飲料:イラン―チャイハーネ考

原 隆一

現在、イランでも最もポピュラーなカフェイン入りの嗜好飲料はチャイ(chay 紅茶)である。チャイは都市や農村の家の中や遊牧民のテントの中で、また、バーザールやモスクなど人が集まる所ではどこでも飲まれている。また、チャイを飲ませ、人と人を結びつける社会的機能をもったチャイハーネ(ch?y-kh?ne 茶店)という「社会的溜まり場」があり、庶民生活にとってなくてはならない生活空間である。

1.茶とカーシェフ・オッ・ソルタネ

イランをはじめ、西アジア・イスラーム世界において、飲茶の習慣が広まるのは比較的新しいことである。イランではチャイハーネのことを今でもコーヒー店(qahve-kh?ne)と呼ぶことが多い。コーヒーが先に入り、後に紅茶が広まったのである。そして、現在はチャイが国民嗜好飲料の主座を占めるようになった。

イランへの紅茶輸入は17、18世紀頃から、少しずつオランダや英国商人の手によって東インド会社から入ってきた。イランからは紅茶の代わりにアルメニア商人によってシーラーズ産ワインがインド洋に面するバンダレ・アッバースなどの港町から海路で東インド会社に輸出されていた。当時、「世界の半分」(nesf-ejah?n)と言われるほど栄えたサファヴィー朝の王都、イスファハンに初めてコーヒー店が現れたのもこの頃である。

ラーヒージャンはカスピ海沿岸にあるイランの紅茶栽培の中心地であり、アルボルズ山脈の北斜面山麓の傾斜地を利用して茶栽培がおこなわれている。この地方は茶の他に、米、桑なども栽培され、一面の緑はアルボルズ山脈の南にある「乾燥イラン」と対照的な阻潤イラン」を形成している。この地にはイランに初めて茶樹もたらしたカーシェフ・オッ・ソルタネ(K?shef al-Saltane)の記念碑がある。墓石には次のような文章が刻まれていた。

イラン歴1214年(西暦1836年カージャール朝期)、カーシェフ・オッ・ソルタネは35才の時、駐在領事としてインドに赴任した。65才の時に再びインドに行き、そこから中国、日本へと旅行した。旅行からの帰路、港町ブッシェフルで事故に会い、イラン歴1281年(西暦1902年)ファルヴァルディン月の31日、逝去した。

イランの茶栽培の歴史はこのカーシェフ・オッ・ソルタネがインドよりアッサム種の苗木をイランに持ちかえり、ラーヒージャンに移植、栽培したことからはじまる。当時、紅茶貿易の独占を狙う英国はインドからの茶の苗木の持ち出しを厳禁していた。茶は温暖多雨(年平均気温12.5℃以上、年雨量1400㎜以上)でかつ、地形的に排水良好の傾斜地が好ましいとされる。ラーヒージャンはこのような条件を満たしており、茶栽培の適地であった。

2.茶と甘味

このようにイラン国内での茶栽培がはじまったのは近年のことである。現在、チャイと一緒に多量に消費する角砂糖(qand)の原料となるのは砂糖キビ(ney-shekar)と砂糖大根(choghondar-e qand)である。前者はイラン南部、メソポタミア平原の東端にあたるフーゼスタン地方で、すでに5世紀ごろ、ササーン朝時代にはかなり栽培されていたらしい。

今日、イランの砂糖生産の大部分は砂糖大根から製糖したものである。砂糖大根は今世紀の初頭に、その製糖技術とともに西欧(栽培種はベルギーから、製法はドイッや英国など)からもたらされた。砂糖大根は寒冷地に適し、現在、イラン高原にある大部分の農村で栽培され、生産・流通は国家管理のもとに置かれている。

1925年、カージャール王朝より政権を奪取し、パフラヴィー朝を創設したレザー・シャーは近代化政策の一環として、鉄道、セメント、綿紡績工場とならんで全国各地に国営砂糖工場を建設していく。シーラーズからイスファハンに向かう途中にマルヴダシュト谷平野がある。レザー・シャーは1931年、この肥沃な谷平野に国営砂糖工場を建設し、この付近を通過する遊牧民の定着化を押し進めるかたわら、かれらを近代的⊥場労働者として雇用し、砂糖生産を開始していった。

近代工業製品としての贅沢品である砂糖が入る前、甘味は干しぶどう(keshmesh)、なつめやし(khorm?)、いちじく(anja?r)などの乾燥果実から取っていた。今でも、葬式の日にはモスクで、なつめやしで甘味をとりながらトルコ式コーヒーを飲むのが習慣として残っている。また、イラン人の茶の飲み方として、角砂糖をまず口に含み、後から紅茶を飲むしぐさはその名残りなのであろう。

3.社会的磁場としてのチャイハーネ

全国各地、どこにでもチャイハーネはある。とりわけ、都市下町のマハレ(mahalle 街区、町内)にはそれぞれの地区を代表するチャイハーネがひとつかふたつあるのがふつうで、そこが庶民生活にとっての社交場、溜まり場となってきた。庶民の社交場と言ったが、正確には「男たちの溜まり場」であって、家の外での行動を厳しく制限されているイスラーム世界の女性たちの出入りする場所ではなかった(1)

チャイハーネの入口近くにはサモワール(sam?var)が置かれてある。それは、銅や真鍮でつくられ、円筒形あるいは円錐形の容器の内部にパイプがたてられ、その中に木炭や木材などをつめこみ燃焼させるロシア風の喫茶用湯沸かし器である。サモワールの上蓋の上に急須などを置き、紅茶を煮出して(dam kardan)から茶碗(k?se)や手のない小さなコップ(estek?n)に茶を半分ほど注ぎ、本体の下部から突き出した栓をひねって熱湯を注ぎたすのがふつうの飲み方である。こうしたサモワールによる飲茶方式はロシアから入ってきたもので、イランをはじめ、隣のアフガニスタン、トルコ、それに、中央アジア諸国でも見うけられる。

燃料としての炭(zogh?l)は多方面で使われ、カスピ海沿岸地方の炭焼き小屋で生産される。この木炭を使ってイランの代表的な食べ物であるキャバーブ(kab?b 羊焼き肉)が焼かれ、雪の多い山間部では冬季の暖房用に木炭による櫓炬燵(kors?)が普及している。チャイハーネでは、この木炭で茶を沸かし、水ぎせる(qaly?n)に火をつけ、また、夜には昼の残り火と灰の余熱を利用して、庶民食であるアーベグーシュト(?b-e g?sht 羊肉切れとレンズ豆、ジャガイモなどを素焼きの壼に放りこみ弱火で一晩煮込んだ肉汁)が作られる。

チャイハーネはたんに飲み食いだけの場所ではない。むしろ、それは庶民の生活上の要求を満たしてくれる多機能をもった生活空間であった。マハレの同業の職人たちの行きつけの場所であったり、商い交渉や政治談義に花を咲かせる場であったり、また、庶民の娯楽や文学的感情を満たしてくれる小劇場でもあった。

イスファハンのザーヤンデルード河畔にある伝統的チャイハーネには天井からはさまざまな雑貨がつるしてあり、棚には小物が置いてあった。かって、伝統的なチャイハーネには17種類の職業を示すシンボルが部屋に飾ってあったという。例えば、大工(najj?r)のシンボルは鋸であり、公衆浴場番(hamm?m?)は櫛であり、理髪師(salm?n?)は小刀であり、肉屋(qassabi)は大刀であり、また、チャイハーネの主人(gahve-khane-d?r)はランプと水煙管であるといったぐあいである。これらは職種の社会的分業がまだ未分化の時代の都市マハレにおける基本的な生業リストであり、チャイハーネがマハレの結節点として中心的な役割を担っていたことを示す証拠でもある。

都市マハレにはそこの職業ごとに同業者たち(senf)の行きつけのチャイハーネがあるのがふつうであった。そこに集まっては見習い(sh?gerd)から一人前の親方(ost?d)になる職人仲間の通過儀礼や、新しい親方の認承式などが茶や菓子などふるまわれながら周囲の祝福のもとにおこなわれた。

伝統的なチャイハーネには語り部(nagg?l, morshed)がおり、かれはマハレに住む倫理的価値の模範となるような人であることが多かった。語り部は即興で、しかも臨場感あふれる語りによって聞き手を言語的想像力の世界に誘い込んでいった。

語り部の定番は王書からの抜粋による「英雄もの」(sh?hn?meh-kh?ni)であったり、シーア派第3イマーム・ホセインがカルバラの荒野でヤズィードの軍に包囲され悲劇の最後を遂げる「殉教もの」(shab?h-kh?ni)であったりした。この2つの語りはイラン人庶民の心情の琴線に触れる物語であり、2つの極を大きく振幅するかれらのメンタリティを構成する要素でもあった。

しかし、各マハレにはタキエ(takye)のような宗教文化の拠点が別にあったため、殉教ものはそちらで語られ、演じられることが多かったため、庶民文化の拠点であるチャイハーネでは、なにものをも恐れず勇敢に戦う王書の中のロスタムのような英雄もののほうが好まれた。

チャイハーネの主人は強靱な肉体と義侠心ある者であることが多かった。困った者があれば相談にのり、難があれば一肌脱ぎ、ならず者の悪さがあれば相手を腕力でねじ伏せ、人の道を説き、寛容さを備えたマハレの名望家であった。多くは、各マハレにあるズールハーネ(z?rkh?ne イラン式古式体操道場)で鍛えた古参の者であったり、義侠心のある任侠の徒(l?ti-b?sh?)や旧軍人であったりした。

チャイハーネの壁には語りに関する絵が描かれていた。これは茶屋の壁絵(naqq?sh?-ye ch?y-kh?ne)という。イラン絵師の伝統のなかに、チャイハーネに長らく逗留し、寝場所と食事を提供され、そのお礼に壁に絵を描きながら放浪する貧乏絵師たちがいた。画材はチャイハーネの語りの中の伝説上の王や英雄のロスタムであったり、モハッマド、アリー、ホセインなどの宗教指導者であったり、また、放浪する托鉢僧(darv?sh)や実在したマハレの勇者(qahram?n, pahlav?n)であったりした。

これまで述べたような伝統的チャイハーネを、現在、町中で見つけるのは難しくなった。チャイハーネの語り部はテレビで説教するイスラーム聖職者へ、サモワールによる飲茶は安物のティー・バッグに、そして、燃料は木炭から都市ガスへと変わりつつある。しかし、形は変わっても、そこに出入りする庶民のメンタリティは今も生きつづけている。

(注1)「女たちの溜まり場」とは、女たちが夫の手前、比較的自由に出入りすことができる場所のことをいう、それは公衆浴場(hamm?m)や、木曜日の夕方によく行く墓参り(qabrest?n)(とりわけ、イラン・イラク紛争が激しくなり、若者の殉教者が多くなると母親は息子の墓に足しげく通うようになる)、聖者廟や大樹、岩穴、水のある場所など民間信仰の聖所(em?m-z?de, ziy?ratg?h)である。農村部ではカナート(qan?t)とかカーレーズ(k?r?z)と呼ばれる地下の導水暗渠から地上に流れだす水路沿いの水汲み場、洗濯場などがそういった場所である。

参考文献

1.角山栄『茶の世界史一緑茶の文化と紅茶の社会』、中公新書、1980年。

2.ラルフ・S・ハトックス著(斉藤富美子・田村愛理訳)『コーヒーとコーヒーハウスー中世中東における社交飲料の起源』、同文館、1993年。

3.ジャアファルシャハリー『19世紀のテヘラン庶民生活史』、レサー文化研究所、テヘラン、1990年。

追記

本小稿は1994年11月のイラン現地研修旅行の折り、学生たちと一緒に訪れたラーヒージャン地方の茶栽培、カーシェフ・オッ・ソルタネの墓標、古都イスファハンのザーヤンデルード河畔の茶屋、シーラーズのバーザール近くの古いチャーイハーネ、マルヴダシュト山谷平野の砂糖工場、それにテヘランの民族学博物館などの見聞をもとに、上記文献などを参考にまとめたものである。

(図1)茶の葉を採取する女たち(カスピ海沿岸ラーヒージャン地方) (図2)伝統的チャイハーネの内部(テヘラン民族学博物館)

初出誌情報

原 隆一1995「飲料:イラン チャイハーネ考」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第5号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.133-137.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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