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2021年11月27日

2021(令和3)年度「研究報告会」を開催しました

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日時

2021(令和3)年11月27日(土)13:30~15:20

会場

オンライン研究報告会(ZOOMにて開催)

司会

河内 利治

 去年度に引き続き、今年度もコロナ禍によりWeb会議システム(Zoom)にて、定例の人文科学研究所報告会を開催いたしました。学内外から13名の参加申し込みがあり、報告者・幹事含め17名が参加しました。武藤班、吉田班、澤田班の3班がそれぞれ研究テーマに関連する報告を行い、活発な質疑応答もなされ有意義な報告会となりました。

開会の挨拶 13:30~13:35
報告1 13:35~14:05
題目

景教の中国伝来はヨーロッパでどのように語られたのか

報告者

新居 洋子/ 中国三教と景教の相互交渉 研究班(代表:武藤 慎一)

報告者(新居洋子)レジュメ一部報告者(新居洋子)レジュメ一部

研究発表内容

 明末、西安で偶然発見された「大秦景教流行中国碑」は、すぐさま天主教信者および宣教師によってその内容が複製、解説され、国内に広く流通した。その背景には南京教案や、民間における白蓮教の拡大があったと思われる。ただしこうして出回った景教碑の情報は天主教の当事者のみならず、金石学の隆盛する清代には銭大昕『潜研堂金石跋尾』や王昶『金石萃編』にも翻刻され、歴史的な研究対象となっていく。
景教碑の情報は宣教師を通して西欧へも伝わり、宣教師自身による報告のほか、西欧在住のキルヒャー(Athanasius Kircher)やデュ・アルド(Jean Baptiste Du Halde)による大部の書物でも取り上げられ、中国キリスト教布教史の端緒を開いた出来事のひとつとして西欧で広く流通する。なお景教をネストリウス派に同定する見方は18世紀半ばに出現する。
しかし19世紀になると、天主教/キリスト教とは異なる文脈において景教碑の研究が継承される。これに従事したのはポーシェ(Jean Pierre Guillaume Pauthier)、レッグ(James Legge)、アヴレ(Henri Havret)、ホルム(Fritz Holm)ら中国学者、東洋学者であった。なかでもポーシェは、西欧に多くいた景教碑の実在を疑う人々に向け、『大清一統志』および前述の『金石萃編』といった現地文献による裏付けを試みたが、このことは西欧のシノロジーと清の学問とのひとつの接点を生み出す。ポーシェ以降、『金石萃編』は西欧の東洋学者、中国学者によって頻繁に引用される基礎史料となっていく。つまり景教碑は、清の金石学の成果が西欧のシノロジーに接続する重要なきっかけとなったのである。

報告2 14:10~14:40
題目

周代における列鼎制度の崩壊と諸侯の台頭

報告者

吉田 篤志 / 出土資料による中国古代文化の研究 研究班(代表:吉田 篤志)

報告者(吉田篤志)レジュメ図版の一部報告者(吉田篤志)レジュメ図版の一部

研究発表内容

 中国周代の祭祀において、供物を盛る銅器の数によって身分(権威)を表す“列鼎制度”が行われていた。儒家系文献には「天子は九鼎、諸侯は七鼎、……」の記載があり、身分制 ―公・侯・伯・子・男や卿・大夫・士の等級に基づく理想的な礼制を基調としていた。しかし、出土物からは儒家の言う礼制に違う“列鼎”が多く確認され―春秋期の河南省新鄭市鄭韓故城(鄭伯墓)や戦国早期の湖北省随県擂鼓墩一号墓(曽侯乙墓)出土の“九鼎八簋”、遡っては西周後期の陝西省宝鶏市眉県楊家村窖蔵出土の“十鼎(逨鼎)”“九鬲(単叔)”等は 礼制の崩壊、あるいは礼制そのものが儒家の理想に過ぎなかったのではないか、との見解もみられる。出土物の“列鼎”が儒家の礼制に基づくか否かは別として、西周後期から春秋・戦国期を通じて天子→諸侯→卿・大夫という権力の交代や政権の移譲があったことは事実で、“列鼎”の多寡は、このことを反映しているのではないか。

 

報告3 14:45~15:15
題目

刻帖書法に付着する他者
―名跡に反映する摹勒者・鐫刻者の技術と解釈―

報告者

澤田 雅弘 / 中国鐫刻基盤研究 研究班(代表:澤田 雅弘)

報告者:澤田雅弘報告者:澤田雅弘

研究発表内容

 書の名跡の伝承普及を担う刻帖は、摹勒から鐫刻までの一連の作業過程を必要とする。刻帖はその目的から原本に忠実であろうとはするが、摹勒の介入でどのような問題が生じるのか。唐代の摹本『万歳通天進帖』(697)を刻入する明代家刻の名帖『真賞斎帖(火前本)』(1522)、『停雲館帖』(1538)、及び清代の奉勅『三希堂石渠宝笈法帖』(1750)の三者について、二王の「姨母帖」「初月帖」「廿九日帖」を例に、問題を具体的に検出して報告した。またその成果を踏まえて、三帖間には双鉤者(鐫刻者の相違の可能性も考慮する必要がある)の違いがあることを明かにし、加えて報告者の分析による翻刻墓誌の実態、旧稿(2012年)の成果と併せて考えれば、畢羅(pietro De Laurentis)氏の集字聖教序の字形には懐仁による部分的な微調整が加えられたところがあるとの説に、蓋然性がないことを論じた。

閉会の辞 15:15~15:20
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