学生取材企画

2023.04.24

【学生取材企画】トルコ・シリア地震を偲ぶ。トルコ共和国と日本の架け橋となった卒業生 宮﨑淳さん(後編)

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前編では、トルコと日本の親交の架け橋となった宮﨑さんの功績とトルコ共和国と日本の関係性について迫りましたが、後編では、大東文化大学 東松山キャンパスに設置されている銅板碑の製作秘話について、引き続き学生取材企画の鬼塚と木村が迫ります。

 

東松山キャンパス5号館(M-commons)に飾られる
宮﨑淳さんの銅板碑について、押川典昭 名誉教授が語る。

 

 

トルコでは宮﨑さんという存在を心と記憶に刻むために様々なものが作られましたが、大東文化大学にも宮﨑さんを讃えて作られたモニュメントが存在します。東松山キャンパス5号館(M-commons)の入構口の左側の壁面に、木の枠組みに入った「宮﨑淳さんを讃えて」と題された銅板碑が設置されています。大東文化大学に通う者であれば、一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。この宮﨑さんの功績を讃える銅板碑がどのようにして作られたのか。その当時を知り、銅板碑設置のリーダーだった押川典昭名誉教授にお話を伺いました。

 

 

──銅板碑の製作に至った経緯について教えてください。

 

宮﨑さんが亡くなられた後に、大分県で行われる告別式に弔電を、日本青年館で行われる「宮﨑淳さんを送る会」に生花を贈りたいという報告が大学評議会でなされ、その後行われた報告会の話を聞いて、国際関係学部 国際関係学科主任の臼杵英一教授(当時)が宮﨑さんの功績を讃えるモニュメントを建てようと提案したことで銅板碑の製作がスタートしました。臼杵教授はイギリスの大学に留学していたのですが、イギリスでは大学に貢献した人や目覚ましい活躍をした卒業生を讃えるモニュメントを設置するという伝統があり、本学でもそのようなことを行うことで「在学生に先輩たちの軌跡を知ってもらい、様々な活動に踏み出して欲しい」という理由から銅板碑の製作に対して大学評議会からの許可が下りました。その提案を実現させるために提案者である臼杵教授、宮﨑さんが在籍していた法学部 政治学科主任の穴見明教授(当時)、東松山キャンパス担当副学長であった私の3人に「銅板碑の制作に向けて議論しながら準備するように」と太田政男学長(当時)から提案され、銅板碑にすることや、設置場所は東松山キャンパスにすることを決めました。
銅板碑の製作の際には、トルコ大使館に銅板碑に刻む文言を然るべき人に書いて欲しいと要請を出しました。依頼を出したときは、駐日大使が書いてくれるものだと思っていたのですが、届いた文書を見てみるとエルドアン首相(当時)からの文言があり驚きました。そして、送られてきた文言と学長の言葉、そして宮﨑さんの略歴を刻むことで、今の銅板碑が完成しました。

 

──なぜ銅板で碑を製作したのですか?

 

宮﨑さんの人柄や功績を、永く多くの方に知って偲んでいただき、なおかつシンプルで学生たちの心に残るようなものになって欲しいと考えたところ、石像のように大きいものは劣化しやすく派手すぎるので、いつまでも製作当時の形で残すことができる銅板を選びました。

 

──銅板碑を製作する中で大変だったことはありましたか?

 

そんなに大変だったことはなかったね(笑)。銅板碑製作に関わってくれたトルコ大使館、制作業者さん、東松山キャンパスの職員さんたち、それぞれが宮﨑さんに対しての想いを持っていてくれたおかげで、足踏みをするようなことはなかったです。

 

──銅板碑を製作する過程で印象に残ったことはありますか?

 

設置の許可を取るために宮﨑さんの出身地である大分県のご実家を訪ねた際に、宮﨑さんのお母様といろいろ話したことが印象に残っています。お母様にとって淳さんがとても誇らしい自慢の息子であるという印象を非常に強く受けました。

 

──銅板碑を製作するにあたってどのような想いを込めましたか?

 

第一に宮﨑さんの死を悼むということです。第二に宮﨑さんの活動を顕彰すること、そして大学に設置することで素晴らしい先輩がいたということを知って欲しいという想いを込めました。また、当時は東日本大震災が発生してまもない頃で、学生ボランティアに関心が集まっていたこともあり、宮﨑さんのことを知ることで学生たちの活動に対する励ましになって欲しいという願いも込めました。

 

──なぜ東松山キャンパスの5号館に銅板碑を建てたのですか?

 

当時、ちょうど5号館が建設されたばかりで、東松山キャンパスの玄関口であり、部活動やサークル活動の場所でもあり、学生が一番往来する賑やかな場所である5号館が銅板碑を飾るにふさわしいと思いました。キャンパスプラザに飾るという案もあったのですが、雨ざらしになって劣化してしまう懸念があったので不採用となりました。

 

──5号館にM-commonsという名前を付けた理由、特に「M」に込めた思いについて教えてください。

まず「Common」というのは先ほど話したように5号館は学生が一番往来する共有空間であるということから「Commons」です。それで「M」というのは松山の「M」です。東松山の頭文字をとるとH Commonsとなって納まりが悪いため「M」です。
昔、東松山キャンパスがある場所は松山町だったのですが、市になるときに愛媛県松山市と被らない市名にするために「東松山市」に変わったので「M」でも良いだろうとなったわけです。この「M-commons」という名前は宮﨑さんが亡くなるよりも前に決められていたことなので、イニシャルの「M」が重なったのには運命的だったかもしれません。

 

──宮﨑淳さんについてどのように思いましたか?

 

銅板碑の製作に関わった人間として宮﨑さんの学生時代、イギリスでの勉学、難民を助ける会での活動など色々なことを知っていくうちに「やっぱりすごい人なのだな」と思いました。こういう人が本学から輩出されて、自分の信念を貫いたことに非常に強い感銘を受けました。

 

──銅板碑を通して学生に伝えたいことを教えてください。

 

ボランティアの話でも触れたように、自分たちの先輩にどういう人がいたのか。どういう活動をしていたのかをもっと知って欲しいです。そして、必ずしもボランティアという形の関わり方では無くても、学生たちにはもっと外の世界と関わって欲しいです。学生同士で集まることも大事ですが、宮﨑さんのように外に向かって自分の持っている力や能力を発揮して欲しいと思います。宮﨑さんは本学を卒業してイギリスで平和学という、今、最も求められている学問を学び、それを活かすために国際ボランティアに取り組みました。もちろん宮﨑さんと同じことをしろと言うわけではなく、自分の能力に気付いてそれを活かすために、もっと外の世界を見て関わりを増やして欲しいです。

 

―押川名誉教授が思い描く、100年後の大東文化大学の“スガタ”は?

 

100年後はさすがに分からないし、僕が5年後に元気でいるかも分からないんだから100年後の大東文化大学をイメージするというのは無理があるかな。だからこそ、まずはつつがなく200年目を迎えて欲しいですね。大学を取り巻く環境の変化で変わっていくことはあるだろうけど、建学の精神「東西文化の融合」を忘れずに、大東文化大学は大東文化らしい大学であり続けて欲しいです。学生たちに関しては、どんなときも変わらず健康で元気に過ごして欲しいと願っています。

 

トルコ・シリア地震への募金のお願い

 

2023年2月6日にトルコ南東部のシリアとの国境付近で起きたマグニチュード7.8の大地震はトルコ国内を中心に約4.5万人の死者を出し、16万棟を超える建物が倒壊または大きく損傷し、未だに被害を受けたまま放置された地域が存在しており、支援や復旧作業を必要としています。そこで、被災地への一助となるために大東文化大学でも宮﨑さんが所属していた政治学科が主体となり募金活動を実施します。宮﨑さんの人道的精神に習い、今もなお現地で苦しんでいる方々を救うために多くの方からの募金をお待ちしております。

 

《 募金活動の実施日 》

東松山キャンパス(キャンパスプラザ):4月24日(月)25日(火) 12:25~13:15

板橋キャンパス(中央棟階段下)   :4月26日(水)27日(木) 12:25~13:15

 

 

写真提供:認定NPO法人 難民を助ける会[AAR Japan]


本記事作成にあたり、御協力いただいた皆様に感謝申し上げます。

 

※本記事は100周年記念プロジェクトを学生が取材、発信していく「学生取材企画」によるものです。

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