結婚考:西アジア―イスラームの婚姻制度

磯崎定基

12世紀頃書かれたブルハ=ヌッディン・マルギーナーニーの『ヒダーヤ』は、元来、ハナフィー法学派の解説書とされるが、婚姻事情についての詳細な記載もあるのでこれを参照しながら簡単にまとめることにしたい。

周知のようにイスラームの婚姻は純然たる民事婚であって、婚姻当事者または関係者間で申込み(イージャーブ)及び受諾(カブール)といった契約形式を経るものである。宗教とは無関係なので聖職者は介在しない。婚姻がこのような契約形式で行なわれるに至ったのはイスラームがメッカの商業社会のなかで発生し繁栄したためともいわれる。

婚姻申込は男性側より本人または代理人によって相手の女性もしくはワリー(後見人、通常父または祖父)に伝えられるが、女性側からの申込みも勿論差し支えない。申込みが承諾され婚約が成立すると初めて当事者同志の個人的交際が認められることになるが、現在でも地域によっては婚姻式当日まで相手の容貌をみることすら許されないという慣習がみられるようである。

婚姻式そのものは当事者たち、即ち、新郎新婦が証人の面前で、改めて、申込み及び受諾の事実を確認し合うだけの簡単なものであるが、その確認は必ず同一場所で同一時間に行なわれねばならない。証人の数には決まりがあり、ヒダーヤによると、ハナフィー派では男性2人、または、男性1人に女性2人であり、シャーフィー派では男性のみ2人となっている。マーリキー派では婚姻成立の事実を広く人々に知らせることが肝要であるとして証人よりも婚姻の祝宴を行なうことを必須とし重視している。シーア派でも証人は必要とされていない。なお、証人たり得る者の資格は、敬慶、善良な成年者であるとされる。現代のハナフィー派には未成年者であっても証人たり得るとする者もいるが、シャーフィー派では責任負担の観点からこれを不可としておりそのような判例も法廷記録にみられる。

婚姻は書面によっても成立可能である。なんらかの事情で当事者の片方が契約時に出席しなくても、申込みまたは受諾の書面内容が証人たちの面前で明瞭に読まれた場合には合法とされる。使者による伝達も証人たちに確認されるかぎり有効であるし、女性への私信で直接婚姻申込みが為された場合でもその文面内容及びその女性本人の承諾意志が証人に明らかにされるかぎり婚姻は成立する。婚姻契約時の用語としては特定の表現形式がつか知られるが、シャーフィー派では、現在、ニカーハ(“貴女と結婚する”との表現)及びタズウィジュ(“貴女を妻とする”との表現)の2形式が使われるのみであり他の学派もほぼ同様といわれる。シーア派は特にこれら以外の表現形式は認めていないようである。なお、アラビア語で契約が行なわれる場合には過去時制による表現が取られることになっている。現在形が未来時制をも含めて理解されるこの言語の性格上明確を期するためである。このほか、"婚姻契約をせよ"といった命令形が用いられることもある。

契約式に特別にイマームや法律家などの出席を求める必要はないが、現在では便宜上婚姻行事を専門とする者に証人共々立ち会ってもらう形式をとることが多い。エジプトではこのような専門家をマーズーンと呼んでいる。この婚姻式席上マフルの額の取り決めが為されるが、マフルとは、言うまでもなく、婚姻に際し新郎より新婦に贈られる婚資金のことで、クルアーンやハディース(預言者伝承集)にもみられるように、マフルの贈与なき婚姻は無効とされるほどに重要な義務行為となっている。その額は婚姻当事者たちの生活状況や社会的地位などによって決められるべきとされる。新婦の家系・年齢・教養・美醜、或いは地域の慣習も当然考慮の対象となろう。マフルの最低額はハナフィー派では10デルハム、マーリキー派では3デルハムとなっているがシャーフィー派では特に決まりはない。ハディースには鉄製の指輪或いは櫛1箇がマフルとして贈られた例やクルアーンの1節をマフル代わりに新婦に教えたという話もみえる。なお、マフルの額は婚姻後の夫婦の合意によって増減可能とされる。通常、マフルは婚姻時に一部が贈られるのみで残余は離婚とか夫婦の一方が死亡した場合などに精算される習慣であり、特にシャーフィー派では婚姻時には三分の二若しくは半分だけ贈るのが決まりとなっている。マフル制度はイスラーム以前にみられた売買婚の名残りを示すものでもあるが、分割贈与の慣習は、夫側に契約未完遂の負担を課すことで妻側に優越権を保留せしめるものであり、夫側からの離婚要求などを規制する上にも効果あるものと理解されている。

成年に達した女性の婚姻に関するワリーの役割については各学派によって見解が異なり、シャーブイー派ではワリーの同意を必須としているのに対し、ハナフィー派では婚姻が正当に行なわれるためワリーの監督は望ましいとし.ながらもその同意を必要条件とはみなしていないし、シーア派でも同様である。なお、未成年女子の婚姻契約に関するシャーフィー派の見解、即ち、当人の意志を考慮する要はなくワリーに絶対権があるとの主張に対しては、現在、批判的、否定的な学者が多い。ハナフィー派では未成年期に婚姻契約をした女子は、成年後、その契約を解消し得るとしているがシャーブイー派ではこの点にも同調していない。なおまた、女性の婚姻承諾の意志は、言葉による場合同様、沈黙や微笑、或いはすすり泣きなどで示されるというのが伝統的な見解である。

女性の成熟はクルウ(月経)の始まりで判断され、一般に9才位をその開始期とみているようである。男性の場合は、口ひげ、あごひげなどの発生、また、夢精の体験などをその基準とし12才程度とされる。完全な成熟年令は、ハナフィー派では満18才、シャーフィー派では満15才、シーア派では太陰暦で数えて15年を過ぎた者とされている。現在、イスラーム諸国ではそれぞれ独自の家族法により婚姻可能年令を定めているが、パキスターンではそれを男子18才、女子16才とし、イラクでは男子18才、シリア、ヨルダン、 モロッコなどでは男子18才、女子17才としている。

婚姻に際しては、当事者間の平等性(カファーア)も考慮される。ヒダーヤでは、血統、自由身分性、宗教、職業などがその対象になるとしているが、現代の学者は、年令差、財産、地位、性格、教養、趣向性などをもそれらに加えている。なお、女性が男性より劣位にある場合には、婚姻により全ての面で男性側の状況に同化せしめられる故問題はないとのことである。なおまた、婚姻申込みの折り男性側の地位出身その他の面になんらかの虚偽が行なわれ、それが婚姻後露見した場合には女性側に離婚請求の権利が認められるとハナフィー派では規定しこれに関連する幾つかの条件を付しているが、シャーフィー派はそれに同調していない。ともあれ、平等性の問題は総じて常識的に配慮される程度で、現今、さほど重要事項とはみなされてないようである。

婚姻相手の女性は、更に、その婚姻成立上障害となる関係者以外の中から選ばれねばならない。この婚姻禁止関係者はムハーラムと呼ばれているが、直接禁止の対象者としては、直系及び義理の関係にある女子親族(卑属及び尊属)、姻戚関係にある者、乳親子関係者などが挙げられる。この最後の乳親子関係については、現在、さほど重視されない向きがあるが、ヒダーヤには、ハナフィー派ではただ1度でも、シャーフィー派では4度以上、シーア派では24時間以上同じ乳母から授乳された男女の婚姻は認めていないとの条項が明記されている。宗教信仰の相違も禁止条件に数えられる。周知のようにムスリム男性は啓典の民(アハル・ル・キターブ)たるユダヤ教徒やキリスト教徒の女性以外との婚姻は認められていない。実生活上の便宜のためでもあろうが、現今、ムスリムと婚姻する女性たちは、アハル・ル・キターブであっても、あらかじめイスラームに改宗する場合が多い。ただし、このような風潮はシャーフィー派からは歓迎されていないようである。なお、蛇足ながら、史上インドのイスラーム支配者層などにみられた仏教徒やヒンズー教徒の女性との婚姻事実は違法とはみなされず特殊な例外ケースであると判断されている。女性がそのような異教を信奉したのは、たまたまそこに生まれた家族や環境に順応せざるを得なかったためであるというのがその理由となっている。禁止関係者としては、別に、既に4人の妻をもつ者も含まれる。女性は、無論、一度に1人以上の夫をもつことは許されない。更にまた、寡婦及び離婚した女性の場合は、イッダ即ち待婚期間を経ないかぎり再婚は認められない。イッダとして、寡婦には4ヵ月と10日、離婚した婦人には3ヵ月が定められているが、いずれも妊娠の有無を確認するためである。当然ながら、既に懐妊中の女性 はその分娩まで再婚はできない。また、夫から三度も離別された女性や姦通の疑いで訴えられ離婚された女性などの再婚は困難であるといわれる。中性者(フンサー)との婚姻は、当人の性別の度合によって酌量されるとのことである。

初出誌情報

磯崎定基 1992「結婚考:9.西アジア?イスラームの婚姻制度」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第2号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.105-108.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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