映画:インドネシアの映画

風間純子

1.はじめに

『青空が僕の家』という映画がある。スラメット・ラハルジョ・ジャロット監督(以下スラメット監督)による1989年の作品だ。1990年にナント3大陸映画祭ジャック・ドゥミ賞を受賞したほか、いくつかの賞を海外で受賞した作品でもあるが、日本では1992年の「白巾と人権」国際映画週間で3度上映されたあと、1995年に岩波ホールが夏休みロードショー上映し、最終日には追加上映を行ったほどの盛況ぶりで、国際的に高い評価を受けた作品であると言ってもよいだろう。

粗筋はざっとこんな具合だ。10歳前後の2人の少年が主人公で、一人は田舎から職を求めて首都ジャカルタに出てきたものの、スラム街暮らしを強いられる貧しい家庭の息子グンポル。そしてもう一方は、会社社長の息子だが母親を早く亡くし、物質的には満たされていながらも精神的に孤独な少年アンドリ。この2人が、ひょんな事から知り合い、友情を深めていく。ある口のこと、グンポルの住むスラム街が当局の手によって焼き払われ、家族と生き別れになったグンポルは田舎の祖母を訪ねることにする。親に内緒でアンドリはグンポルについていくが、2人は野宿をした際に持ち物すべてを強盗に奪われてしまう。仕方なく日銭稼ぎのアルバイトをするアンドリとグンポル。こうしてアンドリは生まれてはじめて貧しい庶民の生活を体験する。

その後強盗との大立ち回りなどの様々な体験をした2人は、新聞の尋ね人欄に載ったアンドリの写真と記事を偶然目にし、ジャカルタに帰る。身よりのないグンポルを思い、アンドリは自分の家で一緒に住もうと誘うが、グンポルは田舎に戻る決心を固め、涙で見送るアンドリに明るく手を振って列車に揺られていった。

貧富の差をテーマにしたよくある設定で、単純なストーリーではある。しかし、スラムでのグンポル一家の生活、川舎でのアンドリの体験などを通して、現代インドネシア社会の表と裏とがかなり刻銘に描かれており、その上笑いの要素もふんだんに取り入れられたこの作品を私はとても気に入っている。おそらくそれは私だけではあるまい。岩波ホールでの上映では、ラストシーンで思わず涙をこぼし、幕が閉じてからも席を立つことのできなかった観客のいかに多かったことか。よい映画が日本で紹介されることの久しくなかったインドネシア映画界では、これは久々のヒット作なのだと私は思いこんで疑わなかった。

2.1995年の国産映画

そこで私はインドネシアの新しい映画をこのほかにも見てみたくなって、1995年の夏、映画を見ることを目的にインドネシアのいくつかの町を旅してみた。ところが驚いたことに、首都ジャカルタの大通りに面した映画館には国産映画が見あたらない。確かに、以前と比べたら映画館は立派になった。しかし、その立派な映画館で上映されているのはハリウッド映画ばかりである。ようやく見つけた国産映画といえばジャカルタではもっぱら場末の下級映画館、地方でも中級及び下級の映画館のみでしか上映されていなかったのだ。

おそらく、中級とか下級の映画館という表現に戸惑いを感じる方も多いことだろう。インドネシアでは、明文化されているわけではないが、映画館には等級付けがなされている。しかもそれは封切の映画を上映するロードショー館とか2番館といった区別ではなく、設備の善し悪しで決まるのである。だから、同じ新作映画を同時期に別の料金で見せる映画館が軒を並べている町の様子は、実に普通の光景なのだ。つまり、映画館の等級は快適さによって決まるのであって、映画の内容ではない。

1995年現在で、ジャカルタの最高級館の入場料は1万ルピアであった。この料金は、私の友人で地方都市に住む30代の大学講師の月収が30万~40万ルピアであるのと比較すると、かなり高いと感じられる。現代的でおしゃれなビルの中にあるその映画館は整備された広い駐車場を持ち、明らかに自家用車で乗りつける金持ちを相手に作られていることがわかる。内部の設備も最先端の技術を導入し、ソファの座り心地も日本のそれとは比べものにならないくらい快適だ。当然、客層も最新のファッションを身につけた若者たちである。

一方、中級館は上級館とほぼ同じ映画を同時期に上映しているが、入場料は5000ルピアから8000ルピアほどだ。上級館のようなきらびやかさはないが、環境はさほど悪くない。また、誰でもいつでも気軽に入れる雰囲気がある。

下級館は、おおかた通りからは見えにくい場末にある。私が入ってみたのは小さな市場の4階にあって、1階と2階が市場とスーパーになっており、3階には自動車修理工場がある。だから、4階まで上がって行くにはゴミの臭い、機械油、そして階段のあちこちから臭ってくる小便のアンモニア臭を我慢しなければならない。入場料は2000ルピアだ。中の空調は壊れていて蒸し暑く、ソファのバネがお尻にあたる。スピーカーは幕の真ん前にひとつおいてあるだけだ。そんな中で上映されるのは、古い洋画、香港映画、インド映画、そして国産映画である。

こうして様々なタイプの映画館を見て面白いのは、インドネシアの人々にとって映画を見るという行為は、自分のステータスにふさわしい館を選ぶ行為に等しいということである。料金と許容できる快適さと映画の内容を見比べて、少しでも安くあげようと考える私のような輩は、中流以下の社会階層に分類されても文句は言えない。近年増え続けている新中間層の人々、そして富裕層に属する人々は、幾分背伸びをしてでも自分のメンツにかけて高いレベルの映画館を選ぶはずだ。

話を95年の国産映画に戻そう。こんな映画館事情の中で、95年の国産映画は中の下から下級の映両館でしか上映されていなかったのだ。ということは、自分が中の上から上流だと白負しているプライド高き人々は、ここしばらく国産映画を見ていないことになる。

しかも、実際に国産映画を見てみて驚いた。ストーリー展開、美術、照明、演技、どれをとってもお粗末きわまりない。テレビの人気コメディアンが主演のコメディでさえ、やたらに女性の下着や水着姿を映し出したり、下ネタの多用にはうんざりさせられる。地方では、ジャカルタと比較すると数の上では国産映画を多く上映しているといえるが、映画館にはセクシー女優のみだらな姿ばかりを写したポスターがずらりと並べられている。信仰の篤い人々が多く住むこの国でポルノ映画が許されるはずはない事を知りながら、やはり女である私にはそういった映画館に足を踏み入れるのには勇気が必要だった。それでも中を覗いてみれば、案の定客は若い男ばかりだ。映画の内容はと言えば、もちろん濡れ場はすぐにカットとなる。そして物語は最終的に、「清く正しく生きよ」といった道徳的なメッセージを観客に投げかけ、幕を閉じるものが実に多い。

しかし、仮にこういった国産映画が中~上級映画館にかかったとしても、新聞広告やボスターを見る限り、少なくとも堅気(かたぎ)の女の子は見に行く気にもなるまい。どう考えても、この手の映画は性的刺激や下品な笑いを求めてやってくるタイプの客層をターゲットにしているとしか思えない。こうして生活者の目で見ると、いつのまにか国産映画は中~下級の映画館とイメージが結びつき、その結果、貧しい下層の人々のための娯楽であるという烙印を押されてしまったようだ。

3.インドネシア映画界の斜陽

一体いつからこんな事態になってしまったのか調べてみた。国産映画は、1970年代から80年代にかけて間違いなく娯楽の王様だった。73年以来、毎年国を挙げてのフェスティバルが開催され、様々なイベントに町は沸き立っていた。製作本数を見ても、70年代の10年間には520本、80年代には715本、つまり平均して年間50~70本の映画が製作されていたことになる。先程のスラメット監督も70年代半ばには美形の若手スターとして大活躍し、当時のアイドルであった女優クリスティン・ハキムと共に圧倒的人気を誇っていた。その他にもデディ・ミズワル、ベニャミン、デウィ・ユル…数え切れないほどの名優やスターがいて、甘いロマンス、コメディ、大衆歌謡を用いたミュージカル風映画、その一方で歴史や文学を題材としたシリアスものまでありとあらゆるジャンルの映画が作られ、その当時のインドネシア映画は、作る人も見る人も皆が心から楽しんでいた。

ところが、90年代に入るや国産映画は製作本数自体が激減する。92年には31本、93年には27本、94年には33本、そして95年の7月の時点では、製作中のものも含めたった11本しかない。この原因には、まずテレビの影響があることを認めなければなるまい。インドネシアでは、それまで国営放送局1局のみであったのが、89年に大統領の息子が開設許可を取得したのを皮切りに次々と民放が開局し、現在主要都市で視聴できる民放の数は5社に上る。こうして、消費者はわざわざ映画館へ行かなくても自宅で手軽に楽しめる娯楽をみつけ、90年を境に映画館への客足はめっきり減った。しかしそればかりではない。製作費が安く上がり、しかも確実に収入につながるテレビ業界に、それまで国産映画界を支えてきた監督、俳優、プロデューサー達など多くの人材が流れていったのである。

それでも銀幕にこだわる映画人達や専門家に尋ねると、国産映画不振の原因は他にもあった。まず、映画輸入・配給・映画館経営の独占である。80年代後半に、スハルト大統領の異母兄弟が経営する財閥が「21グループ」という会社を設立し、主に上級館を次々と買収していった。今では、上級館のほぼすべてと中級館の多くが「21グループ」の系列下にある。また「21グループ」は外国映画の輸入・配給とも独占的に行なうようになった。その結果、町の上級館にはハリウッド映画ばかりがかかり、国産映画ははみ出しを食らったと言うわけである。実は、『青空が僕の家』も、初めは中の上クラスの映画館で上映が開始されたが、客の入りが悪いという理由でたった2日で上映中止となっている。

更に映画人達は、そんな独占状況に対し何の対策もとろうとしない政府に苛立ちを感じている。このような独占状況を放置した結果、彼らの言葉を借りれば「ハリウッド映画の害毒に国民の心がむしばまれてしまった」というのである。更に彼らは、「映画を含めた国産の文化は、国の最後の砦である」という。そしてそれを守ろうとしない政府の無策を大いに嘆くのである。

ところで、それに対する町の声はどうだろう。主に中~下級館で映画を楽しむデパートの駐車場係のおじさん達はもっぱらアクションものが好きで、香港映画がいいという。また、地方の映画館に来ていた若い男の子達は、国産映画は現実離れしているシーンばかりだから馬鹿らしくて見ていられないのだそうだ。タクシーを運転しながら楽しそうに話す運転手さんは戦争物が好きで、この前もベトナム戦争をテーマとした映画を見たという。彼の場合、国産映画をやっている映画館は汚いから嫌だし、いつも似たようなストーリーだから見る気がしない。最初の10分を見たら、あとは眠っていたって結末はわかるという。私の留学時代の親友達に尋ねると、国産は質が悪いから見ないとけんもほろろ。国産映画を支持する声が皆無なので『青空が僕の家』について尋ねてみた。既に民放局で何度かテレビ放映されたと聞いたからだ。すると厳しい批判はなかったものの、「おもしろくない」「悲しい話だ」というマイナス評価ばかりである。

それでは、ドラマに関する人々の好みをテレビの人気番組から推測してみよう。まず人気ナンバーワンと言ってよいのは、香港のカンフー・ドラマである。老若男女を問わずテレビの連続ドラマに釘付けで、幼児はテーマソングを合唱し、テレビ雑誌では香港のスター達の大きなブロマイドが紙面を飾る。一方女性達が夢中になるのは南米からの輸入ドラマで、女性主人公の波瀾万丈の人生を我が事のように心配する。

そんな中で、94年から95年にかけて唯一人気を集めていた国産ドラマは『学生・ドゥル』という題名の連続ドラマであった。これはジャカルタの中流家庭とその近所の人々の生活を描いたものだ。現実の庶民の生活感が溢れたこの番組は、笑いをあちこちに散りばめながら土地問題や就職難などといった日常のテーマを盛り込み、庶民の共感を得たためであろう、舞台となったジャカルタでは視聴率が75%を越えたと言われる。テレビの中の気取らない、どこにでもいそうな主人公「ドゥル」が自分の日常を分かち合い、一緒に悩んでくれている。似たような境遇にある人々はこの番組を見ながら、決して改善されることはあるまいと諦めながらも現実の生活にある程度納得し、幾ばくかの夢や希望を主人公に託すのである。私も何回かこの番組を見た。技術面からは稚拙な部分が目立ち、特に出来の良い番組とは思えなかったが、何しろ人々は毎週これを楽しみにしているのである。このブームがかつての「おしん」をはるかにしのいでいたのはまぎれもない事実なのだ。(『学生・ドゥル』に関しては、『亜細亜通俗文化大全』、スリーエーネットワーク、1996年出版、に詳しく紹介したので、興味のある方はそちらを参照して下さい。)

4.国産文化とアイデンティティと

70年代から80年代にかけて、国を挙げて開発へと遇進してきたインドネシアは、今、ある程度満足できる成長を遂げたと言っていいだろう。その間、皆がインドネシアという国に対する誇りとインドネシア人としてのアイデンティティを模索しつつ、同じ夢を見、力を合わせて闘ってきたのだった。そんな時代には、国産映画も人々に夢と希望を与え、熱烈に支持されていた。ところが90年代に入りふと気がつけば、富める者はますます富み、その恩恵にうまくあずかった者達は生活をメキメキと向上させ、新中間層といわれる「ニュー・リッチ」階層を作り上げた。彼らは手にしたステータスを手放すまいと更なる生活の向上を目指して血眼になる。一方で、それを横目に明日は我もとこつこつ努力して学歴を手に入れたものの、コネがなかったためにかつての仲間に大きく水をあけられた者達は、今より少しでも良い生活をと収入増をはかってあくせく仕事を探す。そして、そんなことを最初から夢にも見ていない人々。学校教育さえ満足に受けることのできない生活を強いられている彼らは、いつでも今日のこと、明[のことで精いっぱいだ。

こうした社会背景の中、スラメット監督は80年半ば、仲間達と共に映画会社を設立した。その第2番目の作品が『青空が僕の家』である。彼は、岩波ホールでのスピーチでインドネシアの富と貧困について語り、そして富めるものと持たざる者達の連帯と共感をこの映画を通して呼びかけたいと語った。日本に住み、安定した生活を享受している私は、その彼の言葉と彼の志に感銘を受けたものだった。しかし、毎日の生活の中に社会の不公平と矛盾を見せつけられているインドネシアの庶民が、果たしてそのような理想に共感できるのだろうか。

スラメット監督達をはじめとするインドネシアの映画人達の大半は、インドネシア社会のエリート達である。経済的に安定した家庭に生まれ、充分な教育を受け、家にはお手伝いさんや運転手がいて家事労働をこなしてくれる。おまけに近年盛んになっている海外の各種映画祭からの招待を毎年のように受けて世界を飛び回っている彼らは、世界の著名な映画人達との交流を通して多くの刺激を受け、啓発されてきたであろう。しかし、そんな生活をしている彼らにスラムでの生活を強いられている少年グンポルの本当の気持ちが分かっていただろうか。勤勉で実直に努力してきたにもかかわらず、コネがないばかりにまともに就職さえできない若者達が溢れているこの現実を、どれだけ実感を持って理解しているのだろうか?よき国産映画を作ろうと闘ってきた映画人達は、むしろ理想を高く掲げようとするあまり、いつのまにか足元の人々の真実からかけ離れてしまった感があると言わざるを得ない。

「自分達の気持ちを代弁してくれないのだったら、国産映画なんてなくなったって一向に構わない」と、地方都市で細々と印刷業を営む私の友人は言った。これが庶民の本音である。インドネシアという国の団結に情熱を注ぎ、アイデンティティを模索する時代はもう終わったのだ。アイデンティティの証しとしての国産映画も価値を失った。アメリカ製だろうが香港製だろうが日本製だろうが、人々は自分のプライドを満足させ、心を豊かに満たしてくれるものを求めている。ただそれだけなのだ。インドネシアの映画人達もイデオロギーや過去の理想などかなぐり捨てて、今まさに自分と自分のおかれた社会とに直面すべき時に来ているのではあるまいか。

初出誌情報

風間純子1998「映画:7.インドネシアの映画」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第7号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.96-101.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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