葬儀:インドネシアにおける華人の葬式

エディ・ヘルマワン

現在インドネシアに住んでいる華人は約500万人で、インドネシア全人口の3パーセントを占めている。インドネシア国籍を持つ華人が大多数で、無国籍(台湾籍)または中華人民共和国国籍の華僑は1991年の時点で、推定30万人が居る。

華人と華僑は、イスラム教、キリスト教の信仰者以外、一般に、福建、広東、客家、長江、黄河流域などの仏教伝統文化による葬式を行う。葬式が時代に伴って、幾分変化してきたにもかかわらず、今日まで継承されている。

しかしながら、現地の自然環境及び風俗の深い影響も否定できない。

オランダ政府時代からの葬式サービス業は洪門の洪義順(のち新義順)と同郷会の和合会などが経営していた。日本軍政期には会員制で華僑総会の「喪事組」に所属した。独立戦争の時代にもそのように行われていた。1965年の9.30事件後、今日まで、華人と華僑団体はすべて解散させられたが、互助会のような「喪事組」は「宗教」の団体に置かれるので継続できる。いうまでもなく、経済力の弱い華人にとって合理的、良心的な費用の葬式は大変結構だと私は思う。

葬式を行うために、まず死亡証明書を担当の医者から貰って、現地の区役所を通じて、市役所と警察署の許可を得なければ、あとで罰せられる。

本稿では、仏教信仰の華人の葬式を述べたい。

臨終後に、死者の頭を布で覆ってベッドに安置される。夜なら、部屋内のガラスに全部白い紙を貼ってから、朝まで待つ。「喪事組」の担当者(ほとんど現地の従業員)が、床と帳を持ってくると、家族が皆手伝い、死者を運んで、前庭の床に置いてから、担当者によって死体が洗われる。そして、霊壇を作り、死者の遺像が壁に掛けられるか、または霊壇の上に飾られる。霊壇に中国、香港、シンガポールから輸入した茄楠線香と赤い蝋燭が点火される。門には白いBelacu布の簾を掛けることが必要である。簾から死者の性別がわかる。一面のは男子で、真中に二つのは分けられるのは女子である。屋外両側の窓戸に、いくつかの×印のように白い紙切れを貼る。このようなものは、近年も忌引中家の前にまだ見られる。しかし、西部ジャワの一部分の華人集中居住地域のTangerangなど以外の地では、門の西側の白いちょうちん(灯籠)がすでに消滅してしまった。ちょうちんに死者の氏名だけ墨で書いてある。

家族、とくに氏族の互助堂、通称祠堂、例えば李氏堂、王氏堂、温氏太原堂(華人二世は改名しても、福建、広東の郷村にまだ繋がっている氏族の名称は依然として存続する)などの訃報が華字紙やインドネシア語紙に載せられる(注1)。三世以上の華人は中国の郷村に無関係だから、訃報がインドネシア語新聞にだけ登載される。

棺が運ばれて来ると、家族の人々は、もう喪服(白いゆかたと白い三角形の帽子)を着て、前堂に集まる。適時を選んで、入棺の準備をする。棺の蓋に釘を打つと、すぐ働実の声が聞こえて来る。

棺は種類が多いが、厚いのが貴いとされる。以前は、柚木(kayu jati)で作られるが、最近は柚木は少ないと同時に、値段も高すぎるので、別の木材で作られている。

棺は褐色または濃い赤い色である。棺に絵をかくことも欠かせない。大方は天に昇る仙女の綺麗な絵で、「天国に安らかに永眠」という深長な意味だろう。

一般には、三日間の葬式が行われる。入棺後、日本のような通夜と告別式はない。お客さんは朝から夜まで弔問できる。三日の場合、三日目に出棺の日になる。

一日目または二日目に、「輓聨」(青色と白い色、あるいは銀色の漢字の布)(注2)を送る人が少なくない。家族はこの日に、棺の後方、死体の頭の後に、交替にひざまずいて、弔問客に答礼を行う。

弔問客が茄楠線香(一本)を捧げる。霊前に上げる白い封筒の香典に死者の氏名を書く。例えば、「某々先生千古、哲人其萎 某々敬輓」。インドネシア語は"Turut Berduka Cita"、そして弔問客の名前。香典は直接喪主に差し出される。遠方の人は、弔問に間に合わないときは、インドネシア語紙か華字紙に載せる。弔問客は辞去すると、赤線を貰う。

花は色の薄い方が普通で、白いカーネーション・リリなどである。日本のように、花を送る人の氏名は目立つことはまずない。

通夜をするとき、賭博(紙牌=紙製の骨牌、カルタ)をすることがある。政府はこのような行為は奨励しないが、屋内行為として、許可される。そして、仏教信者は「齋庵」の尼さんを呼んで、読経を行わせる。しかし、読経の値段は決まらないが、決して安いものではない。そして、尼さんの読経の内容について、私が聞いたとたん“変”またはおかしいと言いたいぐらい。この二晩目の読経は、“斎渡”(中国語:超渡霊魂)という。しかし、死者の氏名と職業をお経の中に入れるが、何回も入れ込むのは不自然である。死者の氏名は最初の時に読むなら納得できる。紙で作った車などを、二晩目、読経が終わってからすべて焼却する。これは、華人葬式の浪費の一例と言えるだろうか。

最近では、葬式が自宅では行われない。一部の病院では、出棺の日まで、安置する。この場合、葬式は簡略化され、日数も短縮される。昔は、家族の年齢のめぐり合わせ問題によって、納棺と出棺の参列は禁止される人も居た。しかし、最近はあまり気にしないらしい。

いよいよ易の専門家によって決められた出棺の時間が来ると、まず長男が死去した父親または母親の遺像を胸に掛けて、両手で香炉を持ちながら、霊枢車の前に歩いて先導する。十字路に着くと、道路中心に一つのパパイヤを地面に強く投げて潰してから、大きい霊枢車に乗せ、墓地に参る。近年は、直接喪家から、霊柩車に乗って棺のまわりにひざまずいて、墓地へ行く。勿論パパイヤを潰すことも廃止された。

墓地、例えば、バンドゥンには仏教とキリスト教の一派二ヶ所がある。一番広いのはバンドゥンの東部のCikadut(芝牙律)(注3)墓場である。

土地は、事前準備しない場合、二日目に、家族は墓場へ行って、交渉して買えるが、あまり急な場合は「風水」のいい場所があるかどうかはわからないから、前もって買った家は得である。

40年前に、バンドゥンのCikadut墓場の玄関(大門)の西側に、中国語の聨(夕陽と黄昏を意味するもの)が書かれたが、現在はなくなった。

埋葬された後の三日目の早朝、家族はお墓に集まる。焼香するという礼俗はいまも行われている。

以前に、父親また母親が死去した後、一年間喪服または喪章をつける。中国語で言えば帯孝tai hau, dai xiau, tua ha。その時期に息子と娘は黒い腕章を付ける。のちにひと切れの黒い布に変わった。父親の場合は左腕または左胸、母親の場合は右腕または右胸に。現在はほとんどしない。

葬式に参列者の服装は、熱帯のため、男性は白い外シャツと白いズボンが普通である。女性は青いスカットと白いブラウス。または現地の服装の白いブラウスと青いバティク。金銀のような飾り物は付けない。しかし、時計などは、必要なので、持っても構わない。

お墓を建てる時間は限定されないが、大抵死後数カ月後。前述したCikadutの墓場で、立派なお墓の方位は決まっておらずメチャクチャ、中国語で言えば「乱七八糟」で、インドネシア語で言えば、“kacaubalau”である。お墓の石碑に刻まれた文字がローマ字があることはあるが、ほとんどは漢字である。Cikadutのお墓は「風水」にたよるものという。一方、キリスト教の華人墓地は、「無名英雄」墓地のように、きちんと並んでいる。

インドネシアの華人の寺に、極く少数の住職の「圓寂焚化」後、「骨灰」(舎利子)が寺に安置される以外、日本のように寺のうしろ、または左側、右側の霊場はない。それに、華人は火葬はあまりない。土葬が普通である。

華人葬式の出棺の音楽は40年前の1940年頃は、簫(ふえ)という音楽、または悲しい仏教音楽が聞こえる。が、今は何もない。静かな雰囲気である。簫ということばは、“消”と同音である。客家語の“Siau nag tsai”、実在は?語(アモイ語)の“人”(lang, nang)から引用した語彙で、福建語の“si liau liau, si=死 liau=了”と同様、忌引の家に対し、失礼であり、使わない。“?皮話”(シャレ言葉)である。

また50年も前、ジャカルタで、氏族の祠堂では、一年ごと、祭礼が行われる。先人たちの牌位(木に書いてある氏名)を祠堂に並べて、漢文の祭文「維……年……尚饗。」と読み上げるという祭典があった。時代の発展に伴って、消えてしまった。

冠婚葬祭は世界のどこでも、丁重に行われている。とくに葬式は人間の「生老病死」の最後の時期で、日本は「最期」と、中国は「大去之期」と、インドネシアは“tutup usia”という。葬式は中国語の「葬礼」にあたる。礼俗にかかわるものであろう。

また、華人はできるだけ葬式を盛大に行うこと。いわゆる「生栄死哀」にぴったりである。そして、できるだけ「虚齢」を書き、高寿し(還暦、古稀、喜寿、米寿)に達することを希望する。

インドネシアの華人は「寿衣」(死体を着かせる衣服)「寿板=寿木=寿材」(棺)ということばを使う。寿板の下に蝋燭を点火し、明るい道へ響くこと。陰門は暗いので、出きるだけ「陰陽両隔」のへだたりを短縮するようという華人の希望からでたものである。

Kemegahan di Ciladut

人間にとって貧乏は辛いものだから、死後も貧乏を避けるよう、家族の力で「紙銭」をお墓にまき散らすこともこの意味だろう。

華人の盛大な葬式及び立派なお墓はインドネシアの一部地域にはまだ見られる。しかし、最近政府の要請もあるので、節約及び簡素の方向に進めるべきであろう。「子欲養而親不在」という気持ちがわかる。が、現地人の感情的配慮も必要だろう。

葬式は「死別」、「永別」の時期なのである。この悲しい時期を乗り越えられれば、人生としての試練に堪えるといっていい。

子供が結婚直前に、父親また母親が急死した場合、服喪期間が一年から三年間という長きにわたるので、葬式前に簡単な結婚式が行なわれる例があるが、稀である。

Kemegahan di Cikadut 訃報

(注1)訃報の文例:

家厳(家慈=母親)、先室(妻)、慟於 年 月
日 時寿終正寝享年(寿) …歳…有…不孝男女
随侍在側親視含?茲涙?於 月 日 時 出殯
發引還山卜葬於芝牙律文字場之陽恭属
世
友 誼
戚 謹   聞     男 ○○
親 此          女○○  同泣叩
族 訃

        司書祖免 ○○  頓首代告
治喪?:万隆燕興堂

(注2)朝朕の文例:

福寿全帰、竹林仰止、徳高望重
同表哀悼 永在懐念中 など

(注3)Cikadut墓場の写真
1991年2月7日バンドゥン「人民思想報」所載

バンドウン墓場の壮観

観光収入源を増加するために、シンガポールは明朝時代の小規模建物を建設している。アジアの観光客は中国へ行かなくても、そこで観光できるようになった。莫大な費用を掛けて建てたあの小規模の明朝の建物はバンドゥンのCikadut墓地でも見られる。

初出誌情報

エディ・ヘルマワン 1993「葬儀:5.インドネシアにおける華人の葬式」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第3号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.159-161.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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