飲料:台湾―台湾の飲物の変遷

小島麗逸

1.日本統治時代

日本統治時代は都市人口は限られ、大部分が農村居住者であった。農民たちの飲物は涼茶と総称される特殊な草木からとっていた。地主階級でも茶を飲めたわけではない。この点は日本の戦前の農村と大同小異であった。ただ、日本の農村では自給用の茶の木があり、自家製茶を飲んでいた比率はかなり高い。

筆者は香港で涼茶を飲んだことがあるが、台湾出身の友人に聞いたところ、ほぼ同一のものではないかという(1)。仙人茶と呼ぶ草の芽から精製したもので、日本のくず餅のようにして、シロップをかけて飲んだという。香港の涼茶は日本のゲンノショウコのような味がし、若干の苦みがあった。香港でも台湾でも、夏は蒸し暑く、体力が消耗する。これを補うために、土着の飲物がいくつか開発されていた。他に、グアバの木の葉から作られた茶はかなり飲まれていたという。農家の庭先に必ず植えてあった。第2次世界大戦後はタイからグアバが導入され、これを基礎に在来のものが品種改良されたと聞く。

さらに、中国の華南地方や香港と同じように、砂糖キビを搾ってそれを飲んだ。糖分は身体の消耗を回復させるには最もよい成分である。但し、農民が使える砂糖キビは表皮が紫色の brown 種のみで、砂糖精製用の一般の砂糖キビは食用に使えなかった。これは台湾の日本総督府が製糖資本用に原料をすべて確保させる法的措置を取ったためである。ちょうど日本国内のタバコ栽培農家はタバコを生産するがその葉を加工して、自給用に使うことができないのと同様である。

台湾は日本と異なり生水は飲めない。砂糖キビジュースはそんな国土の中で、初期資本主義の浸透によって定着した砂糖キビ栽培から開発された飲料といってよい。

では工業的に作られた飲料は全くなかったかというと、さにあらず。1925年に日本国内製の‘三つ矢サイダー’や‘富士サイダー’が輸入された記録はある(2)。しかし、これは高級品で、都市住民と言えども日常的に購入できるシロモノではなかったため、ほとんど普及しなかった。工業製品としての飲物が入り始めるのは1960年代からである。

2.島内産果汁の登場(3)と日本を追跡

1960年、国産の野菜ジュース、果物ジュースが初めて台湾の飲物市場に登場。マンゴー、パイナップル、オレンジなど国産原料を用いたジュースである。果物の直接消費から加工品の消費という1つの発展が読みとれる。

1968年には、コカコーラとペプシコーラ資本が台湾に進出、TVで大々的に宣伝することにより、またたくまに、飲料市場の一角に食い込むことに成功した。これにより、1950年代から出ているサイダーなどの炭酸飲料、60年代に出た果汁とコカコーラやペプシコーラの外資系飲料の三つ巴の市場拠点がみられるようになった。とくに、コカコーラとペプシコーラのTV広告を通した販売方法が飲物市場に大きな影響を与えることとなった。

1978年に、台湾産の果汁ジュースに、アメリカから輸入した濃縮ジュースをブレンドして、mix fruit juice とし、これを紙容器で販売する方法が出現、毎年2桁台の伸びを示すに至った。容器革命が新しい製品を登場させ売り上げを伸ばした例である。

同じ頃、健康飲料と銘打ってスポーツ飲料が売り出され、これがヒット商品になった。

台湾の高度成長は1963、64年から始まっている。日本から遅れること数年である。それからすでに十数年を経た。所得は増大し、人々が多様な飲物を求めるようになっていた。スポーツ飲料のヒットは、入々の生活とくに都市の人々に時間的ゆとりが出始め、太極拳やジョギング、近代的な運動が人々の生活に根をおろし始めたことを意味しよう。

1980年代の後半にはさらに新しい現象がみられる。環境汚染の進行から天然水や蒸留水に対する需要が拡大。1988年には健康飲料として天然果汁に果物の繊維素を入れ込んだままの女性用健康飲料がヒットした。さらに89年からは甘味度を落とした低カロリー飲料が急速に市場拡大するようになった。

天然水から低カロリー飲料までのヒット商品は、台湾社会がある一定の成熟度に到達したことを意味する。女性が痩身さを求めシェイプアップする動き、スポーツをやれるだけの社会的余裕、環境汚染に抗する天然水ブームなど、いずれも日本社会が通過して来た道である。日本でヒットした新商品が大体4~5年のタイムラグをもって台湾で普及するという経過を経ている。

この動きは、経済発展の速度、所得の増大、労働時間の短縮などと緊密な関係をもっている。

日本の高度経済成長は1957、58年から始まっている。この成長は15、16年後の1973年の第1次オイルショックで終息する。この間、年率にしてほぼ9.8%ぐらいの成長であった。台湾の方は、1963、64年から高度成長に入り、じつに25年後の1987年頃、やっと鈍化し始めた。この間、第1次オイルショック後に2年間、1979年の第2次オイルショック後3年間、成長は若干鈍化したが、4半世紀の年平均成長率は9.5%であった。1992年には1万ドルを越え、高所得国の仲間入りを果している。この25年で、台湾社会を根底から変えてしまった。

1960年では、労働就業者統計から計った都市化率は50%、それが30年後の1990年には87.1%へと、日本の都市化水準を上回るまでになった。都市化は必然的に婦人の社会進出を促す。家庭内での飲茶風俗は縮小に縮小を重ね、新しい飲食文化を生むに至ったとみてよい。

3.日本との相違

しかし、日本の高度経済成長の問に実現した飲物文化と異なった歩みをしていることが2つある。

1つはコーヒーを飲む喫茶文化は台湾ではそれほど発展しなかった。台湾の都市には日本式のコーヒー喫茶店はあまりない。日本のコーヒー文化はどこに出自があるのか分からない。喫茶店では確かにコーヒーを飲むが、それが目的ではなく、社交の場である。社交の場といっても、居間の延長である。居住条件が貧しくて客や友人を家に招かないことが理由なのか否か確信はもてないが、とにかく、不思議な場である。ここは飲食分離方式が貫かれていて、食事をしたあと寄り込むところで、客との打合せと都市の一淀の空間を一定の時間だけ占有する場である。

中国の華南地方には、飲茶(広東語でヤムチャー)という店がある。香港では早朝からここが、朝食を取ったり、商談をする場である。朝食は中国茶を飲みながら、点心を食べるところだ。点心とは菓子と訳されるが日本で言う菓子ではなく、シューマイ、鮫子、春巻などをさす。中国茶を飲んでこれを食べると胃が眠りから覚め、1日が始まることを意味し、心に今日1日の活動の火が点するので、点心という言葉が生まれたとある中国人知識人から聞いたことがあるが、確かなことはわからない。このヤムチャーは飲食の一体であって、分離していない。

日本のコーヒーの普及は、飲食分離のコーヒー喫茶店から始まり、飲食一体の家庭内の喫茶を次第に衰退させていった。この点が台湾と異なる。台湾では、現在スーパーなどにインスタントコーヒーがみられるので、都市の家庭内に少しずつ入っていると思う。この点は研究に値する問題である。

2つめの相違は、缶ジュース、缶コーヒーなどの普及の度合いが日本よりかなり遅れていることである。日本では製鉄業が過剰生産になり、鉄の消費拡大のための容器革命が起こされた。従って鉄が安い。極端な話、鉄1kgと三浦大根1kgの値段を比較すると、鉄の方が安いのである。缶ジュースやコーヒー110円の中、缶の費用は日本では33%であるのに、台湾では40%以上であるという(4)。この差が缶飲料の普及を日本ほどにしていないことの理由であるかもしれない。しかし、すでに缶容器は出回っているので、いずれ日本のように至るところの自動販売機で売られるものと思われる。自動販売機は賃金のコストの上昇と逆比例して普及するからだ。

4.伝統飲料の茶の衰退

工業的飲料の進出に伴い、伝統的な茶はどのように変化したか。日本と同じ跡をたどり、今や衰退産業となりつつある。とくに、茶の原料葉生産がいけない。農業全体の衰退と軌を一にしている。図1に、炭酸飲料、果汁、茶の生産量と茶の輸出量の推移をみた。この図から一目瞭然、精製茶と茶の輸出量は1977年以後一貫して減少している。茶の生産量の減少は賃金の高騰と茶畑のかい廃、住宅団地化にある。このため、大陸からの輸入が急増している。1987年の精製茶輸入量は453t(同年の島内生産量は1万5,820t)、88年代は870tとほぼ倍増、89年は1,333万tと3倍増となった。1989年の島内生産量は1万2,702tであったから、輸入量は10%を越えた。

このように、伝統的な飲物の主体であった茶は生産国から輸入国に転化するのはまもなくと思われる。

この点も、日本が歩んだ道とほぼ同じ道をたどっている。高度成長が農業を衰退させるという鉄則が働いているのだ。

図1 炭酸飲料、果汁、茶の生産量・輸出量の変化

〔注〕

(1)立教大学戴国輝教授のご教示による。

(2)『中華民国経済年鑑』1991年版、277ページ。

(3)この項は同上資料による。

(4)同上、281ページ。

初出誌情報

小島麗逸 1995「飲料:台湾 台湾の飲物の変遷」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第5号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.113-117.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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