葬儀:タイ

小泉康一

永い人生のうちには幾つかの節目のようなものがある。人間の一生において最も重要な節目。それが「死」にほかならない。人々が「死」について、行為の上でも理念の上でも死の意味を定義し、制度化するのは、どの集団も持っている文化、ことに多くの場合、宗教である。死の儀礼的解釈が、「葬儀の執行」である。

「葬儀」の目的はしばしば、「死者」が「死者の国」(あの世)へ旅立つのを早め、死者に「生者」を煩わさないようにと懇願することにある。と同時に、生者と死者の間にこれまでとは異なる絆が儀礼的方法により、新しく確立されることで、死者が生者を護り、祝福するようにするという願いが同じ位込められている。だから、死をめぐる慣習の根底には相反する二つの感情、つまり死と死者に対する恐れと、他方では死者との関係を永続させたいという願望が併存していると言える。「葬制」はこうした相矛盾する二つの考え方の妥協の産物だと言われている。

ところで死に伴う儀礼と言われるものは、(1)分離の儀礼、(2)移行の儀礼、そして最後に、(3)死者を彼(彼女)が新たに所属すべき世界に組み入れる儀礼、からなる「通過儀礼」で構成されている。

タイでの葬制は、その多民族的構成、その各々の社会・文化の多様性を反映して、実に様々である。また文化、とりわけ宗教の歴史的な重層性という問題がある。外来の大宗教(主にヒンドゥー教、仏教、儒教、道教……)は葬制にも強い影響を与えて、タイ独自の土着の葬制と混淆しつつ、一層の複雑さを加えている。ために、必ずしも両者の判別は明らかではない。タイでは、死をめぐる慣習の多様さは、こうした多くの要素と影響が地理的、文化的、歴史的に働いた結果として生じたものである。それゆえ画一的なモデルを示すことは難しく、また急速な近代化で習慣自体が変化を遂げている事情もあるが、本稿では時間の座標軸を少し大きくとって、今日広く社会一般に認められるものの、いわば「原型」とも言えるものを略述することとしたい。

項目的には、タイにおける「死や死後の世界についての観念」、「死者儀礼」、「死体処理の方法」、「遺骨保管」等について述べてみたい。なお、死者儀礼は広義には、既述の如く、死を契機として行われる一連の儀礼、従って葬制を指すが、本稿で死者儀礼とした時には、狭義に把え、「死」の解決のためのしかけとも言える、葬制の実際的部分を指すことにする。「肉体」と「霊魂」の二つに分けられた死者と、生者の間の関係が、死による不安定な状態から、正常な安定した状態へと到るプロセスを指している。

1.タイ人の死生観

タイ文化の中では、死後の生活に関する独自の観念が流布してはいるが、一般的にいって、「死」は究極的な終わりとはみなされていない。むしろ一つの世界ないし存在様式から、他の世界・様式への移行と考えられている。多くの場合、人々はこの世での「生」をあの世でも繰り返すものとされ、「あの世」は「この世」との断絶ではなく、連続性において把えられている。だから、後述する「死に方」が、死後の霊魂に影響を与えるという考え方も、生の最後の状態が死後のあり様を決定するという、生死の連続性において説明できる。

タイ人が恐れるものに「ピィー」(悪霊・死霊)がある。ピィーにまつわる話は、いざ述べる段になるとこれでなかなか厄介である。簡単には、しかばね人間が死んで、「屍」と化す。その屍こそがピィーにほかならない。この亡霊は、死体や生者のまわりをうろつくのが好きなので、追い払い、戻ってくるのを防がねばならない。タイ人は正直なところ、ピィーに戻ってきてもらいたくはない。

ところでタイの人々によれば、ピィーは人間からお追従を言われることを無情の悦びとしている。ほめ言葉を耳にするのをことのほか、好むのである。とにかく機嫌さえとっておけば、生身の人間に悪戯を働くような真似はしない。人は死して後、なおもこの世に在って俳徊を続けるが、それもしばらくの間のこと、やがては別の世界へと赴く。そのためにも、ピィーの怒りを買うことのない様、ここは大いに畏れ敬っておかなければならない、という。

肉体と霊魂、あるいは「見える世界」と「見えない世界」の二元論に基づいたタイの人々のアニミズム的な世界観の中では、肉体的な死の後、肉体から抜け出た死者の悪霊に何らかの処理を与えることで、死に解決をもたらす事が、最も重要な観念的関心となっている。

2.死者儀礼

①延命儀礼、絶命、浄め

ある人に死期が近づいたのを認めると、タイの人々は厳密な手順に従い、様々な儀礼を一通り、執り行う。当人に助かる見込みがないという時、人々はまず「延命」のための儀礼を行う。僧侶を招き、「七知」の経文を読経してもらい、延命祈願の儀試を行うのである。儀式を行うこと自体が善行とみなされる。死に赴く者は、最後の功徳積みをする機会に恵まれ、やがて訪れる死に備え、心の準備にとりかかるのである。

延命儀礼を営む際、特にバンコクでは、小鳥や小動物を放つ習慣がある。早晩、殺される運命にあるこれらの動物を待ち構えていて買い上げ、解き放つのである。人が息を引き取る間際ともなると、芭蕉の葉で作った円錐形の容器に花、線香、蝋燭を納めて、合掌させた手に懐かせる。死を目前にした人に、御仏の「三宝」に思いを至らせ、同時に御仏の住む天堂へと参拝できるようにするためである。

いざ絶命という時、看取る人は耳もとで「アラハン・アラハン」と繰り返す。臨終に際し、改めて御仏に思いを至すよう心を励まし、これから赴かんとするあの世に備えさせるためである。

息を引き取ると、蝋燭に火を点して、遺体の傍らにおく。点火した蝋燭が燃え尽きた時、確実に死が訪れたことを意味する。死者は仏陀が亡くなられた時していた様に、頭を北に向け、顔は仰向けにして横たえられる。

生前、故人が人々から敬われていた場合には、あらかじめ用意していたやや大きめの手拭い大の白布で、死者の足形をとる。時には手形、死面をとることもある。子孫の形見とするだけではなく、後に故人を偲び供養をするよすがともするためである。

遺体を前に、僧侶の読経用の台座が(しつら)えられ、台座に坐した四名の僧侶は阿毘達磨を唱える。これは「対の読経」(クー・スワット)といわれる。読経の際、一度につき一組の僧侶が対になり、これを相互に繰り返すためである。読経の美しい響きがとぎれぬ様、との配慮もある。

「死者」が生前、使用していた衣服は、特に必要のない限り、困窮者に分かち与えられる。世間一般、広く信じられているのは、死者の治療に使われた薬は全て処分せねばならぬことである。これらの薬は既に、ピィーに踏みにじられてしまっており、もう二度とは使えない。場所によっては、霊験あらたかな護符や呪術絵の類も屋外に出す。屋外に出すのを手間取れば、せっかくの霊力が台無しになってしまう。持ち出した護符等は寺へ持ってゆき、預かってもらう。あるいは呪術師のところへゆき、新たに呪文を唱えてもらい、聖なる息を吹きかけてもらう。

長患いの人が死亡した場合には、茣蓙(ござ)や寝台はそのままではいけない。引き続き使用したいのであれば、直ちに裏返し、敷き直し、枕許と足許を逆にしなければならない。

家屋もまた、すみずみまで洗い浮める。事情が許せば、家屋を取り壊すこともある。取り壊した家屋を寺へと運び、新たにまた建て直し、寺に献上する。積んだ功徳を皆で分かち合うためである。

②棺開き

次いで、遺体は「棺」に納めることになるが、その前にしなければならぬことがある。まず肝心の棺を造らねばならない。今日では既に、出来合いの棺が容易に手に入り、以下に述べる「棺開きの儀礼」にもお目にかかることはなくなったが、ここではあくまで習慣に従って述べてみたい。

棺造りは息を引き取ると同時に取りかかる。すなわち、「生霊」(クワン)が死滅するのを待って、棺造りに着手するのである。但し、家の中で造ってはいけない。家の中での棺造りを禁じているのは、それが不吉なためである。丸太の材木を家の中まで曳いてくるのが面倒なこともある。

造るには何日もかかる。棺は昔は、前蓋付きが一般的であった。これを「柩棺」(ローング)と呼んでいた。ほぼ正方形の形状なら「遺体容れ」(ルン・サイ・ソップ)、一方、口の開かないものは「棺桶」(ヒープ・ソップ)と呼ばれ、これは現在でも広く使われている。

また棺の材質であるが、地域によっては、チーク材の棺は不可とされている。チーク材は高価で、地方によっては入手が難しい上に、固く、細工が困難であったからである。一般には、ギウの樹が棺の製造には多く使われた。材質が柔らかく、伸縮性があり、軽いためである。いずれにせよ、棺造りは以前は大仕事だった。人手も馬鹿にならず、大勢の人々に声をかけ、手を貸してもらう必要があった。

棺が出来上がると、いよいよ「棺開き」にとりかかる。まず竹を切り出して来て、小片に裂き、四段からなる梯子を作った。この梯子は後で、棺の縁にさしかけられる。次に、小刀を用いて、棺上部の縁に三度、刻みをつけた。まず真中に刻みをつけ、次に左、右の順に刻む。時には刻みを×印の形にする。どちらが遺体の頭になるか、その目印とするためである。またほかには、棺に傷をつけることで、ピィーにこれ以上の手出しをさせまいとする考え方による。タイの人々によれば、物が棺ともなると、ピィーは先を争って中へ入り込もうとするからだ、という。

棺開きが終わると、この後、棺を持ち上げ、家の中へと運んでくる。バンコクの習慣では、棺の中へ石灰、茶の葉、粉うこん、サケー樹(パンの樹)、ファラン樹(バンジロウ)、更には籾殻の燃えかすや、馬糞紙等のうち、いずれかを一緒に収めているのがみられる。遺体の臭いを消すためである。

③遺体浄め

死者に対してまず為されるのは、「遺体浄め」(アープ・ナム・ソップ)である。慣習に従えば、土鍋で湯を沸かすことから始まる。次に木の葉を集めてくる。葉の種類は何でも良い。葉を土鍋に入れ、煮たてる。やがて湯が沸くと、鍋ごと持ち上げ、三脚架にのせる。この儀礼は最初は湯で行うが、二度目は水を使用する。続いて、マクルート果で遺体を拭い、不浄物一切を取り除く。そして採りたてのうこんの根とマクルートの果皮を石棒ですりつぶし、遺体にくまなく擦りつける。死者がこの世の穢れという穢れを全て洗い流し、清浄にして無垢の体にして他界に赴く準備をするためである。遺族の人は死者の顔を椰子の果汁で洗い清め、後、金紙銀紙で顔を覆う。

遺体浄めがおわると、髪に櫛を入れる。しかし死者には死者流の梳き方がある。梳くのは三回のみ。通常とは違う逆梳きで、生者との間に明確な一線が設けられる。頭髪を整えると使った櫛は、お役御免。真っ二つにして投げ捨てる。時には捨てずに棺の中へ入れることもある。死者の髪を梳いた櫛を、人はことのほか、忌み嫌う。

ところで、死人が出てもすぐに夜を迎えて、遺体の後始末が間に合わないときもある。その時には、遺体を布で包み込み、一晩中、その傍らに控えていなければならない。万が一にも、猫が遺体を跳び越えたりしない様、見張っていなければならない。猫がもしも、遺体をまたいだり、跳び越えたりでもしようものなら、遺体はむっくりと身を起こす。そう信じられているのである。なぜなら、猫はある種の霊力が備わっていると信じられ、その霊力が死体を起き上がらせるのである。それでなくとも家の中の遺体というのは、いまだ棺に納められず、わずかに布で覆われるだけという無防備な状態である。窓はだからきっちりと閉じ、周囲に壁がない時には蚊帳を吊って、遺体を覆い防護する必要がある。

④死装束

次に、死者にふさわしい「死装束」を遺体に施す。死装束とは死者が身にまとう白布のことである。死者には死者にふさわしい装いがある。そうした装いをしてこそ、はじめてあの世へと旅立てる。

まず腰布(バー・ヌング)を腰に巻く。その際、腰布についた物入れは後部にする。腰に白布をまとうのは、死者が純粋にして無垢な人間であり、かつウバソク、ウバシカの如く、仏陀を篤く敬い、自己を律する厳しい者であったことを表すためである。次に、白の上衣を着せる。同じく留めボタンのついた方を後部にする。上衣を着けないなら、肩衣(パー・ホム)を右肩から左胸にかけて斜交いにかける。そして上下にわたり死装束を着けおえると、今度はその上に重ね合わせて同様のものを一組、上下に着せる。ただし、今度は後ろ前にはしない。生者と同じ普通の着せ方である。

死装束を二重にするのは、おそらく後年の慣行であろう。物資が不足した昔には到底、無理な話である。また一口に死装束をまとわせると言っても、その実態は地方によりまちまちである。例えばイサーン(東北タイ)では、死装束はいずれも仕立ておろしの物を用いる。腰布は勿論、肩衣に到るまで新品を使う。但し、一寸違うのは、衣服は上下ともに傷をつけることである。心もち布を切り裂き、新品の衣服を敢えて傷物にしてしまうことである。

死装束を後ろ前にして着用させる、あるいは傷をつけるというのは、いずれも「ピィーの使用品」だからである。先にみた、死者が横たわっていた茣蓙や寝床を裏返しにするにしても、いずれも生者とは正反対のものや、相違する点を打ち出そうとするためのものであった。同じ意味で、道具にせよ、衣服にせよ、ピィーのものであれば多少なりとも、傷を与えておかなければならない。何から何まで逆さまにしなければならないのである。

⑤金銭含ませ

死装束を着けおわると、檳椰子(びんろうじ)()き砕いて死者の口の中へ入れる。身分の上下、地域差などに無関係に広く行われている慣行である。入れたら今度は頃合いをみて、口の中から取り出してやり、口の周りを拭いて浄めてやる。死者もまた生者と同じく、檳椰子を食するものと思われているためである。

また死者の口の中に金銭を含ませる。金銭(もしくは品物)を死者の口の中に含ませるのは、霊界(ピィーの国)へ赴いた時、死者が金銭に不自由することがあってはならない。そのためである。貨幣は1バーツ貨でも、またそれより小さいサルーン貨でもよい。中に入れる金額にはっきりした取決めはないからである。貨幣は白布で包み、紐で結ぶ。包みを結ぶ紐はできるだけ長く垂らし、先端を死者の口から出しておく。後に遺体を荼毘にふす時に、容易に包み(貨幣)を取り出せるようにするためである。取り出した貨幣は形見として、あるいは護身具として大切にされている。

⑥副葬品

イサーン地方では、死者が生前用いていた日用品や道具類を死者とともに葬るのが習わしである。例えば、竹かご、小刀、鋤……等々の類である。これらの品々や模造品は、死者が死後の世界でも利用できる様、焼かれたり、壊されたりする。悪霊(ピィー)には死霊の世界があるが、それでも人間界と同じように生活があると信じられているためである。ただし、ピィーの品物にはそのどれもが、必ずどこかに破損が有るよう細工しておく。

そこには、副葬が持つ意味の「二面性」がみてとれる。すなわち、死者の死後の生活上、想定される様々な必要品の供給を通じて、死者を早く目的地へ到着させることを目指すと同時に、反対に、死者を追い払い、戻ってくるのを妨げようとする意図が含まれているからである。

なお、これらの品物は後述する「遺体運び」をおえて、棺を火葬台上にのせた際、棺の傍らに置かれたり、また墓穴の縁に並べられたりしている。

⑦納棺と供養

遺体を持ち上げて棺の中に納め、蓋をぴったりと閉ざしてしまうと、ここで前述(2.-②参照)の四段からなる梯子を棺の縁にさしかける。四段からなるこの「死者の梯子」は、死者が天国へと昇って行けるよう、そのための階段である。

遺体を棺に納めると、とりあえずは家に安置する。この時、先に供養を営んでもよい。あるいはそうせずに寺へと運んで行ってもよい。またすぐに埋葬したり、火葬にすることもある。

いずれにしろ棺の頭は、西向きになるよう注意する。タイ語で「西」は、タワン・トック。つまりは太陽が沈み、「落下する」(トック)につながる。西は、死の方角である。死者の頭は西へと向けられる。

遺体を安置しているその間に、一組四名の僧侶を招き、阿毘達磨の読経をあげてもらう。その際、施主はまず最初に線香、蝋燭に火を点し、供物をそなえた後、僧侶の授戒をお願いする。そして棺の側面を叩き、死者に戒を受け取るよう告げる。僧が戒を与えおわると、今度は読経が始まる。夜半におわるか、夜を徹するかは施主の判断次第である。

死去の日から数えて三日の間は、水を膳にいれて、朝、夕の二回、棺の傍らに供える。これが死者への「供養」に相当する。供養のための供物は一品につき、ほんの小量でかまわない。御飯にしても、汁物にしても、少しあればそれで十分である。供養のたび毎に、棺を三度叩き、死者に供物を食べるように告げる。供物は一時間ほど供えた後で、下げる。供養は本来、死者に対する尊敬の念、哀惜の情を表現する行為であり、これが死者供養へと向かわせる。死者が供物を口にするか否かは、全く別問題である。

⑧葬式(狭義の葬儀)

葬式(ンガーン・ソップ、死者を葬る式典)の案内は、イサーンでは太鼓を叩く。耳にした人は連れ立って葬儀に出掛けて行く。故人を知ろうが知るまいが、どうでもよい。葬儀に参列し、故人の死を悼む、その気持ちが大切である。またそれだけで、充分の徳(プン)が身につく。殊更に案内を出すこともないし、告げてまわることもない。

同地には「ンガーン・ファン・ディー」(めでたい家のめでたい行事)というのがある。ある家に死者が出ると、その家は「ファン・ミー・スック」(めでたい家)と呼ばれる。弔門客も葬式に行くとは言わず、代わりに「ンガーン・ファン・ディー」へ出掛けると言う。その家には、親戚兄弟は無論、近隣の人々が押しかけ、愉快に浮かれ騒ぐのである。沈みがちな気持ちを皆で吹き飛ばすのである。ただし、これは遺体がまだ家の中にあるときで、ひとたび火葬にしたり、埋葬後はそうは言わない。不幸は不幸である。

ところで、式に出てもらうべく告げるべき人はいる。故人とは日頃、折り合いの悪かった人である。これを機に一切を水に流し、仲直りしてもらわねばならない。死者の霊も慰められる。いずれにしろ、人々は進んで出向いてくる。これを機に皆が寄りつどい、ともに語り合う。人々は連帯意識を確認しあう。葬儀の重要な役割の一つがここにある。

3.遺体運び

今日では屋内で長期間、遺体を保存できるようになったが、以前は遺体をそう長く家の中へ置いておくことをしなかった。むしろ、できなかったと言ってよい。もし何らかの事情があって、どうしても家の中に安置しなければならないとしても、せいぜい三日が限度であった。それ以上無理をすれば、遺体が腐敗してしまう。棺の中に納めて、密閉するとしてもやっぱり限度があった。加えて、なるべくなら、棺など手許に置いて置きたくないのは人情だろう。寺なら、すぐ近くにある。寺に運んでいけば、預かってもらえるのである。だから死ねば直ちに寺へと運んで行った。後は遺体を火葬にしたのである。

但し、預けるとは言っても、遺体安置所に引き取ってもらうのとはわけが違う。寺まで運んだら、大抵の場合、すぐに埋葬してしまう。もし埋葬しないなち、その時は屋根をニッパ椰子や茅で葺いた高床式の仮小屋を建てて、とりあえずはそこに遺体を安置した。

今日では何日にもわたって、遺体の保存ができるようになった。棺には蓋がついているが、七日の間は開けたままにしておく。万が一にも、死者が息を吹き返さないとも限らない。せめて七日の間は蘇生を待とうということになった。このため一般には、棺の口にわずかに布をかぶせて、済ましているのがみられる。

①出棺

出棺に際しては、いろいろと細かい取り決めがある。まず遺体を家の戸口かち運び出す事ができない。家の壁を取り壊して、そこから遺体を運び出す。戸口からの出棺を禁じているのは、ピィーが再び家に舞い戻ることのない様、これを防止するためのものである。通常、人が出入りする戸口や階段を用いるのは不吉な事とみなされている。なぜなら、そこは生者の出入りする所だからである。

また家屋の(はり)をくぐり抜けて運び出すのもいけない。イサーンの習慣では、梁の下を通り抜けて遺体を運び出すのを厳に戒めている。敢えてこの習慣を破り、梁の下を通りぬけようとすれば、「ピィー背き」(ピット・ピィー)とみなされる。

ところで、壁ならどこでも良いと言うわけではない。家の中に安置してある遺体の、その頭部の方向に当たる壁を打ち抜いて出口とするのである。壊すと言うと、何かおおごとのようだが、以前の家屋は壁といっても名ばかり、草と木の葉で仕切ったものが多く、深く考える程ではなかった。

打ち抜いた壁から遺体を運び出す時には、まず芭蕉の樹幹を使って、3段の仮梯子を作り、これを家に立てかける。この事が、現在にあっても普通の梯子を用いて、家屋から遺体を降ろすという慣習として、引き継がれている。遺体を降ろす際には、遺体の先導役を務める人がいる。その人は遺体が降ろされるのを待って、梯子の最上段に駆け上がり、足で思い切り踏み付けて、梯子を壊してしまう。遺体の担ぎ手達も、それにならって梯子を踏みつけ、バラバラにしてしまう。こうすればピィーも、もう二度と再び家に舞い戻っては来れない。つまりはピィーの目を誤魔化すための行為である。

②森の門

戸口から遺体を運び出す前に、まず作らねばならぬものがある。「森の門」(プラトゥー・パー)である。別名「ピィーの門」(プラトゥー・ピィー)ともいう。材料は伐り取ってすぐの小枝を二本、戸口に結わえつける。突き刺してもよい。その際、遺体が通り抜けられる様に、小枝の先端をつなぎ合わせ、弧を描くようにする。そして一旦、遺体を運び出したら、その小枝は取り外し、捨ててしまう。あるいは、その小枝を折って、棺の上にのせてもよい。

森の門を作るのは、ピィーが再び家に舞い戻ることを防ぐためである。ピィーには戻って来てもらいたくはない。そのために森の門を設けて、(いばら)を敷いたり、その他様々の算段・工夫をするのである。

「ピィーの門」と呼ばれる理由だが、これはその方角に限ってのみ、遺体を運び出すことが許されたことに由来している。その昔、「くにの城壁」(ガムペーング・ムアング)の城内に出た死者を火葬するには、遺体を城壁外へ運び出す必要があった。その方角の門を人々は、ピィーの門と呼んでいた。正式の名称は、「人民の喜悦の門」(プラトゥー・サムラーン・ラーサドン)である。そしてその方角から運び出した遺体のみが、しかるべき場所で火葬にしたり、埋葬に処せられた。

その他、遺体を運び出す際に用いられるものに、「鍋叩き」(ティー・モー)があるが、同様に死霊の眼を欺くことが、その狙いである。

③行列

死者の家から出て、死体処理を行う場所に行列して行く仕方にも、同様に細かな取り決めがある。棺の滑り止め用に、人々は担ぎ棒に切り込みを入れ、溝を掘る。棺の運搬では、紐は一切、用いない。

慣習では、遺体の頭部を前にして運ぶ。イサーン地方ではこれが逆になり、遺体の足を先にして運ぶ。遺体の足を先にして運ぶのは、前述の森の門を作る話と相通じるものがある。ともにピィーの目を欺いて、家への帰り道を忘れさせる処置である。

行列は棺の頭部から延ばされた霊糸(サーイ・シン)を手に、僧侶が遺体を先導する。道中にわたり、炒米(カーウ・トォーク)あるいは白米または花びらを(

)き散らす人を手配しておく。イサーンでも炒米の鍋を用意して、道すがら撒き散らしながら進む。人々の話では、こうすれば道端で待ち受けるピィーの一団は炒米を掻き集めて食べるのに夢中になり、棺の上に乗りかかるという悪戯までは到底、気がまわらないから、という。もしピィーが乗りかかりでもしたら、棺は石のように重くなり、担ぎ手は大いに難渋する。一方、北タイのチェンライでは、家から遺体を運び出す時には、小銭を撒いているのがみられる。

さらに道中、遺体を真直ぐに運んで行ってはならない。目的地たる火葬場(もしくは埋葬の場)まで、道をジグザグに進んで行く。担ぎ手はまず左の方へ移動し、次に右の方へと移動する。目的地到着まで、ずーっとこれを繰り返す。これならピィーといえども、酔っ払って意識が不確かとなる。そして遂には家への帰り道を忘れてしまう、そう信じられているのである。

なお道中、棺を路上に置いたまま、休憩などとることは厳禁である。人目もある。天下の公道で休憩をとるなど、とてもはばかられる。他人の門前、敷地内に棺を勝手に置いたら、その家の人が黙って見ている筈がない。余程の事がないかぎり、一度担ぎ上げた棺を降ろすことなどはありえない。

4.死体処理の方法

実際の死体処理は死の始まり、あるいは死が差し迫っているという予想とともに既に始まっている。葬制のうち最も明白な要素である。死体処理は狭義の葬法である。タイでは、タイ系、ムスリム系、華人系等と様々な死体処理の方法があり、その方法は、社会的・文化的相違で異なっている。例えば特別な社会集団、身分、性、業績、社会的地位、そして死に方……等々。

タイでは、火で死体を破壊する方法(火葬)が広くみられる。「火葬」は言うまでもなく、アジアでは大陸部を中心にインド文明が及び、ヒンドゥー教もしくは仏教を受容した地域で行われているが、タイの場合、火葬の手順の詳細、すなわち場所、時、燃料などは伝統によって規制されてきたが、近代ではさらに衛生上の規制が加えられている。

①死者布かけ

遺体を寺まで運んで行くと、供養を営むべく、ひとまずは亭(サーラー)に遺体を置いて、小憩をとる場合が多い。バンコクでは仮設の「遺体囲い」にまで、遺体を持ち運んで行かねばならない。ここで僧侶の説教や読経が行われる。小憩とは言え、きまりは何もなく、遺体を亭に据えたまま、一晩、二晩そのままにしておくこともある。

さらにこの場所で、棺の蓋を開けて、遺体を傾けるようにして取り出すと、僧に臨席してもらい、白布を使った「死者布かけ」の儀礼を行う。おわると、遺体を持ち上げ、棺へと納める。

現在、バンコクでみられる「死者布かけ」の慣行では、棺の蓋の上に布をさしかけることをいう。火葬にするその直前、火葬台上にのせた棺の上蓋に、この死人布をかけるのである。地位の高い人、名誉ある人物を招いて死者布かけをしてもらうのが常である。親戚一同が各々、布をかけ合う場合もある。

②三回めぐり

亭での仮安置をおえると、ここで棺を持ち上げて、火葬台の周りをめぐる。人々は火葬台の周りを左から右へと三周する。特定の物の周囲をまわるのは、その対象物に敬意、恭順を表し、崇め讃える行為に由来している。この行為の元来の意味は不吉なもの、邪悪なものを駆遂、一掃するためであったが、後年、意味が次第に拡大されて、「吉祥」をもたらすものとして行われるようになっている。また「三界」での絶えざる輪廻と転生から解脱し、涅槃の境地へ導くとも説明できる。

三回めぐりがおわると、棺を火葬台に向け、三回打ちつけた後、火葬台上へと持ち上げる。薪を積み上げた火葬台は、正方形の形をしている。遺体の頭部は西方へと向ける。喪主は火葬台めがけて、昔は33コの子安貝(ビア)を投げ捨てたものだが、今では小銭に代わられた。小銭の数は常に奇数である。

③遺体傾け

以前は火葬にする時、まず遺体を傾けた。手取り早く言えば、遺体が早く焼けるようにするためである。時間がかかれば、多量の薪がいる。正方形の火葬台では中央部だけが焼け、棺の頭部と後部が飛び出し、火が十分にまわらない。そこで人々は棺の底に穴をあけた。

現在ではもう、火葬前の遺体傾けの儀式を見ることはない。火力の強い焼却炉に柩ごと入れてしまう。だから、この慣行は辺鄙な地方に限られてしまった。なお、この儀式中では、十分に熟れた椰子の実を割り、その果汁で火葬前の遺体の顔を浄め、注ぎかけることが行われている。椰子の果汁は幾層もの表皮におおわれて、非常に清いものである。清いもので不浄な物を拭うという意味合いだが、バンコクではもうみられない。

薪に点火する時は、貰い火はいけない。遺体が火葬された後は、必ず夕べの読経を行う。不吉を祓い、吉祥を呼び込もうとするためである。

④帰路

火葬がおわり、人々は帰路につく。まず何をおいても手を洗う。あるいは水浴びする。身についた邪悪なもの、不吉なもの一切を奇麗さっぱり洗い落とし、再び吉祥を呼びこもうとするためである。水浴がおわるとようやく、家に上がることができる。

地方では、人々は竹製の水吸器(クル)に水をいれておき、随所にその水吸器を置いておく。火葬をおえて帰路につく人々は、中の水をすくって顔や頭を洗い浄める。所によっては、寺の境内の池で水浴びをすることもある。腰布をつけたまま水をかぶり、そのまま着がえず、ずぶ濡れのまま家へ帰る。

火葬場で身に付着した「臭い」も消し去る必要がある。臭いで、ピィーが後をつけて来るともかぎらない、人々はそれを恐れたのである。人々はそこで火葬場に背を向けたまま、地面に×印を書く。木の枝でも、足でもよい。また他には地面に線引きする場合もあるが、これは線を「河」とみなすためである。地方によっては、わざわざ遠回りして帰る。まっすぐに帰りでもしたら、それこそ死霊に帰路の道順を覚えられてしまう。

昔は若い妊婦が火葬場に出掛ける場合、着ている服に針を留めて、その身を護るお守りとした。ピィーが妊婦の腹の中にまで進入するのを防ぐためである。

⑤寺の遺体保管所

ところで死亡したからといって、すぐ火葬にするわけでもない。身分により異なるが、数日から、1年後に火葬する(第二の処理)。3年から5年後のこともある。昔は遺体を腐るままにしていたが、今では防腐剤を使って、寺の「遺体保管所」(パー・チャー)におく。故人との別れを惜しむためである。埋葬の形で保存されることもある。

死体処理の第二段階、つまり火葬は「喪」(トゥック)の期間の終わりを告げるものであり、また同時に死者の魂を最終的に死者の世界へ組み入れ、喪に服していた人々を再び生者の世界へと組み入れる通過儀礼となっている。死者の霊魂は他界に安住の地を見いだすことで、この世から分離され、生者は日常生活に戻るのである。

⑥火葬の忌み日

火葬には「忌み日」がある。上半月(白月)であれば偶数日、下半月(黒月)なら奇数日に火葬は禁物である。「ピィーが人を焼く」と言われるためである。その他、種々厄介な取り決めがあるが、要は火葬は奇数日に限られていることである。曜日で言えば駄目なのは、火、木、金。火曜日は「勇猛の日」だから駄目。もしこの日に火葬すれば、ピィーが猛り狂って何をするかわからない。木曜は「師の日」(ワン・クルー)にあたり、この日は不吉なことは一切慎まねばならない。金曜日(ワン・スック)。この日は幸福(スック)を告げる曜日だから駄目。無論、金曜と幸福の同音であるタイ語のスックは意味は違うが、発音では全く同一。そんなことから金曜は幸福の日となった。火葬は、折角の幸福日に不幸、不吉を招き入れることになる。

「仏日」(ワン・プラ)にも火葬は認められない。形が如何なるものであれ、仏日に生命を奪うことなど、もっての外である。現在ではさすがにもう、こうした習慣にこだわる人も少なくなってきた。現代の人々は一般に、日曜日を選んで火葬している。休日でもあり、親族や友人一同が集まるのに何ら支障はない。大事なのは、事が具合よく運ぶかどうかのようである。

⑦非業の死、幼児、妊婦の死

非業の死を遂げた人の遺体は、火葬にすることはできない。また形式の如何を問わず、葬式それ自体、行うことが許されない。またこのほか、死者を火葬にしない事例には、幼児、妊婦などの例があげられる。昔は幼い子供の遺体は火葬より埋葬の方が多かった。イサーンの慣習では、齢10歳に満たない子供が非業の死を遂げたり、またコレラや天然痘などの疫病で一命を落した場合には、遺体の火葬を禁じ、即座に埋葬する決まりであった。埋葬後、掘り起こし、火葬にすることも禁じられた。もしそんなことをすれば、いかなる災厄が身にふりかかるやも知れない。曰く「寝ているピィーに余計な手出し」なのである。

ちょっと外れるが、以前は貧乏人や罪人の遺体は遺棄され、禿鷹のついばむのに任せられた。わざわざ遺体を切り刻み、ついばむのを容易にすることもあった。

5.遺骨保管

タイ人は墓を持たないと言われる。代わりに、裕福な人、社会的身分のある人なら、寺の中の塔(チェディー)の壁面の目の高さの所に、名票を付ける。また遺骨は火葬後、肉親が主だった骨を拾うが、後は河に流してしまう。骨は骨壷に入れて、自宅におく。墓が元来、死者の家であってみれば、骨壷もまた死者のための住居である。壷の中にはかつて亡くなった人の骨が既に納められているが、かまわず混ぜて納めるか、あるいは袋に入れて別にして一つの壷に納めることもある。火葬後、タイの人々は遺骨に余り頓着しない。なお、中国系タイ人は「土葬」だから墓があるが、これを別とすれば、タイの墓制は一貫した制度的モデルはないようである。

昔は埋葬地あるいは火葬地、それ自体もかなりの広がりを持っていた。今日のように寺で遺体を火葬するのではなかった。昔の火葬(今日でも一部の地域で)では、火葬場とは言っても、特に寺の中に付設されていたわけではない。言わば、有って無きが如き状態であった。昔は寺と埋葬地、火葬場とはそれぞれ場所を異にし、両者の間に直接的な関係は何もなかった。そもそもは特定の森を選び、遺体を火葬にしたり、埋葬の場所として使った事に由来している。今日のように、必ずしも寺の敷地内に限られていたわけではない。

6.七日供養

バンコクの習慣では現在、死去した日から数えて7日目に遺体を前にして、供養が営まれ、これを「七日供養」と言っている。

しかし元々は、遺体を火葬にしたその日から数えて7日目に「供養」(タム・プン9を営んでいた。7日目を迎えると、ピィーが待ちかねたように家に舞い戻ってくる。このために生まれたのが七日供養である。なぜなら、昔は先述のように、遺体を家の中に3日以上置いておくことが、まずなかったからである。ところが、火葬より数えてのこの七日供養も、最近では上記のように死亡日より数えて行われる「七日供養」と混同されることが多くなってしまった。死亡日から数えて供養を営むのは本来、中国、ベトナムの慣行であり、タイではプーマ五世の御代(在位1868-1910年)から始まったと言われている。

なお七日という日を待たず、遺体を火葬にすることもある。その時は火葬に処したその日から数えて、7日目に行うのが正式である。その他、「三日供養」というのもある。三日供養をするなら七日供養をするには及ばない。しかし一般には、まず七日供養である。三日というのは死去して間もないし、気ぜわしい。何かと準備もいる。遺体を寺へと運び、預かってもらうのなら、七日供養もまた寺で行われるのが普通である。他方、「五十日供養」、「百日供養」といったものは、タイには特にない。

参考文献

ピア・アヌマーン・ラーチャトン著、小泉康一訳註『タイ民衆の生活~伝統的世界・近代的世界~』財団法人日本タイ協会、1982年

ピア・アヌマーン・ラーチャトン著、森幹男訳『回想のタイ 回想の生涯 中巻』井村文化事業社、1983年

ピア・アヌマーン・ラーチャトン著、森幹男編訳『タイ民衆生活誌(2)』井村文化事業社、1984年

初出誌情報

小泉康一 1993「葬儀:3.タイ」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第3号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.144-155.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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