大東文化大学の歴史大東文化大学の歴史

contents #03

ヒストリア

Historia

木下成太郎 ~大東文化協会創設の立役者~

木下成太郎は、明治末期から昭和初期にかけて代議士として活動した、北海道出身の地方政治家である。〝成太郎〟は〝しげたろう〟と読む。しかし、政治家としての功績よりもどちらかと言うと、大東文化大学の前身である大東文化協会及び同学院や、帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)の創設に携わったことを人生の事跡として残した人物である。

現在、北海道の札幌中島公園内には朝倉文夫作「木下成太郎先生像」が置かれており、美術史的にも同像は非常に重要な価値を持っており、札幌市民に親しまれている。経年によりかなり劣化が進んでいたため、武蔵野美術大学彫刻学科黒川教授のチームによって修復のための調査が2008年から始まり、その後約10年間にわたって修復作業が進められた。この間、本学はもちろんのこと、札幌市、札幌彫刻美術館友の会、市民ボランティア団体等が同事業に協力してきた。2018年8月には大規模修復事業がようやく完成し、その設置セレモニーには本学から同窓会北海道支部長の山田清司氏が出席された。

木下成太郎は、幕末の1865(慶応元)年8月、現在の兵庫県豊岡市で豊岡藩士の子として生まれた。維新後に家族で北海道へ移り、1889(明治22)年頃に北海道厚岸町に定住したという。新聞発行などの印刷業や漁業などに携わった後、1900(明治33)年7月に第一期の厚岸町会議員となった。さらに1907(明治40)年8月に北海道議員に当選し、その後政友会所属の衆議院議員となったことを機に札幌、東京へと自身の居を移した。以降、党北海道支部幹事長(支部長)を務めたり、私財を投じて札幌北海道支部の建築を行ったりといった活動も見られたが、木下の政治家としての活動は教育思想面で特に発揮された。西洋文明の隆盛に警戒感を持っていた木下は、議会で発言を重ね、大正期に入る頃には漢学振興を提唱する運動に賛同し、活発な動きを見せるようになっていったのである。

漢学振興運動は東洋学芸振興策のひとつであり、その運動の高まりは大東文化大学の前身である大東文化学院創設へと結びついていくこととなる。帝国議会衆議院会議へ提出された「漢学振興ニ関スル建議案」は、1921(大正10)年から3回にわたって審議されており、同建議案の提出者筆頭は木下成太郎であった。このとき、建議案提出に関する趣旨説明も木下が行っている。建議案が会議を通過したのは1923(大正12)年3月のことで、木下は同年に創設された大東文化協会の役員(幹事、庶務部長)に着任し、以降、大東文化学院の運営に手腕を振るうようになっていったのであった。

木下が大東文化協会及び同学院の実質的な創設者であったことは、設立当時より自他共に認めるところであった。『大東文化協会第一回報告 本会設立ノ趣意』(1923年発行)において設立趣旨を自ら述べて編集していることや、『創立十周年記念 大東文化協会大東文化学院創立沿革』(1932年発行)の巻頭の写真頁の中央に木下の写真がやや大きく掲載されていることなどからもそれは見てとることができる。また、東洋文化協会機関紙『東洋文化』(第四号、1924年)には、「事実上協会を双肩に背負って日々協会事務所に出動して采配を振れるものは、庶務部長兼幹事長木下成太郎なり」と記されている。木下の晩年において、大東文化協会での約20年間は公的な活動の中心であった。また、昭和2年には帝国美術学校創設の相談にも乗っており、以降、同校の設立資金の調達を始め、同校校長に就任した後は運営手腕を発揮している。

1942(昭和17)年11月に木下が亡くなった際には、「学院協会葬」が執り行われており、「学院協会葬」は大東文化史上この一度だけであった。なお、冒頭に記した札幌中島公園の「木下成太郎先生像」であるが、石碑の表には土屋竹雨(久泰、大東文化大学初代学長)撰の漢文が記されている。

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