映画:パーキスタ一ンの映画産業

片岡弘次

1.映画の斜陽化

寺谷さんはカラーチーに住み始めて20数年になる。今から15、6年前、カラーチーのニシャート・シネマに「インディー・ジョーンズ」という洋画がかかった時、入場券を買えない人たちが映画館の外にあふれていた様子をつぎのように述べる。

大変前評判の高い映画で、ある日私もこの映画を見に行ったのであるが、入場券はすべて売り切れであった。通常、入場券は上映30分前に売場の窓口が開いて発売が始まる。ところが、この時は窓口はいつまでたっても開かない。つまり入場券を1枚も売らないのに「売り切れ」なのである。まことに奇妙な現象である。

ダフ屋がいる。彼らはたいてい映画関係者である。12ルピーの2等席を25ルピーで売っていた。2階の1等席は15ルピーであったが、ずっと売り切れのようである。

こういう光景を目にするのは久しぶりだったと言う。

館内は今も昔と同じく3クラスに別れ、上の階にゆく程、上席となっている。入場料は15ルピーから50ルピーの間であるが、今日ではダフ屋が立つことはない。

パーキスターンの映画産業もテレビ、ビデオの普及で斜陽化してしまった。最近ではテレビの人気者が映画に出るという風にまでなってしまった。

寺谷さんがパーキスターンにいったのは60年代の終わりであった。寺谷さんの話では70年代の中頃までが映画全盛の時代であったと言う。映画は最大の娯楽で、当時はどこの映画館も人にあふれていた。暑さと汗の匂いに悩まされながら、1時間も前から列に並び押し合いへし合いでやっと入場券を手に入れていた。そして開館時間になると戦争なみである。座席はすべて指定席になっているので急ぐ必要はなかったが、館内は全館冷房になっていたのでみんなわれ先に入ろうとするからであった。今日では到る所冷房装置があるが、当時、公共施設で冷房していたのは映画館だけで、日中40度を越す5月6月は映画館はまさに天国であった。

女性連れだとこれはまた大変である。混雑のほかに座席にも気を配らなければならないからである。連れの女性は絶対に他の男性と隣り合わせにしない。年とったおばあさんでもそうである。入場券発売の窓口も女性の客には気を使って、女性同伴者と隣り合わせになるよう座席指定をしているが、満員の時はそうもいかない。当時、映画をよく見に行っていた寺谷さんも、たまには女性と隣り合わせになることもあったと言う。そのような時、時々、その女性の連れの男に席をかえさせられたと言う。初めのうちは何やらさっぱり分からなかったらしく、「この男、えらく威張っとるな」と思いながら端の方へ寄ったり、その男の隣に座らせられたりしたと言う。今はパーキスターンに長く住みつき、その方の様子はよく分かった寺谷さんでも、当時はその辺のことは分からなかったらしい。何しろ今でもバスなど、男女別々の場所に乗るイスラーム国であるからである。

80年代になるとパーキスターンの映画産業は急速に衰退して行く。この衰退の原因は、70年代におけるテレビの普及と、80年代におけるビデオの普及であった。

2.テレビの影響

パーキスターンでテレビ放映が始まったのは60年代であった。初期の番組には見るべきものがなかったが、今日のようなテレビ・ドラマの隆盛を導いたのは、70年代に放映されたショーカット・スィッディーキーのウルドゥー長編小説「神の街(クダーキ・バスティー)」のテレビ・ドラマとしての上映であったと言われている。

パーキスターンでは今日、都市部の家庭には殆どテレビがある。そして各家庭の人が好んでインド映画を見る。カラーチーの日本文化センターの安宅さんの話によると、衛星放送の普及した今日、国営のテレビ(PTV)や私営のテレビ(STN)は全く見ず、衛星放送だけを楽しむ家庭がふえていると言う。

インドからの衛星放送はチャンネル数が多く、そこからいろいろなインド映画が放映され、パーキスターンのテレビによく映る。また衛星放送だと検閲なしのために、国内で何か事件があると、自国のテレビやラジオを人々は信用せず、衛星放送でBBCやCNNのニュースを見る。安宅さんはこれをパーキスターンに起こりつつある文化革命だと言う。

このインド映画に対する憧憬のはしりは、70年代半ばインドのアムリトサルのテレビ局で放映された「パーキーザ」がラーホールで受像された時からであった。それはラーホールで大好評となり、ちょうど日本で戦後昭和20年代に「君の名は」がラジオで放送され、その時間帯、各地の風呂屋ががらすきになったことがあったが、同じくこの映画の放映中は、ラーホールの商店街はガラガラになったと言われる。

その後70年代後半よりジアウル・ハク政権が国政をイスラーム化の方向に向かわせると、テレビの普及に多少のブレーキがかかった。それまで人気のあった古典舞踊や女性人気歌手による歌の番組などの娯楽番組が姿を消した。それにかわるものとして宗教番組が多くなった。

安宅さんはつぎのようにも言っている。(1997年6月現在)今まで国営のPTVと民営のSTNがそれぞれウルドゥー語映画を上映してきたが、第2次ベナズィール・プットー政権の後、ナワーズ・シャリーフの政権になり今まで毎週上映されていた映両の放映が禁止され、毎月PTVのみがウルドゥー語映画を上映するようになった。

またSTNの方は、毎日午後11時から衛星放送を放映し、そこではアメリカ映画などの古い映画も見せていると言う。

3.ビデオの登場

ビデオが登場するのは80年代に入ってからであった。初期にはこれを個人で所有する者は少なく、この所有者が入場料を取って、インド映両を見せる商売を始めた。天井に扇風機が1台回っているだけの部屋に何十人もの人をつめこみ、「ミニシネマ」を始めた。夏の暑い時期はそれこそ炎熱の地獄であったが人々は暑さをこらえて見に来た。

そんな中で今度はビデオ・デッキとテープを貸し出す者があらわれた。寺谷さんによれば当時賃貸料は1日300ルピーだった。それはかなりの高額であったが、貸し出し業者は、結婚式の披露宴を目当てにこの貸し出しを始めた。招待者側は結婚式に集まった人々に誇らしげに見せていたと言う。

またビデオで自由に外国映画が見られるということになると、ビデオの貸し出しが盛んになった。それと共に82~3年頃から電気屋の店頭にもならぶようになり、一般に普及し始めた。今度はビデオ貸し出し業者がテープ貸し出しにかわった。当時、テープ1本の貸し出し料は1日30ルピーであったが、同業者の林立で、1本10ルピーから5ルピーにまでさがった。現在のテープ賃貸料はインド・パーキスターンのものは10ルピー、英語フィルム30ルピー、最新版英語フィルムは50ルピーから100ルピーである。

だが当時ビデオは輸入禁止製品で、ほとんどが密輸品であったため、電気店に警察の手人れがあった。しかしビデオの普及はめざましく、政府もこれを看過することができなくなり、84年になるとビデオの購人領収書の有無にかかわらず、テレビ局に登録し、登録料を払えば、誰でも所有が可能となった。

現在洋画からインド・パーキスターン映画に到るまで多数のテープが販売されている。80年代の半ば1本200ルピーでかなり高額であった。それが今日ではインド・パーキスターンのものが150ルピー、英語マスター・プリントが350ルピーで買える。

このようにして映画はテレビやビデオにおされ、ますます衰退の一途をパーキスターンでたどっている。

初出誌情報

片岡弘次1998「映画:10.パーキスタ一ンの映画産業」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第7号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.110-112.

お読み下さい

ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

映画:目次