大東文化大学の歴史大東文化大学の歴史

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ヒストリア

Historia

大東文化学院名誉総長・鵜澤總明

鵜澤總明は、明治・大正・昭和前期に活躍した人権派弁護士であり、敗戦後の極東国際軍事裁判日本側弁護団長を務めた。1872年8月2日に上総国木更津県長柄郡上太田村(現・千葉県茂原市紙太田)に生まれ、1900年に東京帝国大学を卒業後法学博士となり、弁護士、政治家、教育者など多方面で活躍した。明治大学総長を4度にわたり務めた一方で、大東文化学院総長や大東文化協会会頭も複数回にわたり歴任し、戦後は大東文化大学初代理事長となり名誉総長となった。

大東文化学院と鵜澤との関係は、1922年3月に帝国議会内に「漢学振興に関する建議案」について審議するための委員会が立ち上げられた際、その委員の一人に鵜澤が選出されたことから始まる。さらに1923年2月に漢学振興のための推進団体として「大東文化協会」が発足すると同会理事に就任し、「教化部」責任者を引き受けた。以降、大東文化協会および大東文化学院にとって鵜澤はなくてはならない存在となった。

大東文化協会教化部とは、講演会や公開講座などを取り仕切る部署であった。鵜澤も自ら全国で講演を行う傍ら、「大東美術振興会」顧問を務め、さらに大東文化協会が発行する多くの出版物にも積極的に寄稿を重ねた。機関誌として最初に創刊された『東洋文化之神髄』に「東西法理の比較」と題する論稿を寄稿したことを皮切りに、雑誌『大東文化』や機関新聞『大東文化』に多数の論稿を寄せている。また、それ以外の刊行物にも鵜澤の名前はよく見られ、たとえば『エクスオリエンテ』(『Ex Oriente』)創刊号にも「王道の考察について」と題する英文の論稿が掲載されている。

一方、大東文化学院では、開校前の学則や教育内容などを定めるための「学院綱領並学則編制委員会」委員を務め、さらに大東文化学院開校直前に関東大震災がおこり神田校舎が焼失し新たな校舎の手配が早急に進められた際には多額の資金提供を行った。大東文化学院開校と同時に教授にも就任、主として「法学」「法律学原理」を教えたほか、「老子」に関する特別講演を行った記録も残されている。

このように大東文化協会や学院にとって多大な貢献をなした鵜澤が大東文化学院第四代総長(総長事務取扱)に就任したのは、学院紛擾による混乱の最中のことであった。在任期間はわずかに1927年6月から同年9月までの3ヶ月であったが、紛擾解決に奔走した結果、総長を辞すことを決意する。総長を辞した鵜澤は同日のうちに「五総務制」と名付けた5人体制で学校運営を取り決める方式を取り入れ、鵜澤のほかに小川平吉、平沼騏一郎、鈴木喜三郎、山本悌二郎という人選がなされた。しかし、紛擾下において私学派が含まれないこの五総務制に学内の賛同を得ることはできずすぐに解散となり、再び同年11月末に鵜澤は第五代総長(総長事務取扱)に就任した。ただし、わずか4日間の就任であり、同年12月3日には大津淳一郎が第六代総長に就任していることから、引継ぎのための復帰であったと考えられる。次に鵜澤が松平頼寿の後を受けて第九代総長となったのは1940年12月のことで、このときは1943年8月までの任期をまっとうした。なお、これよりさき、1940年8月2日に大東文化学院「学長」に就任、同年12月13日には高等科部長も兼務した。これは同年7月18日に急逝した小柳司氣太学長の後を継いだもので、この「学長」職は鵜澤が総長に就任すると同時に廃止となったため、旧制期における「学長」は小柳と鵜澤だけであったことになる。同時期の「学長」は教頭や学務局長のような役割を果たしていた。

戦後となった1946年9月、鵜澤はあらためて第十二代総長に就任した。ただし、実は終戦間際に大東文化学院は大東文化学院専門学校と改称しており、このとき「総長」の呼称は「校長」へと変更されている。したがって、公文書上では「大東文化学院専門学校校長」が正式名称である。鵜澤の校長職は1948年3月まで続いた。他方、大東文化協会では、1943年8月から1945年12月まで大東文化協会副会頭、1945年12月より第八代会頭を務めた。在任期間中に「会頭」を「理事長」へと改めることとなったため、鵜澤は初代理事長でもあった。1947年11月に理事長を退任、大東文化初の名誉総長となった。

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