
辞令専門職として総理府(現 内閣府)へ入府
―卒業後は総理府(現 内閣府)へ入府されていますが、どのような経緯があったのでしょうか。
これも不思議なご縁をいただいた話になります。
経済学部ではゼミに入ってレポートを書くわけですが、当時は授業の出席については寛容な時代でしたので、私はゼミに数えるほどしか顔を出していないわけです。指導教官も「茂住は出席が少ないからレポートを書けと言いたいが、書けるわけがないなぁ」と困っていました。
経済学部なのにマクロ経済もミクロ経済も苦手な学生でしたから。でもその先生が「ところで茂住は、書道部で部長を務めたそうだな」と聞いてきて、経済学部でも、書道部の部長というのは一目置かれるんですね。「じゃ、書道は相当なものなんだな、それなら書道を絡めて提出するように」と言われたんです。そんなことがあるのかって思うほど驚きましたが、嬉しくもありました。
喜び勇んで「文学部の連中に負けないような作品に仕上げたい」と思って、国会図書館へ資料集めに行きました。目的は達することができましたが、何しろ国会図書館は立派な施設で「こういうところで働いている人はすごいなぁ、自分には天地がひっくり返っても無理だよ」、と書道の話題よりそんなことを彼女と話しながら帰ってきたわけです。
それから数週間後に大学の書道研究所から「履歴書を用意しておくように」と連絡が来まして、理由を聞くと総理府(現 内閣府)の辞令専門職に空きが出ることになり、研究所へ一人推薦して欲しいと依頼があったそうです。
「青山先生も承知しており君を推薦する」とのことで、私にとっては青天の霹靂でした。でも青山先生が「行け」とおっしゃるなら二つ返事です。
辞令専門官は定員が二人で、そのポジションが空くというのは本当に稀なタイミングで、私に話がきたというのも、まさに天地がひっくり返るような巡りあわせで、人生における大きな転機となりました。
―辞令専門職とはどのようなお仕事なんですか。
内閣府大臣官房人事課に所属して文字通り、辞令や揮毫を専門に担当します。毎週火曜と金曜に閣議があり、1回で約100件の辞令が出るので月に800件、これを二人で書きますが、当然上司より私の方が多くなります。
毎日、墨を磨って字を書く。この繰り返しです。実は、仕事を始めたばかりの頃は、あまり身が入らなかったですね。もう時効ですから言いますけど、仕事量は多いし決裁が遅くなると残業になるのですが、私は毎日定時で早く帰りたいんです。帰って自分の作品を書きたいし、金曜日は青山先生の稽古があるので、遅くまで仕事はしたくないんです(笑)。
だから残った仕事は、週末の土日に職場に行ってこなしていました。
新元号「令和」を揮毫する
―書家として作品を作ることと、辞令専門職として仕事として字を書くことはまったく違うものでしょうから、葛藤のようなものはあったのでしょうか。
最初の頃はともかく辞令専門職としての自覚も生まれて、「一生懸命仕事をしてください」と心を込めて辞令を書いたり、揮毫したりするようになっていって、上司が退官された後は仕事のシステムを変えようとしたり色々チャレンジもしました。
一方で自分の作品も書き続けて、自分の書というものを探し続けていたんですね。何のための書かというと自分のためなんですが、著名な書家になりたい、上に行きたい、という自分の欲ですよね。若いときはそういう気持ちが強かったのですが、段々と心境の変化が生まれていきました。
自分が生きている意味、生かされている意味というものを考えていったとき、書にここまで育ててもらってきた恩というものを返さなくてはならない。
書道の素晴らしさを伝えていく人間になろうと思いました。そこから葛藤のようなものはなくなりました。
―長年、辞令専門職としてお勤めされましたが、茂住さんといえばなんといっても「令和」の揮毫があげられます。そのエピソードをお願いします。

板橋キャンパス2号館1階の大東文化大学歴史資料館に展示され、どなたでも閲覧することができます。
新元号の揮毫は、再任用の期間中の話でしたが、これは望んでできることではありません。まして平成から令和への改元は、上皇陛下が退位されて、皇太子徳仁親王が即位されるという、それまでのご崩御にともなう改元とは異なりました。
様々な背景があって、私がそのお役を務めることになりましたが、正式にお話をいただいたときは割と冷静に受け止めることができました。
ただ発表日の3、4日前の帰宅途中の電車内で「もし書けなかったらどうなるんだろう」と恐怖というか、強いプレッシャーを感じたことを記憶しています。書けない、というのは国民の皆さんに受け入れてもらえない字を書いてしまったらどうしよう、という思いですね。
しかし、当日、当時の菅官房長官が「令和」という墨書を掲げて新元号を発表したとき、新しい時代が始まる空気に包まれたことを感じてほっとしました。
何よりも日本中が注目した行事であり、その「令和を書いた人」、というキャッチフレーズは私を物語るうえで分かりやすいし、退官後の活動においても活かさせていただいています。
私を育て、生かしてもらった大東文化大学
―退官後も積極的な活動をされていますが、今、大東文化大学での学生時代を振り返るとどんな思いがありますか。
大学に入って書道に出会って、青山先生と出会い、一生懸命に取り組んで、部長も務めさせてもらい、その活動を評価していただいて総理府(現 内閣府)へも推薦していただいた。
実は50代で書家として独立するために、退官を考えたこともありました。書家というのは決まりがあるわけではないのですが、基本的にフリーなんですね。私のように仕事を持っている人はほとんどいません。
だから退官して書道一本でいこうと考えた時期があって、最終的には役所勤めを選んだわけですが、大学から推薦をいただいたんだから、という思いも心のどこかにはありましたね。
私を育ててもらい、生かしてもらったのは大東文化大学ですから、感謝しかありません。私の原点があります。全国に大勢いる書道部の卒業生たちがそれぞれの県で「県人展」などを開催していて、そのつながりをつくることをはじめ、大学に恩返しできることがあれば何でもやらせていただきたいと思っています。
―書道部に限らず大学の卒業生や現役生へのメッセージをお願いしたいです。
始めに言ったように、私自身は若いときに目標をずっと持てずにいました。目標や夢を持ちなさいと先生は言うかもしれないけれど、そんな簡単に見つかるものでもないでしょう。
現役生や若い人に対して言いたいのは、今、目標や夢がなくてもいい。
たとえば好きなことがあったらそれを少し掘り下げてみる、大事にする、そこからスタートすると見えてくるものがあるかもしれないということ。
それは途中で変わってもいいんです。私の同級生も書道が好きで入って、真剣に書と向き合ったわけですが全員が書家や書道の先生になったわけではない。
でもそれは挫折ではありません。道が変わっていくだけのことです。色々な人と出会って、色々な経験をして、考え方が変わって、なりたい自分が変わってくる。特に大学は可能性の場所だから失敗を怖れずにチャレンジして欲しいです。
漢字文化の魅力、手書き文化の素晴らしさを伝えていく
―退官されてから現在まで国内外で積極的に活動されています。書道の文化的価値、魅力をふまえて、今後のどのような活動を行いたいと考えていますか。
漢字は中国で生まれ、そのプロセスにはすべて意味があり、魂が宿っています。篆書、隷書、草書、行書、楷書という5つの書体があり同じ字なのにスタイルが異なり、それぞれに歴史的な意味がある。
しかし中国で今使われているのは簡略体です。漢字を今に伝え、活かしているのが日本の書道なんです。書道はその文字に、書き手の思いが的確に伝わって表現される。
上手い下手ではない手書きの素晴らしさがあると思います。私は手書きの文化を残していかなくてはならないと思っています。
退官後はかねてより考えていた通り、こうした書道の手書きの良さ、漢字の面白さというものを伝えるための活動を続けてきました。ですから創作よりも普及がメインになっています。
各地の学校、施設などでの特別授業や講演活動などに取り組んでいるのもその一環です。また書道界を挙げて、ユネスコの無形文化遺産へ登録するよう運動を続けているのもそのためです。小学校でも大使館でも、外国でもオファーがあればどこへでも出かけていきます。
欧米でもアジアでも書道はとても好意的に、関心をもって受け入れられます。たとえばヨーロッパの方は書道の「白と黒」で表現される世界に魅力を感じるようです。
去年は日本一周のクルーズ船に乗船し、寄港地で書道を通した文化交流を行ったのですが、好評いただき今年は世界を巡るクルーズ船に乗り、外国の寄港地で文化交流を計画しています。このように新しいアプローチでの活動にもどんどん挑戦しながら、今後も国内外で書道の魅力を広めていきたいと思っています。
