この四人は共に大東文化学院の出身である。外にも同学院の出身者で私に協力してくれた人々は少なくない。この事業の前半は、それらの人々が中心となって分担したものである。

このように、大東生の活躍があってこそ刊行が実現したと讃えたのであった。

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