タブー、マナー、エチケット:タイ―マナーとタブー

小泉康一

タイの小学校一年生の国語の教科書(上、下二巻本)の最終章たる第40課で、受け持ちのパイリン先生(女性)が子供達に、生徒が為すべきこと、果たすべき義務は何かについて考えさせ、生徒自ら黒板に書かせる場面が出てくる。生徒が書いたものは、次の10項目である。

  1. 国家、宗教(仏教)、国王を愛する。
  2. 良き伝統の保持。
  3. 父母、教師の教えを守る。
  4. 美しく話す。
  5. 恩を知り、恩に報いる。
  6. 整然と規律正しくする。
  7. 忍耐して努力する。
  8. 貯金をする。
  9. 正直で、勇敢である。
  10. 社会全体の利益になるようにする。

これを受けて、パイリン先生は子供達の所業を智めたたえた後、タイの子供達全部がこのようにすればタイ国は発展し、国家が発展すれば、タイ人は幸福に生活でき、誰も侵略して来る者がないと結んでいる。子供達は、自分の義務を知り、規律や秩序を保つことなどが教えられ、タイ文部省の描く立派なタイ市民、立派なタイ国民像を見てとれるが、同時にまた、見方を変えればタイで社会的に望ましいとみられている行為の基準(社会規範)ともとることができる。この基準は、タイで平均的ないし最も頻度の高い行動様式としての「ものさし」というのが当たっていよう。いずれにしろ、タイ社会の構成員が行動において判断の拠り所を与えられ、究極的には社会の統合と秩序を維持することを目的とし、同調が求められているものと考えてよい。社会の秩序は、社会の個々の成員が共通の行動規範に準拠して行動することにより成立するものだからである。

一般に、社会規範の中にはいうまでもなく流行、慣習、礼儀作法(マナー)、エチケット、伝統、因襲、法、道徳など様々なジャンルのものが存在する。大別して、強固な制裁を伴う「因襲」と公的な強制力に裏付けられた「法」に分けることもある。最も制度化された社会規範が法であり、その解釈と実施のために独立の機関が作られていることは言うまでもない。なお、個々のものはそれぞれに普遍的なもの、特殊なもの、選択的なものがあり、相互に補い合うこともあるが、一方で互いに対立・矛盾し合うことも少なくない。

社会規範はまた、《1》個人の行動を外面的に規制する側面と、《2》内面から揺り動かす価値的な側面とが混清している。《1》が純化され制度化されれば、一種の技術規範化するし、《2》の面が肥大し昇華されれば、倫理的、道徳的規範にもなる。

全ての共同体の道徳的規範は通常、その社会の宇宙観とか、宗教的な神話や教理によって支えられているが、タイでは伝統的に仏教が道徳の基盤であり、従って道徳教育も宗教教育と結びついて、主として家庭や寺で行なわれてきた。近代に入り、学校が普及、発達するにつれて、道徳教育にも学校が関与するようになった。

社会人類学は普通、信仰、思想、制度といった表題の下で、常に何らかの形で「価値」の問題を取り扱っている。ここでいう価値とは広義には、行為の方法と結果の間の関係を考慮した上で、社会状況においてとるべき行為や、行為の対象物について人々が付与する優劣順位のあり方、を言っている。より狭義には、ある与えられた形式や手段、あるいは行為の目的の中から、人が実際に選択を行なう際に、どれが望ましいものであるかを教える、物の考え方という風に定義されることもある。

タイに伝えられた上座部仏教は、一部の特権的支配階層のための宗教ではなく、上は国王から下は一般庶民に到るまで、タイ社会の価値意識を根底から規定している点に一つの大きな特徴がある。

タイの伝統文化では労働分業は男女平等であるが、しかし仏教世界においては厳しい男女差があり、女性は仏僧にはなれない。仏教徒は五戒(不殺生、不楡盗、不邪淫、不妄語、不飲酒)を守り、慈悲、寛容、寛恕の心を持ち、他人への思いやり、自己・他人・社会・国家・任務に忠実であり、仏教行事を励行することが教えられる。

タイでは人々は、ある時にはこうした規範に進んで従うし、場合によってはそうせざるを得ないような条件付けを与えられており、無意識のうちに規範に従っているように見える。また場合によっては、規範に従うことを誘うような、積極的または消極的な誘因が、社会に存在していると言える。

(1)タブー

タイには社会的、宗教的タブーが存在する。違反すると人々の怒りを招くような文化的陥穽がいくつかある。国王・王室、仏教、上下関係(年齢を含む)、性別等に関する諸々の事柄がその最たるものであろう。「タブー」(tabu,taboo)は元来、ポリネシア語のタブ(あるいはタブ)から派生した語で、禁忌または禁止を意味し、さらに聖なる物や呪われた物を区別する儀礼用語としても使われている。しかしここで扱う一般的なタブーの概念は、ポリネシアその他の未開社会で使われているものと同義ではない。換言すれば、法的に禁ぜられている行為よりも、むしろ作法あるいは道徳律の禁じている行為を指すこととする。タブーには、神聖なるものの観念と不浄という二つの面があるが、共通するのは「触れない」という観念に結びついた畏敬の念である。人々がタブーを守るのは、タブーが社会の激しい非難の象徴的表現として「力」を持つからである。社会にとって望ましくない行為は、それが望ましくない結果を生み出すと予想されて規制を受ける。そのような規制がタブーである。タブーの本質は、個人が社会的伝統によって課せられた制約に従うことにある。タイ社会におけるタブーも、社会の秩序にとって重要な物や行為に関連しており、それが社会統制の一般的体系を構成している。

具体例を挙げる。

《1》タイ人は王室を非常に尊敬している。政府の施策に反対する社会運動の人々でさえ、デモの再前列には国王の写真を掲げて行進し、タイの王室を侮辱することは敢えて行なわない。王は庶民の生活を平和裡に営ませる神秘的な力を備えているとされており、王の人格と王に関係のある人物や物品の全てが神聖視され、タブーによって取り巻かれている。聖なるものは強力であるがゆえに危険である。タブーは一般に、非合理的概念として法的禁止よりも、むしろ社会慣習的なものとされるが、タイでは国王・王室への侮辱は不敬罪で、法的に厳しく罰せられる。王室へのタブーは、タイの重要な社会関係が乱れる危険性への危惧の念を暗に含んでいると言える。

《2》タイ社会の身分制はじつに厳しい。年齢、地位の上下関係の秩序は誠に厳格であり、下位の者は上位の者に服従する。タイの人々は全ての社会的関係を上下の秩序において捉えており、上に逆らうことは絶対に許されない。従って、下位の者は上の者の心を傷つけないようにし、上の者が喜びそうなことしか言わなくなり、外見上、非常に消極的に見える。タイでの学会発表でも、年長者の発表・発言に下位の者は質問をすることがためらわれ、論議の不活発さの原因と言われている。一方、社会的上位者と下位者は恩恵と奉仕の関係で結ばれており、上位者は下位者に対し、それぞれの力量に応じた恩恵を与えることが、文化的に期待されている。

またその他には、出身大学の学閥意識は極めて強く、家族の中での親子の絆も大変強い。親が子を保護、援助するのは勿論だが、子は自分ブンクンを生んだ親に恩を感じ、教えを受けた教師に報恩の気持ちで接し、勉学、仕事に勤勉に努力するのが良い人とされている。

《3》仏教国タイでは、寺院、仏像、僧侶はその状況にかかわらず、全て聖なるものである。仏像の上に登って写真を撮るなど、もっての外。普通、宗教罪には神罰が下されると考えられているが、過失がとりわけタイ社会の安寧を脅かすと信ぜられた場合には、社会による直接の制裁が加えられる。仏像が安置されている礼拝堂、イスラーム寺院等、宗教的な聖域に入る時には、靴を脱ぐ。シャッを身に付けなかったり、女性がホットパンツなどで必要以上に素肌を露出することは、場所柄に似つかわしくない、敬意の欠如を示す態度、行為として、罰せられないまでも、断わりを受ける。

《4》仏教徒の多いタイでは、食に関するタブーは少ないが、中には仏日に菜食する信者、ある種の魚を食べない職業集団は存在する。イスラーム教徒は豚肉、両生類をひかえている。

《5》タイ人は誰かに頭をつかまれるのを嫌がる。旅行ガイドブックにも「タイ人の頭に手をやるな。子供の頭を撫でるのも止めた方がいい。」とあるが、その理由は頭には人間の尊厳を保つ大事な精霊が宿る神聖な場所と信じられているためである。タイ人は、人が怒ると、この大事な精霊が脳天から逃げて行く、と信じて疑わない。頭部は物理的には勿論、象徴的な意味合いからも、身体の最高部分とみなされており、たとえ親愛の情を表すためであっても、頭を叩くことは嫌われている。

《6》男が、女の友達と話をしている時、彼女の身体(手であれ、肩であれ)に触れることは厳禁である。公衆の面前でのキス、抱擁等の男女の愛情表現は敬遠される。それでも近年は西欧化したタイ人男女の中には肩を組んだり、手をつなぐ人々もみられるが、それも社会が許容する枠内に限られる。

《7》タイ人を叱る場合の鉄則に、「第三者の居る前で、本人を叱るな。必ず一対一の場で叱れ」というのがある。他人の前での叱責は、当人のプライドを損い、恥をかかされたと感じさせることになるからである。タブーは非合理的であり、ばかげたものであるとすら良く言われるが、通常のタイ社会では、タブーは重要な社会的機能を果たしていると考えられる。

(2)マナー

人間の社会生活にかかわる多くの慣習やしきたりのうち、普通特に、起居動作、言語、身なりなどに関して正しいとされる方式が、作法(マナー(と呼ばれている。作法は、《1》礼儀作法とか、行儀作法という表現で、他人と接触する場合や、他人と同席する場合にとるべき立居振舞の意味に使用され、また《2》態度、物腰なども指している。作法は共同生活の中から自然に発生する習俗(民習)であり、破られて初めて気になるような非意識的な形式である。違反行為には、非公式な制約しか加えられることがない。

しかし礼儀作法は、生活の中でのある秩序を求める要求の現われであり、そのことは家庭内、家族間にも当然求められている。他人と行き来する時の挨拶をはじめ、地域の様々な会合や行事での立居振舞、特定の場面で、特定の望ましい行為・態度が存在するし、一定の基準があることは古今東西、同様である。タイにおいても、そうした作法は、社会の発達に伴い形成されて来たと考えられる。なぜなら、緊密な社会的相互依存体系が成立すると、ただ単に他人に害を与えてはならないというだけではなく、他人に不快感を与える怖れのある振舞いを抑制し、周囲の人々の動作を模倣するなどして、できるだけ他人に気に入られるように振舞う必要が生じるからである。

歴史的にタイでは、アユタヤ時代(1351~1767年)に成立した、タイ語学習書の古典たる『チンダーマニー教本』が、当時の礼法として一般化し、その礼法が社会的エリートたる王侯、貴族から次第に、一般民衆の上層部に影響を与えていった。家庭でのしつけを除けば、寺は伝統的な教育機関であり、農業を営む民衆は子弟をお寺に僧見習いとして出し、行儀見習いとして作法を身につけることが行なわれた。近代以降、こうした寺院教育から近代的学校教育への脱皮が図られ、学校は都市生活者、官僚層の子弟に礼儀作法を教える場となった。第二次大戦後は、従来の固定的な作法が今日までの急激な経済発展、社会変動で大幅に壊れ、古い世代を嘆かせている。今日の家庭では、規則化された作法のしつけは弱まっているが、新しい生活意識や家庭の意識から生まれる秩序とそれに基づくしつけは今後とも、タイの家庭生活の課題の一つになることは、まずまちがいないであろう。

とはいうものの、これまでタイ人の家庭内での子供に対するしつけは、それ程厳格なものではなかった。家庭内でのしつけは、社会階層、家族間、その他個々の家庭において、守られるべき礼儀作法としての中身が異なり、またその一方で、広く生活全般にもわたるものであるが、タイでは一定の行動様式や知識を厳しく教戒することは殆どない。親は多くの場合、子供を自然のままに放任し、自分達の実際の生活を見せて育てる。親と子という基本的な権威関係を脅"かすような言動ではない限り、放任しているのが常である。日常の起居動作、朝晩の挨拶、食卓の作法、言葉遣い、身じまい、排便などの生理的しつけも殆どなく、食事作法も状況による。言ってみれば、腹がへれば食べるのであり、そして一日に何度も食事をとる。食べ方も立って食べようが、座って食べようがどうでもよいことであり、事の次第をあげつらって殊更に、問題にするような人はいない。作法は一般に、人間の衝撃や情感の自己抑制という側面を持っが、タイ人のようにこうまで個々人が他人に依存せず、それぞれ勝手に生活していた状況においては、そうした作法はいらなかったであろう。社会生活一般に礼儀作法に代表されるような規範が少ないからこそ、罰を伴うようなしつけが成り立つ余地が少なかったと言える。

タイ人は法律で規制されること、集団行動を強要されること、人にガミガミ言われることを殊の外、嫌がる。お互いがお互いに干渉せず、物事をそんなに理詰めで考えず、気楽に、陽気に、明るく、現世を楽しもう〔サヌック、サヌック(楽しく楽しく)が大事である〕ではないかという気持ちがある。背景には、東南アジアの中でも豊穰な自然の産物に恵まれたタイの人々の生活がある。

以下は、タイ社会で一般にみられる作法の例である。

《1》タイでは人々が交わす挨拶に合掌(ワイ)礼が用いられている。合掌のスタイルは、王者に脆拝する宮中礼儀作法の様式を挨拶の様式に発展させ、しつけとして学校教育に取り入れられ一般化したと言われている。

タイ語には、サワッディー(こんにちわ)という挨拶の言葉がある。互いに出会った時、サワッディーと言い合う。年少者なら年配者に先にワイをせねばならない。しかし通常は、目が合えば少し微笑むだけ。その代わり、久し振りに会うとか、公式めいた場では騒々しい程のサワッディーが聞かれる。別れる時には、もう一度ワイをする。同時にサワッディー(さようなら)と言う。毎日顔を合わせる相手に挨拶する習慣はまだ根づいてはいない。職場ではこのために、何も言わずに働き始め、何も言わずに仕事をきりあげて姿を消すのがみられる。

《2》行儀作法として、地位の上下、長幼の序が厳しく守られる。タイ社会では恩師がとりわけ敬われる。学校では「拝師の日」が学年始めの木曜日にある。その日は授業はお休みである。タイ・ボクシングの試合前や、踊りや演奏の前にも「拝師の儀式」が行なわれる。家庭や学校で、親や教師から受ける行儀作法は年長者、上司、社会的地位の高い人、有識者に対し、敬意を表し、従順で控えめな態度をとることにある。

《3》上と関連するが、①年長者等、自分より上の人の前を横切ったり、脇を通る時には、その人を尊敬していることを示すために、少し体をかがめて歩かねばならない。②年長者の前に座る際は、その人の頭の上の位置に座ってはいけないし、上位の人が床に座っている場合には、年少者は椅子に座ってはいけない。椅子に座る際は膝をそろえ、体を直立させて座る。あぐらをかくことなどは、もっての外である。③上位の人と歩く際は、少し退いて歩き、案内する際は、上位の人の右側を歩き、少し腰をかがめ気味に歩く。④物を授受する際は、年少者は右手で行なう、などがある。

《4》(あご)で人あるいは物を指し示す事は、粗野な行為とみなされる。足を使うのは、論外である。

《5》お客が家に訪ねて来た時、①お客は家に入る前に履物を脱がねばならない。②主人は家の中へお客を(いざな)い、お客が腰をおろすようにすすめ、おもてなしの水を持って来る。「お水をお飲みになりますか」などとたずねる必要はない。なお、都会風な場合を除き、一般にタイ農村部の家庭での飲み物は、圧倒的にただの水だけか、まれにハーブティーか中国茶。一般のタイの人々には、お茶を飲む習慣は殆どない。代わりに食後には水を飲むのが普通である。③話題については、先に楽しいお話しをし、お客くつろが寛いでおしゃべりできるようにした後で、必要なことをお客にたずねるようにする。④しばしば時計に目をやってはいけない。⑤上流家庭では女中が来客へ茶菓を出す場合、膝行(しっこう)

して(うやうや)しく捧げて差し出す。誤っても客の顔を直視してはならない。

《6》清潔なことは善である。身なり、衣服、物品、食品、食器は保健衛生に気を配り、清潔さを保つ。

《7》その他、朝の早起き、昼の沐浴(もくよく(、水を飲む時は少し水を捨ててから飲む習慣、キンマの葉を噛む時の作法など、日常の行動を理由づける由来伝説には、タイ人の生活を伝える民話がある。また、タイでもある地域では三本指で食べるのが作法であるのに、他所ではフォークと箸で食事しているといった具合で、作法の形式は多くの場合、そうでなければならぬといった合理的根拠を欠いているものもあり、一部の社会階層が好んで始めたものを他の階層も取り入れることでしきたりとなったものがある。

タイ人は自己主張が強くなく、感情をめったに外に出さず、いつも控えめでおとなしいと言われるが、上述のことからも知れるように、タイに伝わる礼儀作法は仏教の教えから発した、人間の上下関係を秩序づけることに特徴があると言えよう。

(3)エチケット

礼儀、作法、礼法と訳されるこの言葉の由来はフランス語だが、人間生活における対人的な言語や動作の方式という意味では、先のマナーと違いはない。すなわち、マナーが該当する、人間関係の上下、屋内屋外での作法、冠婚葬祭、食事作法、酒の飲み方、話し方まで同様にエチケットは存在する。環境、置かれた立場でエチケットそのものが変わることすらあるものの、しかし本質は変わるものではなく、基本的には他人に迷惑をかけない、他人に好感を与える、他人を尊敬する、ことに尽きる。但し、強いてテーブルマナーなどに代表されるマナーとの相違点をあげれば、マナーが習慣や身だしなみなど、一般的なルールを指すのに対し、エチケットはそれよりもさらに高度な規則や礼儀、作法といった社会人としての品格にふさわしい感性を持つべきだといったものが背景にあり、それ自体、要求度の高いものである、とする考え方がある。本稿もこの説に従って、話を進める。

タイ社会に限らないことではあるが、タイでごく普通に言われるエチケットとは、家族を含めて、自分以外の全ての人に接する場合の心構えや態度と言うことができる。個別に細かく言えば、例えば上にある物を取る時には、前もって断わってから取る。話の途中でタバコを吸うのは、相手に失礼である………等々、がある。しかし、ここではもっと大きな心的態度について述べてみたい。

タイの別名を「微笑の国」と言う。タイの人々は他人と接触の上で、おおようさと優しさを持っている。何事であれ、ニッコリと微笑む。感情を簡単に表情に出す人をタイ人は軽蔑する。教養人や大物はめったに怒らない。よく怒る人はタイ人には大物とはみられない。怒りを表に出すことは、不作法で粗野なこととされている。穏やかに振舞い、感謝の気持ちで微笑みを絶やさず、全ておおように構え、みだりに怒ったり、ささい些細なことに自分から口出しをしない。走るなどというみっともないことは、断じてしない。これが、タイ人のエチケットである。冒頭に書いた、タイの一年生の教科書の担任の名前をパイリン先生という。美人で、可愛らしく、背が高く、歯が白く、微笑が美しい女の先生である。生徒達は先生が好きである。なぜなら美人だし、微笑も美しいからである。

パイリン先生は生徒達にワイを返してから、微笑んで言う。美しくなりたいと思うなら、しばしば微笑みなさい。そして美しく話すことに努あなさい。そして、「有難う」、「すみません」の二語を決して忘れないようにしましょう。タイでは礼儀正しい振舞いは歓迎される。これはまた、私の経験でもある。

[参考文献]

赤木攻『タイの政治文化』、勤草書房、1989年、その他。

初出誌情報

小泉康一 1994「タブー、マナー、エチケット:タイ―マナーとタブー」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第4号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.98-104.

お読み下さい

ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

タブー、マナー、エチケット:目次