飲料:インド

篠田 隆

もともと過剰適応の傾向があるためか、都合7年間にわたるインド滞在は、思考や感性のみならず、日本で培われた習慣にまで大きな影響を与えることになった。紅茶を愛飲するようになったのも、かような変化のひとつである。以前はコーヒー党であったが、現在では目覚ましの1杯から就寝前の1杯まで、数えたことはないが、日に10~15杯は紅茶を愛飲するようになった。がぶ飲みに近い状態である。コーヒーのがぶ飲みと異なり、茶は内臓への負担が小さい、だからいくら飲んでも構わない、と成人病が気掛かりになりはじめた自分自身を納得させている。

インドは世界有数の紅茶産出国であるが、国内で紅茶の消費が大衆化したのは比較的近年のことである。インドで紅茶が大規模に栽培されはじめたのはイギリス統治期であり、その歴史は200年にも満たない。インドおよび他の植民地で生産された紅茶はイギリスでブレンドされ、まずイギリス人の間で大衆化し、「モーニング・ティー」や「アフターヌーン・ティー」の慣行が定着した。イギリスの紅茶は茶葉を煮込まないポット・ティーであり、こくや香りを味わうのに適している。ポットとカップをあらかじめ温めておき、適量の茶葉にお湯を注ぎ、数分間待機する。「紅茶のおいしい入れ方」の能書きには、ポット用にもスプーン1杯の茶葉をケチルことなかれ、と書かれてある。日本にはイギリス経由で紅茶が入っており、煮出さない紅茶にレモンやミルクを混ぜて飲んでいる。最近はダイエット・ブームの影響なのであろう、ストレートで飲む人が増えている。

インドでの紅茶の習慣はイギリス人が持ち込んだポット・ティーであることは間違いない。現在でもホテルなどではポット・ティーが主流である。銀製のティー・ポット、茶漉し、砂糖壷、ミルク壷、それにカップ、プレート、スプーンが一式をなす。紅茶が冷めないように、ティー・ポットには厚手のポット・カヴァーがかけられ、カップやミルクは温められていることが多い。砂糖壷には大きめの角砂糖が並んでいる。ビスケットが数枚添えられていることもある。茶葉の場合は茶漉しが必要だが、最近はティー・バッグもよくみかける。同じティー・バッグでも、味はともかくとして、短時間で鮮やかな色をだす種類がインドでは重宝されると聞いたことがある。ホテルの一室で眠いまなこをこすりながら新聞片手に砂糖とミルクたっぷりのモーニング・ティーをすすっている時、インドに滞在できることの幸せを実感する。長期滞在の場合であってもこの日々の感激が失せないのは不思議である。

ポット・ティーは外国人や中産階級の一部にとって馴染みやすい紅茶の飲み方であるが、一般大衆に広く受け入れられているわけではない。庶民が日常的に愛飲するのは、茶葉をミルクや砂糖とともに煮込み、それにショウガやカルダモン、ティー・マサーラーなどの香辛料を加えた紅茶である。これがインドにおける代表的な紅茶の飲み方となっている。紅茶の習慣がインドに定着する過程で、庶民は煮込んで紅茶をつくるようになった。ポット・ティー用の茶葉と煮込み用の茶葉ははっきりと区別されている。煮込み用の茶葉は極端に短く、あるいは球形をしているといった方が正確かもしれない。みるからにくず茶然としている。植民地統治のもとで、品質の良いのはイギリス本国に送られ、くず茶が国内用に使用されたためであろうか。

ポット・ティーはホテルや高級レストランに行かなければ飲めないが、庶民の紅茶の場合は茶屋に事欠かない。茶屋はタバコ屋とともにインドにおける代表的なインフォーマル部門をなしており、人の集まりそうなところには必ず茶屋がある。大都市であれば1~2分も歩けば茶屋に出くわす。地域により料金は異なるが、茶1杯で1~1.5ルピー(1ルピーは約3円)が現在の相場である。ホテルの紅茶はポット当たり20~30ルピーはとられるので、それに比べると随分と安い。安いだけではない。ポット・ティーには紅茶とミルクと砂糖をムリヤリ混ぜ合わせたようなよそよそしさと冷たさを感じるのに対して、庶民の紅茶には煮込む過程でこれら3要素がしっかりと結合されているせいか、あたかも火神アグニーによりシヴァ、ヴィシュヌ、ブラーフマーの3神が一体化したかのような安定感・統一感を感じる。庶民の紅茶には神が宿っていると感じるのは筆者だけであろうか。

庶民の紅茶に病み付きとなってしまうのには、もうひとつ理由がある。紅茶はコーヒー、酒、タバコ、諸種の麻薬とともに、代表的なイントキシカント(麻薬性があり常習効果をもつ物質)のひとつだと考えられている。常習効果は確かにあり、何らかの理由で一定時・一定量の紅茶がとれなくなるとイライラが極度に昂進したり、体調さえ崩してしまう場面を何度かみたことがある。ショウガや香辛料の添加は刺激性と常習性をさらに強めている。ジャイナ教徒やヒンドゥー教徒の一部には、麻薬性の物質を忌避する哲学があり、この関連で紅茶を飲まない人々がいる。インド独立の父と呼ばれるM.K.ガーンディーもそのひとりで、紅茶やタバコを飲まなかった。「タバコなしでは睡魔が襲い仕事ができない」との多忙なる商人からの相談に対して、「睡魔が襲ったら眠ればよい。起きてからまた仕事をしなさい」とガーンディーが回答した話は有名である。

紅茶の思い出は多い。初めてインドを訪ねたのは1979年のこと、約半年間貧乏旅行者としてインドの主だった都市を巡った。カルカッタから入国し、北インドは列車で移動、それから南インドを主にバスでみてまわり、最後はボンベイから出国した。カルカッタは雨期の真最中、雨に打たれた体を温めるため、日に何度も紅茶を飲んだ。当時は素焼きのカップもよく使われていた。飲み終えた後、投げ捨てるものとは知らず、はじめのうちはカップを茶屋に返していたが、すぐにインド人と同様にカップを路上に叩きつけるのがえもいわれぬ快感となった。数本の支柱に板や布をかけただけの茶屋には容赦なく雨が吹き込んでくる。雨滴の滴れ込むカップを片手に、霞んでみえる人々の往来をぼんやりとながめることもしばしばであった。

衣食住や移動などに限られてはいたが、庶民のやり方をできるだけ模倣してみようという欲求が強かった。金欠であったこともあるが、市内の移動は徒歩と路線バス、宿は最低料金のドミトリィー、食事は大衆食堂でとった。どうしてもリクシャーを使わざるをえない時など敗北感に似た感情さえ込み上げてきた。茶の飲み方にしても同様で、茶屋ではインド人と同様に、まず差し出される水を飲んでから茶に手を付けた。真偽のほどはわからないが、茶の後で水を飲むと歯を悪くするというようなことをたびたび耳にした。インドでは水事情が一般に悪いこともあり、飲料水はそれだけでご馳走である。とくに炎天下の労働にいそしむ人々にとって、茶屋は特別の重要性をもっている。喉をごくごくいわせながら飲料水を腹一杯に詰め、気分を新鮮にしてから、こってりとしたミルク・ティーを味わう。それから、仕事に戻るまでの間うまそうにビーディー(安タバコ)を燥らす。風体の異なる多様な人々と場を共有するのが楽しいこともあり、日に10回は茶屋に立ち寄ることとなった。その都度筆者も水を飲んでいたが、乾期のワーラーナシーで遂に痛い目にあうことになった。沐浴場を眼下に眺めおろせる茶屋で暫らく過ごした。飲料水は地面に半分ほど埋め込まれた瓶にたくわえられ淀んでいた。投宿先に戻ると突如腹が鳴り、下半身が熱くなった。何が起こっているのかを理解するのに数秒を要した。ほとばしり出る水便でパンツが膨らみ、それから、内股づたいに妙に生暖かいそれが垂れ落ちてきた。水便は初めての経験であった。制御不能の事態にショックを受け、暫らく虚脱感に捉われていた。病院では擬似赤痢と診断され、快復するまで1ヵ月近くを要した。それ以降、当たり前のことではあるが、茶屋の飲料水には随分と注意するようになった。

できるだけ多くの都市をみてやろうとおもっていたので、不測の事態が生じない限り、一箇所に1週間以上は滞在しなかった。多少慣れてきた頃、新たな都市に出発するのは後ろ髪を引かれる思いであった。とくに、体調をくずしている時には移動は苦痛以外の何物でもなかったが、先に進まねばという気持ちに押し切られた。貧乏旅行者用のガイドブックもあったが、投宿先は駅前にたむろする力夫から情報を仕入れて決めた。宿が決まるとその界隈を徒歩で「探索」した。広大な都市空間の一角に過ぎないこの徒歩で移動できる領域が筆者にとっては「マチ」そのものであった。適当な食堂と茶屋はすぐに見つけだした。「マチ」をぶらついていると、物乞い、両替屋、線香売りなどの商売がらみの人々の他に、外国人に好奇心をもつ大人や学生など多くの人々が話しかけてくる。気が合うと茶屋に誘ってくれる。もちろん、支払いは相手方である。お礼を述べると、十中八九「ノー・メンション、ユー・アー・マイ・ゲスト」と返してくれる。当時、生活のペースがゆるやかだったこともあり、日に一度は茶屋に誘ってもらった。インド人の好奇心の強さと過剰なまでの人々との接触が、インド旅行の面白さの核になっているようにおもう。紅茶はインド人の間でも人間関係の潤滑油となっている。筆者にとっての紅茶の思い出とは、肩に力の入り過ぎた貧乏旅行者をあたたかく遇してくれたインドの人々の思い出でもある。

初出誌情報

篠田 隆 1995「飲料:インド」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第5号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.126-128.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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