酒物語:西アジア―酒の賛美

小笠原良治

盛んなりし酒の宴

言うまでもなく、酒の歴史はアラブでも古い。それはイスラームが起こる以前のジャーヒリーヤ時代から存在し、半島の生活の諸断面を活写して今日に伝えられるジャーヒリーヤ詩の中に数々うたわれている。

アル・アァシャー(-629年頃)は

 盃は雄鶏のごとく澄みわたる、朝まだき、
 友とわれ、酒場の扉叩き訪ねて
  ()き酒に憂き身沈めん
 名酒あたかもサフランまたアンダマ(1)
 ()中清く静まりて芳香を漂わす
と酒を賛美し、ラビード(560年頃-661年頃)は
そなたは知らぬや、そよ風の肌に心地よき夜々
 われ友と美しきひと時過ごせるを
 酒場に(しるし)のぼる頃われらそを訪いて
  夜もすがら飲み語り
 黒き壺に年()りし千金の美酒
  そを求めて友らにふるまう

酒場とは言ってもテント小屋である。戦いに明け暮らした若きジャーヒリーヤの戦士たちは、平和の一時、北方の辺境から来たキリスト教徒の酒場にかよい、強きぶどう酒に酔い、油したたる羊の肉を食い、そこで彼らの相手をするシリヤやペルシアの美女と一時をすごしたのである。

詩人達の王とよばれているイムルウ・ル・カイス(540年頃没)は自分は長ずるに及んで四つのものに熱中するようになったと言い次のようにうたっている。

わが成長は
 ならいおぼえし人の世の
  四つの愉楽とともにあり
まずは酒
 そを満たす皮袋
  愛でる者こそわが馴染み
とまず第一に酒をあげ、次は馬に乗っての狩猟、第三は砂漠の冒険旅行、そして四つ目は美しき女性と述べている。

このように例をあげればきりがない程、ジャーヒリーヤ時代の半島では飲酒は盛んであった。

禁酒への動き

しかし「酒は諸悪の基」と言われもするし、飲酒によって普段は温和な人物が別人のようになって、時には凶暴な振る舞いに及ぶことさえある。このようなことから酒は社会の秩序を乱し混迷に導く第一のものと考えられた。また一般に、酒は暑熱の風土に住む人々の健康に有害とも言われている。かくして、イスラームが起こると、その聖典クルアーンには飲酒を否定する章句が繰り返し述べられた。

「あなた方信仰する者よ、誠に酒と賭矢、偶像と占い矢は、忌み嫌われる悪魔の業である。これを避けよ。恐らくあなたがたは成功するであろう。」(5・90)「かれらは酒と賭矢について汝(予言者)に問うであろう。言え、それらは大きな罪であるが、人間のために益もある。だがその罪は益よりも大である」(2・219)「悪魔の望むところは、酒と賭矢によってあなた方の間に、敵意と憎悪を起こさせ、汝らがアッラーを念じ礼拝を捧げるのを妨げようとすることである。……」(5・91)等々である。

時に、クルアーン5・90節が啓示された後で、酒が禁じられたことをマディーナ(メディナ)の町々にふれて回る者があった。するとムスリムの家では壺に貯えていた酒を道に流したので、その町には酒の流れが出来たと伝えられている。これについて伝承者アナス・ビン・マーリクは「酒が禁じられた日、私はアブー・タルハ(教友の一人)の家で人々のための酌童をしていた。彼等の飲み物といえば必ず乾したなつめ椰子の実、あるいは新鮮ななつめ椰子の実から造った酒であった。折しも大きな声で何かを告げる声があった。彼(アブー・タルハ)は私に『出て(何を告げているのか)確かめよ』と言った。私が外に出て見るとその告げ人は『聞くがよいっ、酒は禁じられましたぞっ』と叫んでいる。アブー・タルハは私に『出て酒を流せ』と言った。それで私はそれを流した。酒はマディーナの道から道に流れて行った」と伝承者はつたえている。

それでは、イスラームが起こって以来、禁酒は徹底して行なわれて来たかと言うと実はそうでもない。それは少なくとも正統カリフが統治した頃まではかなり厳しく守られたと思われるが、その時代を除けばいわゆる「ハムリヤート」と呼ばれている酒賛美のうたが、アラビア文学には多々見出されるからである。

イスラームが破竹の勢いで領域を拡大するにつれて、マディーナやマッカ(メッカ)には被征服地から大量の戦利品と一緒に、果多しい数の捕虜も奴隷として連れて来られた。これらはその地の人々の生活を貧しさから解放し暮らしに豊かさをもたらしたのである。人々はそれらの奴隷を使い、かつて外国で見た城や家を模倣して住居を建築した。それに伴って生活も徐々に新しいものに変化していったが、そこには外国文化の影響が色濃く反映していた。人々の中には富や暇を持て余し、歌や音楽に打ち興ずる者もでてきた。このような生活に付随して、彼らの多くは自らの宗教が禁じた掟を徐々に忘れて行った、と言うより無視したという表現の方が当たっているかも知れない。

特にウマイヤ朝第11代カリフ・アル・ワリードが酒賛美の詩をうたい享楽にふける日々を送ったことなども一般の人々の生活に影響を及ぼさない筈はなかった。アッバース朝時代に入っても大同小異で、酒のうたで世界的な名声を馳せた詩人も出た。千夜一夜物語にも登場する第5代カリフ・ハールーン・アル・ラシードとの酒をめぐるユーモラスなエピソードの数々をもつアブー・ヌワース(762~813)である。彼は盛唐の詩人李白にも比肩されるアラブ詩の序詩で形式上の規則となっていたアトラール(旧露営地・住居跡)に立って想い出に泣くという伝統的形式に反逆し

 露営地を偲んでうたうは陳腐な詩型
 君の詩型はぶどうの娘にするがよい

とうたって伝統に固執する芸術家達を嘲笑し、彼自身は酒を賞美する詩をうたって世にその名が聞こえているのである。なお「ぶどうの娘」とは「酒」のことである。

禁ずるほどに盛られる酒

『旧約聖書』によれば、西アジアはワインが最初に造られた地域で、ノアが初めてそれを飲んで酔った人物とされている。このよっに、この地域は世界で最も古い酒の記録がある程に、たとえそれに厳しく対処する国はあっても、それは陰に陽に造られ飲まれているのである。

そもそもイスラームを信奉するアラブの国々にあっても酒に対する対応もまちまちである。概してアラビア半島の国々は厳しいとされている。その地で働く日本人の中には、現地で酒を入手することが難しいため、ぶどうの収穫期になるとそれを大量に買ってぶどう酒を造るという。しかしそれが発酵し十分に熟さない前に試飲のために無くなってしまうと友人の一人が笑いながら話すのを聞いたことがある。

一方、私が長い間滞在したエジプトでは、アシュートのような極く少数の町を除き、酒は望むだけ入手出来る。特にカイロ、アレキサンドリア、ルクソール、アスワンのような観光地では酒に事欠かない。

ところで、エジプトでのビール造りの歴史も古い。ファラオ時代の壁画には往時の飲酒の様子が描かれていて実に面白い。例えばエジプトで行なわれたビール造りの方法や、古代のエジプト女性が酔って吐いている図などである。またパピルスに描かれた画には、酔った男を仲間がかついで行くところ、奴隷から酒の酌をしてもらっているエジプ女性等がある。それらの画を見るとエジプト女性は酒好きだったように見えるが、古代エジプトではビールは体に活力を与え、病気になった時などは体内に入り込んだ悪霊を追い出す働きがあると信じられていたためのようである。いわゆるそれは健康を保つ薬と考えられていたのだ。しかしこのような思考はイスラームの時代になると変わった。即ち、ワーイル・ハドラミーという人物が預言者の言葉として次のように伝えているからである。「ターリク・ビン・スワイド・ジュウフィーは預言者に酒について尋ねた。するとその御方はそれを禁止された。あるいはそれを造ることを嫌悪された。彼(ターリク)は『私はそれを薬として造るだけです』と言った。するとみ使いは『それは薬ではない。しかしそれは病をもたらすものである』と申された。

さて次に私が実際に見聞したエジプト人の飲酒について述べよう。敬慶なムスリムのエジプト人が私に「エジプト人で飲酒をする者のほとんどはキリスト教徒や外国人との接触の機会の多い人々、例えば観光事業にたずさわる者や外国人の下で働く人達である。ムスリム達の中にも飲酒をする者もないではないが、それは常軌を逸した若者達の間に見られる現象である。彼らの中には飲酒の他、麻薬の常用者もあり、いわゆる不良の徒である」と話した。この言葉は、彼がムスリムの立場を庇って言っているに過ぎないと私には思えるのだ。と言うのも次のような事実を知っているからである。

カイロ大学のN博士のお父さんはアズハル大学で学ばれた敬度なムスリムで、博士も父親の前では畏まり、小さくなっておられた。ある日、博士は私に「僕は日本が好きでいろいろ知りたいので、日本大使館で日本に関する催し物があったら案内してくれませんか」と依頼された。そこで私は日本文化宣伝の夕があった折に、博士をお連れした。そこには大使館勤務の家族の方々が、豪華な日本の着物を着て、訪れた人々の接待をしていた。博士は日本女性に大変興味をもったらしく彼女達と満足気に歓談されていた。そこにウイスキーが運ばれてきた。私は彼に「博士、お飲みになりますか」と恐る恐る尋ねた。何しろ彼の家は大変厳格な家柄だということを知っていたからである。だが、“まさか”の返事がかえってきた。それは「ナァム」(いただきます)だったのである。早速、オンザロックにして差し上げると、あっという間に飲んでしまった。そこで「もう一杯いかがですか」と言うと「うん、僕はストレートの方がいい」と言う。まさに驚きであった。彼はその後も何度か御代わりをして大分酩酊したようであった。そして私に「失礼なことを言うようですが、日本女性にはお腹がありませんね。」などと言うのである。そういえば泰西の名画の裸婦の多くは腹部や腰の部分が大きく描かれているし、エジプトの女性も同様である。博士の言葉に私は何と返事をしたらよいのか困った。彼は足下もおぼつかなくなる程飲んだ。帰途、大学で講義をされている時の姿とは大分異なった振る舞いをするとこ ろも見せられてしまった。

次は日本に帰ってからの話である。カイロ大学文学部長のY博士が日本の大学の視察に訪れた。私の恩師でもあったので私も幾日か一緒に東京を歩いた。一日、博士はある日本人家庭に招かれることになった。招待した家では大歓迎し、それはそれは沢山の御馳走が出された。すし、天ぷらを始めあらゆる日本料理が大テーブルに所狭しと並べられた。その中に日本酒もあった。博士もムスリムであったが前述したN博士の例もあるので慎重に言葉を選んで私は言った。「日本酒を味わって見ますか」彼の返事も「ナァム」であった。ワイングラスに八分目程注いで「どうぞ」と差し出すと、一気に飲み干して「ホルワ」(うまい)と言った。「それではもう一杯」と言ってまた八分目程注いで差し上げた。今度もあっという間に飲んでしまって「ジャミール」(素晴らしい)と言う。「それではもう一杯」と言うと、「君、そのグラスは小さいからもう少し大きいので」と言う。またもや驚きであった。その日、博士は御機嫌でホテルに戻った。

さて、最近の新聞に、酒は心臓病の予防効果がある、という記事が載っていたがそれもいわゆる、適量を守れば、という条件付きであった。さらに、飲み過ぎれば高血圧、肝硬変、ガンの危険性が高まる、とも書いてあった。人間とかく適量を守るということが困難で、ついつい度が過ぎてしまいがちであるから、やはり預言者の言葉「それは病をもたらすものである」は正しいのかも知れない。

(注)
(1)アンダマ、中心が赤い木で、染料となる
(2)日訳、サヒーブ・ムスリム『預言者正伝集』第3巻、 飲み物の書

初出誌情報

小笠原良治 1992「酒物語:6.西アジア―酒の賛美」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第2号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.124-127.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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