映画:ベトナムの映画

岩井美佐紀

1.はじめに

まだ、大学1年生の頃、岩波ホールで初めてベトナム映画を観たことがある。確か邦題は「無人の野」(1980年、グエン・ホン・セン監督)。ベトナム戦争の残虐さを描いたベトナム製作映画で、白黒だった。当時、モスクワ国際映画祭の金賞を受賞した作品で、ベトナム映画が初めて国際映画祭で最高賞を受賞したということで、一躍有名になり、日本でもロードショー公開された。映画の内容は、メコンデルタの農民が米軍の銃撃の恐怖に晒されながら、自分の家族や生活を守るために立ち一Lがるというストーリーだったと思う。何よりも印象に残ったのは、戦闘機から銃撃するアメリカ人パイロットがいかにも東欧系であること、しかもベトナム語がうまい!そして主人公夫婦の妻が美人なのはいいとしても、夫が「西田敏行」にそっくりの個性派俳優であったことである。美男美女にしないところが、かえって新鮮だった。

しかし、後で考えてみると、いかにもベトナム南部の農民という感じのラム・トイという俳優の存在は、この映画にとって欠かせないものだったのではないか。戦争の悲劇という、普遍的なテーマをより現実味をもって描くためには、彼のような多彩なキャラクターの持ち主でなければ務まらなかったのではないかと思うようになったのである。この映画の中で、彼は実に生き生きとメコンデルタの農民を演じている。

この映画の魅力は、アメリカ軍の残虐性を描くというプロパガンダ的な意味よりもむしろ、メコンデルタの美しい自然とそこに暮らす人々の日常生活にあったように思う。この映画で私は初めてドンタップムオイと呼ばれる、カンボジア国境の通称「オウムの嘴」の大湿原に生育する「浮稲」を知った。そして、メコンデルタの農民が着用する黒色の仕事着や白と黒の格子模様のタオルなど、初めてベトナムの人々とその生活を知った。水面まで2メートルにもなるといわれるこの「浮稲」の舞台が実に効果的に使われている。このような「無人の野」にも、夫婦が子どもを育てながら懸命に生きている、そんな人間のシンプルだが大切な営みを淡々と描いた秀作だった。

2.ベトナム映画と戦争

このように、ベトナム映画は、その歴史的背景から、ベトナム戦争という民族の闘いを描くという性格を帯びてきた。それは、ベトナム映画に与えられた使命といってもいいかもしれない。しかし、戦闘場面をちりばめるというような直接的な表現ではなく、家族の死や別れといった悲しみを中心的に描くことで、戦争の不条理を訴える作品が多い。

その代表的な作品として有名なのは「10月になれば」(1984年製作、ダン・ニャット・ミン監督)であろう。この作品も外国の映画祭に出品されたが、日本では自主上映された。同じベトナム戦争を描く映画といっても、前出の「無人の野」はメコンデルタの農村が舞台であったのに対し、「10月になれば」は北部紅河デルタの農村が舞台となっている。出征した夫であり、息子を待ちわびる家族の深い悲しみを描いている。ストーリーは、至ってシンプルである。夫が遠い南の戦場で死亡したとの知らせを受け取った妻は、自身の悲しみを押し殺して、家族や村の人には黙っていた。というのも、同居する高齢の舅が重い病に伏せっていたためである。偶然事情を知った村の教師は、妻に同情し、死んだ夫に成り代わって家族に手紙を送る。しかし夫の死亡の知らせを軍隊の人が直接知らせに村を訪れて、全てがわかってしまう。丁度その時、舅は臨終を迎える。

この映画の魅力は、まず主人公の女性の健気な姿であろう。主人公の妻・嫁役を演じるレ・ヴァンは、村の娘をやらせれば、天下一である。彼女は、細く痩せているが、働き者で、夫の両親に尽くし、子どもを愛する芯の強いベトナム女性を象徴している。ベトナム戦争によって、多くの青年が村を出ていった後、野良仕事に精を出し、家族を支えてきた村の女たちのしなやかさが伝わってくる。レ・ヴァンはこの他、封建時代の村の様子を描いた「ザウ」(日本未公開)のヒ人公ザウ役、ベトナムの民話をモチーフにした喜劇「とんちんかんなボム」(1987年、レ・ドゥック・ティエン監督)の主人公の妻役などでも、村娘を演じている。

私にとっての、「10月になれば」のもう一つの魅力は、北部の村の生活が描かれていた点である。竹垣に囲まれた、村の中での人々の暮らし、例えば、家はどのような造りになっているのか、家の調度品は何があるのか、どのような家族形態で住んでいるのか等々。ベトナムの村に対するイメージを豊かにしてくれた。この映画のタイトルを直訳すれば「いつになったら10月が来るのか」となるが、「10月」というのは、まさに収穫の季節、農民の最も幸せな時季を表す。つまり、いつになれば平和が訪れ、人々が幸せに暮らせるのかという意味を持たせたタイトルなのだが、このように農村を題材にベトナムの民族・社会問題を扱うのも、ベトナム映画の特徴といえるだろう。

もう一つ、北爆下の首都の状況を1人の少女の家族を中心に描いた「ハノイの少女」(1974年、ハイ・ニン監督)も、戦争の悲劇を描いた代表的な作品といえる。ハノイで幸せに暮らす家族が戦争のために離散し、主人公の少女は空襲で母親と妹を失ってしまうというストーリーである。私は留学中のハノイで鑑賞した。この映画は、1972年12月の通称「クリスマス爆撃」と呼ばれる、北爆が熾烈を極めたハノイを扱っているが、1974年に製作されており、ベトナム戦争と同時進行的に撮影が行われたという点で、半分ドキュメンタリー的な性格をもっているといえる。特に、最も爆撃が激しかった人口密集地カムティエン通りとバックマイ病院は全壊し、死者は1300人を上回ったといわれる。映像でも、カムティエン通りは荒涼たる光景であった。現在、カムティエン通りとバックマイ病院に戦争犠牲者の慰霊塔がある。私もカムティエン通りの慰霊塔を訪れたことがあるが、平和を願う母子像の周りには、今も花が手向けられていた。当時の状況を知るもう一つの戦争の遺物は、ハノイの各通りに設けられたタコツボである。今となっては何の面影もないが、当時は空襲警報が鳴ると、ハノイ市民はタコツボの蓋を開け、すばやく避難した。映画の中でも、少女が兵士のお姉さんとタコツボに入り、空襲をやり過ごす場面が出てくる。

「ハノイの少女」の監督ハイ・ニンは、同じくベトナム戦争中の1972年に「愛は17度線を越えて」を製作している。この「17度線」とは、ベトナム南北を分断する北緯17度の境界のことで、丁度「国境」をベンハイ川が流れている。南部解放戦争に従軍し、投獄されながらも勇敢に闘う女性革命闘志の物語である。この映画は、1973年のモスクワ国際映画祭で、演出部門の金賞を受賞している。このように、ハイ・ニンの作品をはじめ、ベトナムの映画は、劇映画の形を取りながらも、半ばドキュメンタリーとしても民族解放および祖国統一という悲願を体現してきたといえる。

3.ドイモイ時代の映画

1986年末からのドイモイ以降に製作された映画には、明らかにそれまでとは違う視点が含まれるようになった。南北統一から10年間に顕在化してきた社会問題、例えば解放闘争を指導してきた幹部の腐敗や不正事件、また一般市民を軽視する官僚主義的体質など、外敵ではなく、自身の中に蔓延る見えない敵と闘うというように、テーマが移ってきた。

その代表作としては、「河の女」(1987年、ダン・ニャット・ミン監督)が挙げられよう。ベトナム戦争中、美しい占都フエを流れるフオン川に浮かぶ小舟で南ベトナム兵士軍を相手に売春をしていた女性が、解放戦線の闘士を匿い、それが縁で恋に落ちる。1975年の解放後、すでに中堅幹部となっていた彼と再会した元売春婦は、「人違いだ」と、冷たく扱われ、失望のあまり川に身を投げるというストーリーである。映画では、更生した元売春婦の貧しさと、出世し、立派な家に住む元革命戦士の豊かさが強調される。私は、留学中に観たが、詩人トー・ヒューの美しい詩がとても効果的に使われ、人間の尊厳について考えさせる内容に感動した。

さらに、戦後の平和な世の中に加えて、経済発展の不均衡がもたらす影の部分なども映画の主要なテーマとなっている。「静かすぎる町」(1986年、レ・ドゥック・ティエン監督)は、事故で田舎町の病院に運ばれてきた大臣が、実は運転手だったという落ちのあるストーリーで、硬直した官僚主義を風刺しており、「退役軍人」は死産した嬰児を飼料用に業者に売る医者の嫁が登場したり、拝金主義が蔓延る村の様子を描いている。また、「黒いサボテン」(1991年、レ・ザン監督)は、貧しいチャム族の若者(黒人米兵との混血児)がサイゴンに出稼ぎに行き、一時は家族を捨てようとするが、結局村に戻るという作品である。このように、ドイモイ期からは社会問題を扱う映画が比較的多く製作された。

丁度、このようにベトナムで新しい映画が製作されるのと前後して、戦争相手国のアメリカでも、「プラトーン」(1987年、オリバー・ストーン監督)や「友よ、風に吹かれて」(同年、フランシス・コッポラ監督)をはじめ、自分たちのしてきたことをもう一度見直そうという動きが出てくる。これは、「ランボー」シリーズなど、マッチョなベトナム帰還兵が復讐のために、天敵ベトコンを殺裁するというタカ派活劇とは、全く対照的である。オリバー・ストーンはその後、「7月4日に生まれて」「天と地」と合わせ、ベトナム3部作を完成させている。あるベトナム研究者の言を借りれば、この視点の変化は、「奴等(ベトナム人)が我々(アメリカ人)に何をしたか」ではなく、「我々が、彼らに何をしたのか」というアメリカ人自身の内省の軌跡なのである。

4.終わりに

最後に、ベトナムの映画製作にかかわる問題に触れてみたい。ベトナムは、以上述べてきたような劇映画だけでなく、多くの記録映画も製作してきた。1945年9月2日のホーチミンによる「独立宣言」とバーディン広場に集まった群衆を収めた記録映画から始まり、抗仏戦争期の解放区の洞窟での作戦会議や、行軍の様fを収めた貴重な記録映像が数多くある。1953年3月に当時のホーチミン大統領は、「ベトナム映像・写真国家企業」の創設勅令に調印し、通称「第7区映画」「越北映画」などの撮影所を設立していった。その成果は、1954年5月のディエンビエンフーの決戦時に撮影された記録映画「ディエンビエンフー」へと結実する。その後、ベトナム戦争が熾烈になると同時に、映画人たちも従軍し、「クチのゲリラ」(1967年、ドアン・クエ監督)などのドキュメンタリー映画を撮影している。ベトナムの劇映画の中には、時折実写フィルムが挿人されていることが多いが、このような記録映画の伝統があったからこそと可能となったといえるだろう。現在でも、ホーチミン市の映画撮影所は「解放」と命名されており、ジャングル撮影所時代の名残を留めている。

一方、人材養成については、1959年にハノイに最初の映画学校が開校する。前出のラム・トイは同校俳優科の第期生である。ホーチミン市には、統一後の1977年映画学校が開校した。実質的には、1980年に開校したベトナム映画・舞台大学が映画人育成の中心的役割を果たしている。映画監督はほぼこの大学出身者である。ただ、俳優は、このような国立の映画学校出身者だけではなく、モデルや舞台出身者も多数いる。俳優は、フリーと映画製作会社所属の2種類に分けられる。フリーの場合、個人契約で、主に南部の俳優に多い。映画会社所属の場合、基本月給30万ドン(約3000円)の他、仕事の内容によって会社を通して契約し、報酬を受け取る。

今年、ベトナム映画は45歳を迎える。しかし、ベトナム映画の前途はドイモイ後、必ずしも輝かしいものとはいえない。ドイモイ以前は年間20本ほど製作されていた映画も、現在はわずか7~8本に激減した。1本の映画製作費は8億~30億ドン(800万~3000万円)ほどかかるが、観客が集まらず、制作費の5~15%しか収益が上がらないという状況である。ハノイ市内の映画館は、現在「8月映画館」と「民主映画館」の2ヵ所のみとなってしまった。集客率が悪いと、3日ほどで上映中止になる映画もある。ビデオレンタルが普及した現在、「わざわざ映画館に足を運んでまで観たい映画はない」と言い切る人は多い。お堅い「芸術」映画は敬遠され、二流のスパイ映画はアメリカや香港映画に比べて見劣りがする。結局、ドイモイ以前は撮影に1年かけることもあった映画は、現在そこまでの余裕は全くない。最近は、テレビ放映用やビデオレンタル用の短編映両が俳優を含め映画人の仕事の主流となっている。ハイ・ニンやダン・ニャット・ミンなど「人民芸術家」(30年以上の実績が認められた者。15年以上の実績を認められた者は「優秀芸術家」)の称号を持つ著名な監督が、その優れた手腕を発揮する場が狭められることは、何とも悲しい現実である。しかし一方で、「ニャム」(1995年、ダン・ニャット・ミン監督)をNHKと共同製作するなど、海外の資金援助を得て映画製作を継続させる新しい試みもみられる。

〔参考文献〕

ベトナム映画保存芸術研究所、「映画と民族文化アイデンティティ」、文化情報出版社、ハノイ、1994年(ベトナム語)。

ベトナム戦争の記録編集委員会編、「ベトナム戦争の記録」、大月書店、東京、1988年。

初出誌情報

岩井美佐紀子1998「映画:8.ベトナムの映画」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第7号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.101-105.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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