大東文化大学の歴史大東文化大学の歴史

contents #03

ヒストリア

Historia

敗戦直後の学生生活と青砥校舎の思い出 ―大東文化学院・最後の3年間―

1945(昭和20)年10月11日、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の責任者であった総司令官ダグラス・マッカーサーは、敗戦後の日本社会の民主化を促すべく、「五大改革指令」を命じた。そのうちの一つが「自由主義教育ノ実施」であり、以降、民間情報教育局(CIE)やアメリカ教育使節団のほか、日本側には教育刷新委員会が設置され、学校教育の機会が全国民に対し均等に与えられるよう、「学問の自由は、これを保障する」ため、教育改革が推し進められることとなった。

ただし、改革指令のもと、高等教育機関がすぐさま新制度へと変更されたわけではなかった。複雑な戦後教育改革が重ねられ、ようやく新制大学が発足するのは、1949(昭和24)年のことであった。この間、大東文化学院を含む高等教育機関は旧制度のもとで運営されており、教育現場においても数々の困難があり、多くの努力が払われたのであった。

敗戦時、夏季休暇中であった大東文化学院は、1945(昭和20)年9月25日に始業式を行い、26日より授業を再開した。当時の校地であった池袋校舎は、戦禍により跡形もなく焼失しており、新しい校舎再建の目処は全く立っていなかった。仮校舎として、学院総長であった酒井忠正邸の一部を使用して教室としていたが、戦地からの復員や動員からの復帰者が増えてくるにつれ、教科書や本だけでなく、机も椅子も不足するようになった。ついには教室に収まらなくなり、青空のもとに出て、教師と学生とが車座になって芝生の上に座っての講義や討論が行われた。それでも同年11月には遠足も行われるなど、学院の中には徐々に活気が戻ってきたのであった。

翌年1月になって酒井総長が戦犯として拘留されると、校舎として使っていた酒井邸も進駐軍によって接収されることとなった。物資も人手も不足するなかでの池袋校舎再建は不可能な状況で、早急に適当な仮校地校舎を見つけねばならなかったが、敗戦直後の社会状況では非常な難題であった。

試行錯誤しつつ、新たな校地として、青砥中川付近の工場跡地が提案された。雨が降れば川が増水して敷地まで水が溢れてくるような立地であり、建物も古い工場や工員寄宿舎で、校舎として適しているとは言えなかったがほかの選択肢もなく、大東文化学院は青砥へと一時的に移転することとなった。

青砥校舎への移転は1946(昭和21)年2月に行われた。以降、1949(昭和24)年10月の池袋校舎再建までの3年半ほどを同地で過ごすこととなった。

青砥校舎での思い出は、敗戦直後の物資不足、食糧不足に喘ぎ、苦しんだ記憶がほとんどである。交通事情が悪く、駅から校舎まで無舗装の道を歩いて通学したこと。停電も多く、電球も切れがちで、常に室内が薄暗かったこと。学生寮にいても食べ物などなく、トウモロコシ粉、脱脂大豆粉、サツマイモ、時には大豆数粒のみといったわずかな配給に頼った食生活で、いつも空腹を抱えていたこと。帰省した友人のお土産の饅頭に一気に群がって食べたこと。それでも各種研究会を開いたり、新しい民主主義社会を切り開くための講座を学生たちが企画し実施したりしていた。極端に制限された暗い電灯の下では、わずかに手元に残った書物を開き、教員学生に関わらず勉学に勤しむ姿があちこちに見られたという。

大東文化学院の新制大学への移行申請や各種準備も、こうした青砥校舎時代に行われたものであった。大学設置の認可は難航し、「大東文化」の校名が戦時色を感じさせるという意見とともに、特に問題視されたのは、図書館もなく、工場跡地という校舎の環境が好ましくないという点であった。大東文化学院生たちは「大東文化」存続のために日本中を奔走し、進学希望者を募るとともに、池袋校舎再建のための寄付金収集に協力、まさに全学一丸となって新制大学発足を目指した。

1949(昭和24)年4月、校名を東京文政大学へと変更した新制大学の設置が認可された。同時に、同年10月には青砥校舎と別れを告げ、池袋校舎へと復帰することとなったのである。

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