市・市場:韓国の定期市

市・市場:韓国の定期市

新納 豊

夏場の市は、はなからからっきしあがったりで、陽はまだてっぺんにあるというのに市場にはもう人影もまばらで、暑い陽射しが露店の日被いの下にじりじりと背中を焙るばかりだ。村の者たちはおおかた帰ったあとで、売れ残った薪売りたちが通りにうろうろしていたが、石油の一瓶か魚の二、三尾も買えばこと足りるこの手合いをあてにして、いつまでも店をひろげている手はない。しつこくたかってくる蝿の群も餓鬼どももこうるさい。あばた面で左利きの、太物売りの許生員はとうとう相棒の趙先達に声をかけた。

「たたむとするか」

「それがいいや。蓬坪の市じゃ一度だって思うように売れたことがありゃしねえ。あしたの大和の市でひともうけさせてもらわにゃ」

「今夜は夜通し歩き通さにゃなるまいて」

「月がのぼるだろ」

…(中略)…

太物の市廻りをはじめてから二十年にもなるが、許生員は蓬坪の市を欠かしたことはめったになかった。忠州や提川などの隣の郡にも出かけたり、遠く嶺南地方にまで出まわることもあったが、江陵あたりに品物を仕入れにいくほかは、はじめから終わりまで郡内を廻り歩いた。五日目ごとの市日には月より正確に面から面へ渡っていく。くには清州だと自慢げにいってはいたが、くにに帰ったことはありそうになかった。市から市へ渡る途中の美しい山河が、彼にとっての懐かしいふるさとだった。

李孝石「そばの花咲く頃」(1936年)より

1.定期市の歴史

朝鮮における市場の文献上の最古の記録は、A.D.490年、三国時代新羅の都であった慶州に開設された市についてのものである。「初開京師市騨以通四方之貨」(『三国史記』新羅本記、第三)。おそらくこれ以前にも自然発生的な市が各地に生まれていたものと思われる。

しかし、市がそれなりの規模を備えて機能し始めるのは、国家体制が整備された高麗時代以降のことである。高麗時代の経済は多くの農民や商工人を隷属させた寺院と貴族によって運営されており、とくに仏教の隆盛で寺院経済の発展はめざましく、農業部門のみならず手工業や水産業さらには金融部門にまで手を広げて富を蓄積した。市は城邑(地方中心地)を中心に広く全国に展開を見せた。

李朝前期には休閑農法から連作常耕農法へという農業生産性の上昇に伴い、南部地方では定期市が農村部に展開し始めた。こうした農業発展は李朝後期にも持続され、水田における田植法、旱田における二二年三作法の普及、および農牛飼育の普及は、農耕地の外延的拡大をもたらし、新規集落の形成を伴いつつ、農業・農村の開発の時代を迎えた(韓国の現存集落の過半数は15~18世紀に成立している)。封建支配層は当然のごとく収奪の強化・拡大を計り、「無名雑税」、「苛敏諌求」が横行したが、国家的収取体制としては、それまでの複雑な賦課体系を地税へと集中し、国家財政運営を一元化させる方向で再編成され、経済活動は全般的に活性化された。

17世紀から18世紀にかけて定期市は国土全域に分布し、どの地域の住民も1日で往復できる距離内に市を有するようになった。商品貨幣関係の発展は商業資本を成長させ、既存の国家的・領主的流通に基盤を置いた特権的商業機構との問に多くの摩擦を引き起こしたが、やがてそうした特権をつき崩していった(「辛亥通共」1791年)。18世紀前半までの定期市は、それぞれの地域で孤立・分散的に機能し、いまだ市場間に相互の連携関係は見られなかったが、18世紀後半になると地域的な連携関係を深めつつ、地域内の各市場は大市と小市とに分化しながら市場網の階層化が進み、やがて全国的な定期市のネットワークが形成されるに至った。18世紀後半から19世紀末にかけて、全国の市場総数は内部に消滅・新設といった変動を含みながらもほぼ1000ヶ所で推移しており、市場圏の空間的配備においては安定的な段階に達していたと言えるだろう。

こうした李朝末期の安定的な定期市ネットワークは1876年の開港(開国)に伴う世界市場への編入によって大きく変動する。対外貿易の拡大は、当初は定期市ネットワーク上の物流の増大と開港場を拠点とする流通ルートの再編であり、やがて特定品目(コメ・大豆・棉花などの輸出商品)から次第に市場外流通、すなわち定期市を経由しない流通機構の形成へと進展する。さらに植民地期の行政体系、産業政策に伴う都市化の進行と交通の発達は、ソウル・釜山などの大都市圏はもとより地方の中小拠点都市における常設店舗増大、常設市場化を進展させ、国内総取引に占める定期市取引の比重を低下させる。しかし農村部においては、植民地期を通じて店舗商業は微々たるもので、商取引の大部分は定期市での取引が占めていた。こうした農村部における定期市取引の重要性は、解放後の韓国においても1960年代までは持続した。

2.韓国定期市の現況

2-1定期市の分布

第1表によって全国的な定期市の数的増減を見ると、解放、朝鮮戦争を経た50年代・60年代を通じて定期市は急速に増加し、1970年前後を頂点として、70年代には微減、80年代以降になると急速な減少傾向を示している。この傾向は道別で見てもほぼ同様の傾向を示している。参考に掲げた1938年の水準には50年代の戦後復興期を経過した1960年頃に復帰し、経済成長の始動期である60年代には更なる拡大を続けた。輸出志向型として知られるこの経済成長は、やがて国内商業の面でも供給面での物量拡大と需要面での消費構造の質的向上へと向かい、70年代には流通経済の近代化が進んだ。70年代以降の定期市場数の減少には全般的な社会変動に伴う多様な要因が複合的に作用しており、別途に詳細な検討が必要だが、ここでは一般的な要因にのみ触れておく。

1)都市化による農村人ロの減少

1960年の都市化率(総人口に占める都市人口の比率)28%は、1970年41%、1980年57%、1990年75%と推移し、1960年の農村人口1800万人は1990年のllOO万人へと絶対的にも減少した。大都市・地方都市への人口集中はもとより、新たな市域への昇格も含めて地方でも市域は拡張され、これらの地域では商店街の整備、常設市場化がすすんだ。

2)道路・交通手段の発達

1970年代には高速道路網の整備により全国が1日生活圏に組み込まれるとともに、地方道路の整備も進んでバス輸送・トラック輸送が普及した。とくに70年代末から80年代前半にかけて、全国的に郡庁所在地を起点として郡内のすべての里・洞を結ぶセマウルバスが運行されるようになり、農村の交通事情は急激に好転した。これにより郡庁所在地に立地する定期市は規模を拡大させ、その周辺の市は縮小ないし閉鎖に追い込まれる現象が現れる。

3)流通機構の近代化

70年代に入ると、政府も国民経済の拡大基調に即応するための流通政策に着手し、都市部を中心に流通機関の大型化・統合化・専門化が進められた。地方の中小都市にも百貨店・ショッピングセンター・スーパーマーケットなどが進出するようになり、消費パターンの高度化に対応する専門店も増加した。また1971年から農協チェーンストアが農村の邑・面単位で設立されはじめ、一般常設店舗も増加した。こうして農村部においても定期市網を通じた流通の比重は顕著に減少した。

4)農業の商業化と農産物流通機構の変化

60年代後半からの産業化・都市化の進展は、農業の商業化を誘発した。少品種に特化した農業生産団地や大型畜産農家の出現など、これまでの小農的・自給的農業から市場志向的な農業へと移行し、農産物の商品化率は著しく増加した。これに伴い、流通機構面でも農協系統出荷や都市卸売商への直接出荷、あるいは農家訪問蒐集商に販売する比重が相対的に高まり、各種農産物が定期市場を通じて流通する比重は大きく下がった。

2-2市の定期性

定期市は単にある市が定期的な周期を持って開市されているという事実のみを言うのではない。より重要なことは、一定の空間に散在する一群の市が定期的な周期のもとで連携し、その地域の需要と供給を合理的に結びつけつつ配置されていること、すなわち定期市網(ネットワーク)として存在することにある。したがって市の定期性を考える場合には、定期的な周期を持つことの意味と同時に、定期市網としての連携についても考慮する必要がある。

これについては、販売者および購買者の双方から説明される。定期市を巡回する行商人の立場から見ると、交通の未発達な状況において人口密度の低い農村部の需要が、定期市によって特定の場所と日に集中され、さらに一連のつながりを持って配置されておれば、これらの市を巡回することによってはじめて生計維持が可能な需要を確保することができる。言い換えれば、商人が移動するのは、ある特定の市の市場圏が有している需要の総量が、商人が存続し得る水準におよばないからであり、また移動が可能となるのは、そのように定期市網が時間的および空間的に調節されるからだと言えよう。

購買者の立場から見れば、必要な財貨やサービスを入手するために、常設店舗がある都会まで出かけるよりも近くの定期市ですませられるという利点がある。もともと農家は自給的領域が大きかったし質素倹約の消費慣習を有しているので、毎日市場に出かける必要もなかったし、大量購入や特別なものが必要な場合(たとえば冠婚葬祭のような)を除いて、日常の必要品は最寄りの定期市で入手することができた。つまり時間の制約に従うことによって空間の制約から解放されたのである。

韓国の定期市は少数の例外を除いて5日毎に月6回市が立つ六斉市である。彼らはこれを五日場(オイルジャン)と通称している。たとえば1・6市であれば、1日・6日・11日・16日・21日・26日が市日となる。こうした市が1975年頃に標準的には半径8~12km、山間部などでは12~16kmの市場圏をもって分布している。これは徒歩でも1日で十分に往復できる距離である。農家は通常は特定の市を主に利用しているが、必要があれば少し足をのばせば2ヶ所ないし3ヶ所の市を利用することも可能である。

第2表は1975年の1市場当りの市場圏の大きさである。全国平均で見ると、1市場当りの邑面数は1.45個、自然部落(日本の自然村に当たる)数は61.5部落、市場圏面積は91.55k㎡、戸数は3267戸、人口は1万7512人である。

2-3階層構造と機能

定期市網における市相互間の連携には空間的・時間的調整と並んで、市の階層構造とそれに伴う機能分化という問題がある。一定地域に分布している定期市群には、少数の大きな市と多数の小さな市が観察される。中国・四川省の定期市を中心に分析したスキナーは、これらを標準市場(standard market)、中間市場(intermediate market)、中心市場(central market)という3階層に区分し、それらはそれぞれ低次機能のみを持つ市と、高次機能をも合わせ持つ市とへ分化しているとした。韓国の諸研究でも、この見解がほぼ踏襲されつつ多様な階層区分の指標による個別地域の実証が試みられ、韓国の定期市網がほぼ3階層からなることが確認されている。

全国的な定期市網の階層区分は金成勲『韓国農村市場の制度と機能の研究』(1977年)によってなされている。彼は1975年に行った「全国場市センサス調査」のデータに基づき、各市場の「1日当り平均取引額(家畜市場除外)」を指標として階層を区分し(第3表参照)、それぞれ以下のような機能を認定している。

100万ウォン未満の零細市場(marginal market)が全体の28.7%も占めており、これらは開市されて間もないか、あるいは隣接する大きな市場ないし常設市場に次第にその経済圏を奪われつつ辛うじて存続している場合に該当する。

100万ウォン以上500万ウォン未満の基礎市場(standard market)が全体の過半(53.4%)を占めているが、前記零細市場の発展的なものとともにマーケッティング・マップ上の基礎市場圏を形成している。これらは大概30~60余個の自然部落または1~3個の面を単位としてその地域住民の基本的市場需要を解決している。いわゆる中級市場(intermediatemarket)に該当する取引額500万ウォン以上1000万ウォン未満の市場は全体の12%程度で、地方の都邑地(郡庁所在地)または交通上の要衝地に所在し、大都市市場または中心市場(centralmarket)地域との橋渡しの役割をしている。常設店舗や商店街が相当に発達している。

最後に、常設市場化しそうな取引額1000万ウォン以上のいわゆる中心市場が4.7%を占めるが、このほかにもこの表に含まれない多数の大消費地および農水産物卸売市場などまで合わせれば、中心市場の数はさらに多いものと思われる。

ここでの「零細市場(marginal market)」は、「基礎市場(standard market)」のいわば過渡的な姿と認められ、全体としては3階層をなすものとなっている。

また、慶尚北道尚州郡の1972年実地調査に基づく柳佑益「韓国の定期市場に関する地理学的研究」(1972年)の分析では、郡内各市の「市場圏の大きさと市場圏内の人口」を指標として3階層が抽出され、それぞれ小市場(Minor Markets)、中間市場(lntermediate Markets)、および中心市場(Central Markets)と命名されている。それぞれの機能は以下の通りである。

中心市場:小都市で常設商店街と併存し、卸売機能を持ち、上位の大都市と定期市場を連結する役割を果たす、市場は都心内部に位置し、市日には市街地の常設店舗も平日の3~10倍の売上高を持つ。「テモクジャン」と呼ばれる名節場や冠婚葬祭のためには大部分の消費者が中心市場を利用する。

中間市場:規模においても機能においても中心市場と小市場の中間的位置を占め、市場を構成する商人は常設店舗の商人と、中心市場に常設店舗を持ちながら中心市場を含む3~4ヶ所の周囲の中間市場を開市日程に即して巡回する商人など、その構成は多様である。

小市場:中心市場の卸売商から商品を購入して小売りし、移動店舗の比重が大きく、常設・移動商人を問わず商人の兼業比が高い。

これら2つの階層区分は、それぞれの階層の機能面での位置付けはおおむね一致しているが、調査年次・区分指標の相違から、当然のことながら個別の市についての階層評価は異なる。柳佑益は尚州郡内にある17基の市を、中心市場1基、中間市場5基、小市場11基としたが、金成勲の指標では、調査対象となった16基が中心市場1基、中間市場2基、基礎市場13基となる。ただ、両者に共通するのは郡という行政区域内に地域中心的な市(この場合は尚州市)を頂点とする3階層の階層構造を持つ地域的な市場圏が示唆されている点である。金成勲の報告書には全国の個別市場についての詳細なデータとともに、それらの階層区分をマッピングした地図が収録されているが、ほぼ郡庁所在地を中心とする(階層としては中心市場とは限らないが)こうした地域的な市場圏の存在が読みとれる。郡庁所在地は現行の行政区域としての邑、すなわち相当の市街地を有する人口2万人以上の地域であるが、その多くは李朝時代以来の地方行政中心地としての「都邑地」であって、その市は長きにわたって地域経済の中心地でもあった。これに関連して、「市場圏の境界は行政区域の境界と相当に密接な関係を見せており、この点は定期市場が城邑市を中心に発達して行政中心地的機能が階層形成に大きな役割を果たしたという点と、行政区域自体が地形を中心に決定され、長期にわたって定着することによって定期市場とともに生活圏を形成する大きな要因となっている」という柳佑益の指摘は重要である。

2-4市の利用者

ここで筆者の慶尚北道高霊郡高霊邑での1990年冬の調査から、市の利用者について見ておこう。農村地域の市の景気は農業活動と関連して季節的に変動する。利用者が最も多いのは旧正月と秋夕(旧暦8月15日)、そして農閑期の2月、9月、11月であり、農繁期の5月、6月、10月が最も閑散としている。

市日には早朝から近隣の農家が市場に農産物を運ぶトラクターの音が鳴り響き、朝食を終えた市街地住民も何となくそわそわしてくる。市場では午前8時頃から店舗商人たちが開店の支度をはじめ、やがて場屋の商人が顔をそろえはじめる。自家農産物を売るために出市する農家の出足は早く、すでに市場のそこここで集荷商人と交渉する姿も見られる。9時をまわった頃になると、市場周辺の路上は主に衣類、洋品、雑貨などの露天商に埋め尽くされる。市街地住民が買い物に訪れるのもこの頃からである。しかし市利用者の圧倒的多数は、やはり村々からやってきた農民である。市は11時から午後1時頃をピークとし、4時過ぎには嘘のように閑散とする。

市の利用者は大・小の商人と周辺地域の農民、そして市街地の住民で構成される。市街地の住民は日常的には定期市とは別に農協の裏にある中央市場(常設市)を利用しているが、やはり商品の出廻りの多い市日には定期市に足をはこぶ。高露市を利用している農民の居住範囲がどの程度の広がりをもつのかについては未調査だが、市日には市はずれにある市内バスの停留所は午前9時頃から混雑し始める。市内バスは郡内をほぼカバーしており、市利用の農民は徒歩でなければバスでやって来る。

商人には販売を目的とする商人と集荷を目的とする商人がおり、後者は主として大邱の商人である。彼らは主に穀物およびニンニク・トウガラシ等の特用作物を買い付けるが、こうした集荷商の数は近年めっきり減っているという。 販売を目的とする商人は、また卸売と小売とを兼ねる商人と小売だけの商人に分けられる。卸売と小売を兼ねる商人は市場内に固定店舗をもっており、またしばしば市場外にも店を構えている場合がある。業種でみると衣類、履物、乾物、穀類、冷凍魚等であり、彼らの仕入れ先は大半が大邸、そして釜山・ソウルである。小売商は地元の商人と他地域から来る商人がいる。地元商人の多くは場屋に権利を持っており、一部は専業の商人だが、2、3の市で商いをするほかは農業をやっている半農半商の兼業の人も多い。場屋には穀物商が多いのだが、彼らはその穀物の大半を自分の村や近隣の農家から仕入れ、一部を他地域の穀物商から仕入れている。

他地域から来ている小売商は場内にも見受けられるが、その大多数は場外の路上に展開する露店商たちである。業種は多様だが、やはり衣類と雑貨が多い。大半は大邸に常設店舗を持ちながら、夫婦あるいは兄弟で分担して市を廻る行商を並行している。ある衣類商の話では、10数年市廻りの行商をやってようやく大邸に小さな店を持つことが出来たが、いまだに小さな店舗で客を待つよりも市廻りの売上の方が大きいからやめられないとのことであった。

さて、市利用者の圧倒的多数は農民だが、それも40代以上の女性が大半を占める。都市化に伴う農村人口の老齢化は、市に限らず農村部ではごく日常的な風景となっている。かつては儒教的な観念、あるいは販売のための農産物運搬のためもあって、市に出かけるのは主に男性であった。1964年のある市場での調査では、67%が男性であった。それが1975年の設問聴取調査では、「家族構成員中、男子と女子の出市比率は455対54.5」である。また1976年のある調査では、女性の比率が80%以上といわれる。もちろん、市場では男性も多く見かけるが、所在なげに婦人に付き添っているか、市の片隅にある簡易食堂で久しぶりに出会った友人たちとおしゃべりをしている場合が大半であって、実際に売買行為をしているのは女性である。

表1::韓国定期市場の道別分布(1938~1992年)
道別1938年1950年1960年1970年1975年1980年1988年1992年
京畿道102759410483705149
江原道14849607367615944
忠清北道6252607970646845
忠清南道88891031141091037662
全羅北道6246536967605152
全羅南道1088297159150142132118
慶尚北道169131186199206211170150
慶尚南道144129154174182173129108
済州道1219192518161615
895668826996952900752643

(出所):1975年は金成勲『韓国農村市場の制度と機能の研究』198頁。
1992年は韓国都市行政研究所『全国統計年艦1994』。
1938年は文定昌『朝鮮の市場』巻末付表。
その他は商工部資料。

表2:全国定期市場の1市場当りの市場圏(1975年)
道別市場数邑面積自然部落数市場圏面積(k㎡)戸数人口
総計1市場総計1市場総計1市場総計1市場総計1市場
京畿9619526,86871.510,086105.06461,8424,8112,338,60524,360
江原741111.56,06381.915,507209.55276,2593,7331,444,30419,518
忠北731041.45,60776.87,28299.76221,7513,0381,223,77916,764
忠南1171791.58,05468.88,58673.38422,2163,6092,344,01720,034
全北741622.26,79691.87,886106.57334,4594,5201,872,74625,307
全南1532311.59,09559.411,69676.44533,3513,4862,945,42419,251
慶南2162511.210,72270.119,227125.66585,4343,8263,111,82020,339
慶北1972271.28,88945.111,36657.69428,4462,1752,269,89811,522
済州18130.747726.51,56887.0962,0403,447276,72215,373
全国1,0181,4731.4562,57161.592,20391.553,325,7983,26717,827,31517,512
(出所):金成勲「韓国農村市場の制度と機能の研究」1977年、252~253頁より作成。
備考
:1)休市中の市場66ヶ所を含む。
:2)家畜単独市場は除外。
:3)ソウルと釜山を除く。
表3:全国定期市場の1市場当たり1日平均取引額別分布(1975年)
 京畿江原忠北忠南全北全南慶北慶南済州全国(%)
100万ウォン未満35291627132647667266(28.7)
100~250万ウォン24242630153465569283(30.6)
250~500万ウォン16131932195541242221(22,9)
500~750万ウォン52256182313074(8.0)
750~1㎜万ウォン0132741110038(4.1)
1000万ウォン以上422125594144(4.8)
8471681086514219617319926(100.0)
(出所):1)金成勲『韓国農村市場の制度と機能の研究』1977年、202頁。

初出誌情報

新納 豊1996「市・市場:1.韓国の定期市」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第6号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.104-111.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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