葬儀:エジプト

小笠原良治

生あるものにとって死は避けることの出来ぬ事実で、いかなる民族も悠遠の昔より、なんらかの形式によって肉親や関係者の死を悼み、その遺体を丁重に葬って来た。これは人類特有の生活習慣である。

五千年の歴史をもつエジプトでも、遠くファラオの時代から葬儀の際には香をたき灌頂かんじょうを行い、また葬列には胸をあらわにした泣き女達が、悲嘆のしるしに自分自身の頭や顔を叩きながら死者を悼んでその後に従ったことなどが『死者の書』や壁画などから分かるのである。いずれにせよ葬儀は、時や場所を超越して故人の死を悼み、冥福を祈り、生命の尊さ、生死の自覚を学ぶ場であるとともに、遺族を慰め励ます社会的行為として行われて来たのである。

さて、エジプトはイスラーム文化圏に属し、住民の多くはムスリムであるが、コプト派キリスト教徒もかなりの数生活している。そしてそれぞれに特別の習慣をもっている。ここでは大多数を占めるムスリムの死や葬儀について述べる。一般にイスラーム圏の葬儀は、基本的にはイスラームの慣行にのっとって行われるが、それぞれの地域によって多少の相違はある。エジプトではこの国古来の習俗とイスラームのならわしが結びついて発展し、今日の葬儀の形になったと考えられる。

ところで、正則アラビア語の「葬儀・葬列」という言葉「発音」はエジプトでは女達が喪家で亡き人を悼んで泣き叫んだり、彼女達自身の顔や胸を叩いて悲嘆を表現する(注1)集りのことを意味する場合もあるので注意を要する。しかしこのような場合はむしろ「発音」という語を使った方が適切である。

ときにエジプトでは不幸があると、その家の女性達が大声を上げて泣きわめく。これを「発音」または「発音」と呼ぶ。エジプト人の習慣として、悲喜の感情を誇張する傾向があり、それは女性たちの上に強く表わされる。その「発音」では亡くなった人の名前を泣きながら有らん限りの声を上げて呼ぶので、これを聞きつけた近所の人々がその家に集って来る。人々は口々に「アッラー・ヤルハムフ」(彼にアッラーの御慈悲あれ)(注2)、「インナー・リップ一ヒ・インナー・イライヒ・ラージウーン」(われわれはアッラーのもの、われわれはアッラーの御許に帰り行くものなり)と言いながら故人の家族と一緒に泣いてやるのである。余裕のある家庭では数人の「発音」(プロの泣き女)を呼びにやるのである。(注3)

悲嘆の表現の1つに、立派な人物が亡くなると、その家の女性達は皆、頭部を黒い布で覆い、顔に泥や藍を塗る習慣があった。これは古代エジプト人の風俗の名残りとされ、現在ではほとんど見られない。

ところで、故人がとても敬愛されていた人物であれば、女性達はベッドの覆いやクッションを黒く染め、絨毯や其座を裏返しにし、シャンデリアや燭台を黒い布で巻く。次に「発音」(死者の業績を数えあげ賞讃する女性)と呼ばれている女性達数名が招かれる。彼女達は最初に、故人が生前はどういう人物であったか、またどのような業績や徳行があって社会的地位はどうであったか等々詳細に尋ねる。この後、故人のそれらの業績や美徳を感動的な言葉で数えあげて賞讃し(注4)、聞き入る人々の心を激しく揺り動かして泣かせるのである。これらの女性はただの泣き女とは異って雄弁術を心得ているのである。その女性達の中にはタンバリンを携えている者もあり、その楽器を巧みに駆使した語り口に人々はしばしば、感極まって両手で顔や胸を打って慟哭する。しかし、今やこのような習慣も過去のものとなりつつあると言われる。

遺体は喪家で「発音」または「発音」(死体を洗い清める男)と呼ばれる者によって石けんと椰子の繊維の房で洗い清められた後、香油をふりかけ、白か緑の綿布で包まれる。金持ちの場合は絹やカシミアのショールで包んで棺に納められる。『アフマド・アミーン(1886-1954)自伝』によると、愛しい息子を亡くした場合などは父親が悲しさをこらえ感情を抑えて自分の手で亡き子の体を洗い、更に自らの手で埋葬まですると述べられている。

女性の遺体の湯灌は必ず女性の手によって行われる。それはウドゥー(小浄)の順序に従うとよいとされる(注5)

預言者はムスリムは死者を速やかに埋葬せよと命じているため、もし午前中に人が亡くなればその日のうちに埋葬され、午後か夜間に亡くなれば埋葬は翌日となる。これは、この地が熱帯地方に位置しているので、遺体の腐敗が早いためと思われる。

この後、棺はモスクに運ばれる。出来ればアズハルのフセイン・モスク、アズハルの近くにあるサイエダ・ザイナブ・モスク、あるいは旧カイロのリファーイー・モスク(注6)などのよく知られたモスクが好ましいが、それらが遠い場合は近くのモスクに運ばれる。

ここでいわゆる「発音」(埋葬の礼葬)が行われる。棺は右側をキブラ、すなわち、マッカの方角に向けて安置される。会葬者達はイマーム(導師)の後に、女達はさらにその後に少し間隔をおいて立ち、イマームの先導で礼拝し故人の冥福を祈る。この場合の礼拝は頭を深く垂れる「発音」や平伏「発音」はしない。死者は礼拝の対象ではないからである。この時、クルアーン(第55仁慈章26-27)『地上にある万物は消滅する。だが(永遠に)変わらないものは、尊厳と栄誉に満ちたあなたの主の慈顔である。』を朗諦し、最後に「アッサラーム・アライクム・ワラフマトッ・ラー(あなた方に平安とアッラーのお恵みあれ)」を唱える。

モスクでの行事が終わると葬列を組んで墓地へ向う。近親者や近所の男達にかつがれた棺を先頭にする場合、あるいは幾人かの目の不自由な人達が葬列の先頭に立つ場合もある。また故人と全く関係の無い人でも棺をかついだり葬列に加わることがあるが、それが非常な善行とされているからである(注7)

アフマド・アミーンは死者が生前に乗っていた馬があれば、その馬の尾を切って鞍の上に置き、棺の前を引いて行く習慣もあることを伝え ている。

カイロの墓地の多くは郊外の砂漠地帯にある。その中の1つムカッタム砂丘のそばにある墓地は「発音」(死者達の町)と呼ばれており広大な面責を擁している。そこには見渡す限り大小さまざまな廟や墓碑が立ち並んでいる。廟には人間が住む家と変わらないものもあるので、貧しい人達や犯罪者などがそこに住みついてしまっている。おそらくそれらの廟はかつてのトルコの大官や武人階級の大物の霊屋であったのであろう。

さて、墓地に向う葬列に加った人達は哀調を帯びたリズムにのせて信仰告白を詠唱する。「ラー イラーハ イッラッラー ムハンマドンラスールッラー サッラッラーフ アライヒワサッラマ」(アッラーのほかに神なく、ムハンマドはアッラーの使徒なり、おおアッラー、彼を祝福し救いたまえ)

この場合、女性の会葬者は葬列の最後尾について行くが、その中には例の泣き女達も大声を上げて泣きながら続いて行く。当然のこととして、葬列の長さは故人の生前の徳や業績、社会的地位などに関係がある。私はナーセル大統領と有名な文学者ターハー・フサイン博士の葬列を見たが、それはそれは長いものであった。

墓地では遺体が到着する前に入口を開けておく。遺体は棺台からとり出されて地下室に運ばれ、顔がマッカの方角を向くよう右側を下にして安置される。遺体の両脇に杖代わりになる木の枝を挟むこともある。それは復活の日に故人が立ち上がれるようにとの配慮からである(注8)

ゆとりのある家庭では遺体に高価な絹やカシミアの織り物を巻くが、埋葬の際、墓堀り人がそれらの布を引き裂いてしまう。これは墓盗人や貧者による墓荒しを避けるためである。埋葬後、集っている人々に水やパン、あるいは屠殺した水牛の肉などを配ることがある。これは「発音」といわれ、故人の軽い罪を贈うと考えられている。

墓は聖人の廟や、かつての王侯のもののように豪華なものもあるが、一般には一家の墓地を煉瓦塀や鉄棚だけで囲ったもの、あるいは埋葬されている死者の頭部に当る部分に墓碑を立てただけのものが多い。私は親しいエジプト人と彼の家の墓地を訪れたことがある。そこは煉瓦塀に囲まれた6坪くらいの場所で、何も置かれてはいなかった。彼はその一隅に幅1メートル、長さ2メートルくらいの長方形を描き「この下に私の父がねむっている」と言った。

埋葬の夜は「発音」(悲嘆の夜)と呼ばれる。その夜、喪家では夜通し火をともし香をたき、幾人かの「発音」(クルアーンの読み手)によって、クルアーン(第67アルリハルク大権章)が朗諦される。また家によっては、近くの路地にテント小屋を立て、そこに「発音」を招いてクルアーンの朗諦を御願いするのである。訪れた弔問客にはばらの香のする甘い飲みものが提供される。

死者の霊魂についてアフマド・アミーンは「広くエジプト人の間には、埋葬の前、死体が家にある間は霊魂は死体の側にあって離れないという信念がある」(注9)と述べさらに「人が亡くなってから40日(注10)が過ぎなければ魚や果物をその悲しみの家に入れるのは正しくないし、忌中の日々はコーヒーに砂糖を入れて飲むのも良くない。また故人が息を引き取った部屋は、死後3日間はランプをともさなければならない」とも述べている。

さて、愛する人に先立たれた人々にとっての悲嘆は国境を越えた人類共通の感情であろう。しかし、その悲しみの気持の表現には、国民性や習俗によって相違がある。例えば、どのような悲しいことがあろうとも人前ではじっとこらえて平静を装う国民性、また、その感情をあらわにし、さらに誇張して表現する国民性とがある。エジプト人、特にこの国の女性達は後者に属する。これについてアフマド・アミーンは前述の『エジプトの習慣・伝統・表現』の中で、ヨーロッパの人々は愛する人の死に直面した場合、もちろん人目につかないところでは大いに嘆き悲しむが、いったん人前にでると何事もなかったかのように装うので、実際にそれらの人々に不幸があったのかどうか言牙ってしまう場合があると書いている。一方、エジプト人についてアフマド・アミーンは「私達の許に1人の下女がいた。ある日、皆から愛されていた親族の1人が亡くなった。するとその下女は彼女の頭髪を剃り、40日間というもの、食物の菜としては黒いオリーブの漬けもの以外は一切とらず、コーヒーにも砂糖を入れず、そして夜は石の上に寝続けた。これは死者に対する義務の遂行といわれている。しかし今日では、このような習慣の多くは消えてしまった」と述べている。

(注1)一般にエジプト人は男も女も悲しみを表わす時は両頬や胸を激しく打つ。ナーセル大統領が亡くなったと報道された直後、街頭で「ナーセルが死んでしまった」と泣き叫びながら己の顔を打っている男を見たことがある。

(注2)故人が女性であれば「アッラー・ヤルハムハー」と言う。

(注3)イスラームでは大いに悲しむことはよいが、大声で泣きわめく行為は禁止されている。これについて預言者の妻アーイシャは次のように伝えている。

アッラーのみ使いはイブン・ハーリサ、ジャアファル・ビン・アブー・ターリブ、そしてアブドッラー・ビン・ラワーハの戦死が告げられると悲しみをあらわにして座られた。私はドアの間隙からその御方を見ておりました。そこに一人の男がやって参りまして「アッラーのみ使いよ、ジャアファルの女達は(悲嘆にくれております)」と彼女達の嘆きを話した。するとみ使いはその男に、戻って彼女達が泣くのを止めるようお命じになった。その男は帰って行った。それからその男は再びみ使いのところに来て、彼女達が彼の忠告に従わないと告げた。み使いはもう1度彼に、戻って彼女達が泣くのを止めるようにお命じになった。彼は帰って行った。しかしまたみ使いの所に来て「アッラーに誓って、彼女達はわれわれの手に負えません」と言った。彼女(アーイシャ)は「み使いは『行けっ、そして彼女達の口の中に土を入れよ』と申されました。」(ハディース、『葬儀の書』より)

(注4)故人の徳行をほめそやすことも(預言者)によって禁じられた。モハメッド(ムハンマド)はそんなふうに死者に美徳をおしつけてみても、もし実際にそんな美徳をもっていなければ、来世でかえって非難の的になるだろうといった。(ウィリアム・レイン著「エジプトの生活」より)

(注5)これについてウンム・アティーヤという伝承者は次のように伝えている。アッラーのみ使いが彼女に御息女の清めをお命じになった時、御息女の右側から、しかもそれをウドゥーを行う部分より始めよ、と申されました。(ハディース、『葬儀の書』より)

(注6)リファーイー・モスクにはイランから亡命し、エジプトで亡くなったパーレビー元国王の墓がある。

(注7)伝承者アブー・フライラは次のように伝えている。

アッラーのみ使いは「葬儀に参列し、死者のために礼拝を捧げただけで去った者には1カラットが、死者が葬られるまで残っていた者には2カラットの報酬がある」と申された。すると「2カラットはどれ程ですか」と尋ねる者があった。み使いは「その2つの小さい方でウフド山(メディナの北方にある山)に相当する」と申された。(ハディース、『葬儀の書』より)

(注8)来世の存在を確信しているムスリムにとって、死は決っして人生の最終点ではない。それは愛する人々との一時的別離にすぎず、「審判の日」すなわち復活の日に再びよみがえって、もしアッラーがお許しになれば再度愛する人々と会うことが出来るのである。

(注9)『エジプトの習慣・伝統・表現』より。これについてウィリアム・レーンは『エジプトの生活』の中で、「死者の霊魂は埋葬後の1夜はずっと死体とともにあって……」と述べており、アフマド・アミーンの言葉と相違している。

(注10)エジプトの習慣では、死去した日以後、毎週木曜日に回忌が行なわれ、これが4週間続いた後は、亡後40日目に最後の回忌が勤められる。この40日間は服喪期間となる。(『アフマド・アミーン自伝』水谷周訳)

初出誌情報

小笠原良治 1993「葬儀:10.エジプト」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第3号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.177-182.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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