2023年2月6日にトルコ南部カフラマンマラシュ県パザルジク市を震源地とするマグニチュード7.8の地震が発生し、広範囲で甚大な被害が発生しています。現在も世界各地から救助隊や支援団体が集まり、国境を超えた支援が行われています。トルコ共和国は親日国として知られており、テレビやインターネットを通じて届けられる現地の様子に、多くの方が深い悲しみを感じているのではないでしょうか。今回の地震で亡くなられた方々に哀悼の意を表するとともに、被害に遭われた方々が一日でも早く元通りの生活に戻られることをお祈り申し上げます。
トルコでは、約12年前の2011年10月23日にも東部ヴァン県ヴァン市を震源地とするマグニチュード7.1の地震が発生しました。皆さんはこのトルコ東部地震が発生した際に、難民支援のために現地で活動を行った大東文化大学の卒業生がいたことを知っていますか?
この銅板碑は、東松山キャンパスの5号館2階Mフロントの入口付近に設置されており、大東文化大学に通う者であれば登校する際などに一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。この銅板には「宮﨑淳さんを讃えて」という題名で、太田政男学長(当時)の言葉に加えて、なんと、当時のトルコ共和国 エルドアン首相から送られた言葉が刻まれています。命を懸けて難民を支援し、トルコ共和国と日本の親交の架け橋となった大東文化大学の卒業生の宮﨑さんについて、学生取材企画の鬼塚と木村が迫ります。
1970年4月29日 大分県大分市生まれ
1991年 大東文化大学 法学部政治学科 入学
1995年 大東文化大学 法学部政治学科 卒業
1995年 大東文化大学院 法学研究科 入学
1997年 大東文化大学院 法学研究科 卒業
1997年~2001年 団体職員として勤務
2001年~2003年 英国大学院留学(ロンドン大学 紛争解決学 専攻/ランカシャー大学 平和学 専攻)
2004年~2011年 大分市役所、大分県庁に勤務
2011年8月~ 認定 NPO 法人 AAR JAPAN[難民を助ける会]で海外・国内事業を担当
2011年10月23日 トルコ東部地震 発生
2011年10月26日 トルコ東部地震の緊急支援のためにトルコに入り、支援活動に当たる
2011年11月10日 トルコ東部地震の余震に巻き込まれ死去 享年41歳
宮崎さんは2011年10月23日にトルコ共和国ヴァン県で発生した大地震の救援活動に参加するため、認定NPO法人 難民を助ける会[AAR Japan]の救援チームとして、地震発生の3日後にヴァン県に駆けつけました。宮﨑さんらは、活動拠点に入ると「わたくし達はボランティアの救援隊として来ました。どこへ向かう許可をいただけますでしょうか。素早く行動に移る必要があります」と言い、一刻も早い救援活動のために指示を仰ぎ、活動を開始しました。そうしてこの宮﨑さんたち救援活動チームはエルジシとヴァン中央に属する村々において地震によって被害を受け傷ついた人々に対し、勇気と希望を与えながら救援活動を行いました。
しかし、2011年11月9日に発生したM5.6の余震によって救援チームが滞在していたホテルが倒壊し、宮﨑さんたちは瓦礫の下敷きとなってしまいました。約13時間後に救出された宮﨑さんは、懸命な治療も虚しく2011年11月10日 41歳でその生涯を終えることとなりました。
その後、トルコではこの悲しい事故を受けて、宮﨑さんが行った救助活動への感謝と人道的精神を心に刻むために “ミヤザキ森林公園” や “宮﨑淳博士口歯治療センター” など様々な宮﨑さんの名前を冠した施設が各地に作られ、宮﨑さんを追悼するために作られた書籍『宮﨑淳博士への追悼』では、アブドゥッラー・ギュル大統領やレジェップ・タイイップ・エルドアン首相など当時のトルコ共和国の要職に就いていた方々から宮﨑さんへ宛てたメッセージが掲載されました。
2022年2月21日 天皇陛下62歳の誕生日記者会見では、天皇陛下が「東日本大震災の発生と同じ平成23年、トルコで起きた震災に日本から支援活動のために赴いていた宮﨑淳さんが、余震により残念ながら現地で亡くなりました。舗装道路などのインフラも十分でない被災地において、見ず知らずのトルコの人々のために力を尽くし、亡くなったとして、当時のギュル大統領は、トルコ国民の心を動かす献身的な活動をした宮﨑さんをいつまでも忘れない、と上皇陛下に親書を送られました。そして、以後、トルコの各地で宮崎さんの名を冠した公園や学校が開設されているとの報道に昨年接したことも、トルコの人々の温かい気持ちと共に印象に残りました。災害により困難な状況に陥った人々を助けようと尽力する災害ボランティアの精神は、誠に尊いものです。日本の多くの人々が国内外で災害ボランティア活動に従事してくれていることに敬意を表したいと思います。」とおっしゃられました。
日本から遠く離れたトルコの人々のためにボランティアとして命を懸けて尽力された宮﨑さん。亡くなられて11年経った今でもトルコではその功績が語り継がれ、日本では天皇陛下に活動や精神を敬されるなど、まさしくトルコと日本の親交の架け橋となっているのです。
宮﨑さんの功績が多くのトルコ人の心を打ち、日本とトルコの絆をより強めましたが、なぜ日本から遠く離れたトルコは親日国家と言われるのでしょうか?日本とトルコの関係を知るために、中東やイスラーム諸国を専攻・研究されている国際関係学部 国際関係学科 松本弘 教授に日本とトルコの友好史について伺いました。
──なぜトルコは親日国になったのでしょうか?
歴史的な背景から言うと、エルトゥールル号事件(1890年)があります。オスマン帝国時代にトルコが日本へ派遣した軍艦が帰国する際、和歌山県串本町の沖合で台風の影響で遭難し沈没。600人を超える乗員のうち587人が亡くなるという大規模な海難事故が発生しました。そんな中でも串本町近隣の人々は危険を顧みずに救助活動を行い、69人を救出したという出来事です。この事件は、トルコが親日国家となるために最も大きな影響を与えたと言われています。
日露戦争(1904-05年)の影響もあると言われていて、これに関してはトルコに限った話ではないのですが、当時の列強国である西洋諸国を東洋の小国(日本)が打ち倒して「小さな国でも列強国に勝てるのだ」と証明したことでトルコを含める周辺諸国に衝撃を与え、途上国の憧れになったのだと思います。現在トルコに実在するかは定かではないのですが、このときにイスタンブールに東郷平八郎の名前を取って “東郷ストリート” が作られたそうです。こういったことが過去にあり、現在まで親日国としての関係が続いています。
──現代のトルコと日本の関係について教えてください
阪神淡路大震災の際には、他の途上国に比べると早く大量の支援物資を届けてくれました。イラン・イラク戦争の際には、当時の日本の法律では自衛隊が派遣できず、日本人がイランに取り残されてしまう事態が発生したのですが、その事態を知ったトルコ政府が日本人をイラン国外に逃がすために航空機を派遣してくれました。一つ一つ挙げるとキリがないですが、日本とトルコの関係は良好だと言えます。
──トルコが行った宮﨑さんへの対応についてどう思いますか?
かなり特別であったと思います。私も外務省に勤めていたことがあるのですが、首相のような実権者(当時のトルコでは首相が最高権力者)がメッセージを書いてくれるということは通常ではあり得ないです。今回の銅板碑の件を見るに、報告書が外務省に届いて外務大臣が首相に報告をして首相が自ら書くという判断を下したと思うのですが、普通に考えれば外務大臣で止まります。基本的に外務大臣が東京の大使館の大使に依頼して終わりになりますが、その話が首相まで行ったというのが、トルコにとって日本や宮﨑さんの功績が重要であることの表れではないかと思います。
2023年2月6日にトルコ南東部のシリアとの国境付近で起きたマグニチュード7.8の大地震はトルコ国内を中心に約4.5万人の死者を出し、16万棟を超える建物が倒壊または大きく損傷し、未だに被害を受けたまま放置された地域が存在しており、支援や復旧作業を必要としています。そこで、被災地への一助となるために大東文化大学でも宮﨑さんが所属していた政治学科が主体となり募金活動を実施します。宮﨑さんの人道的精神に習い、今もなお現地で苦しんでいる方々を救うために多くの方からの募金をお待ちしております。
《 募金活動の実施日 》
東松山キャンパス(キャンパスプラザ):4月24日(月)25日(火) 12:25~13:15
板橋キャンパス(中央棟階段下) :4月26日(水)27日(木) 12:25~13:15
写真提供:認定NPO法人 難民を助ける会[AAR Japan]
本記事作成にあたり、御協力いただいた皆様に感謝申し上げます。
※本記事は100周年記念プロジェクトを学生が取材、発信していく「学生取材企画」によるものです。