結婚考:タイ―新旧結婚式比鮫

小泉康一

重層化するタイの婚姻習俗

ひとつの社会を形づくる人間集団の中で、社会の最小単位は家族である。家族の出発点に当たるもの、それが結婚、すなわち「婚姻」(marrige)である。婚姻は、経済的、社会的関係を伴う男女の性的結合をいい、当事者の所属する社会集団の規範により成立している。

いうまでもなく男女の成人の性的関係は人類の発生以来、人間関係の基礎であり、必ずしも成立に際し、規範や制度を必要とするものではないが、しかし社会がその関係の成立を許容し、承認するのは、これが婚姻という形態をとることによってである。

タイの婚姻制度は以下の四つの要素が地域的に相違しつつ、また文化的に重層化しながら、複雑に入りまじっている。①固有の伝統的婚姻習俗、②インド(バラモン教、仏教)、中国などからの婚姻慣習、③近代に入っての欧米式婚姻慣習、④そして現代、上記の三要素を下敷きに、新たに出現しつつある婚姻慣習である。

①から④は歴史的プロセスとしてみることができる一方、タイの地域毎に多様さをも与えている。①の伝統的婚姻習俗は、主に農村部にみられるが、近代の交通機関の発達で急速に姿を消しつつある。その名残りを、地理的、文化的に孤立した人々、例えばタイ北部の少数民族と称される一部の山地民の間にみることができる。固有の習俗はその後、②のインド、中国からの習俗と接触、混交し、時として両者の区別づけはむずかしくなっている。③、④は伝統的習俗とインド、中国等の習俗に後に重なって出現しているが、一般に貴族、官吏等の新興エリート階層、都市住民の間で受入れられてきた。

出会いから結婚へ

タイの法律によれば、男女はともに17歳に達すると婚姻が許され、結婚後は妻は夫の姓を名乗る。タイの若い男女は昔から、田植えや稲刈りなどの農作業を通じて、あるいは寺の集会場などで知り合い、かなり自由に相手を選ぶ機会をもっていた。しかし交通手段の発達した今と違い、こうした出会いは一方で、交際できる範囲が自然と限られ、狭い村内の結婚が主流となっていた。

慎みを求める社会;求婚は比較的自由だったが、女性は何事につけ慎み深い女性であるように小さい時から教育されていた。愛のサインも言葉より、目で送らなければならない等の社会的規制があった。

現代はそれ程ではないにしても、タイの社会では今も一般に、性に関するあからさまな話を嫌う風土である。普通のタイ人女性なら人前で肌を見せたがらないし、未婚の男女が、人前で互いの身体に触れることはない。若者が結婚前に娘の体に触れてはならない等の約束事が道徳的に存在している。しかしこうした心理的規制も、バンコクのような大都会ではかなりの程度、変化をみせてきているが、上流階級の間では依然、目にすることができる。

農村では性的な会話は割に開放的であり、子供も性知識をかなり早くから身につけている。タイの農村では人々は、比較的早婚である。男は平均22.3歳、女は17.8歳になると結婚の相手を探す。女子は遅くとも20歳までには結婚する。男子は満20歳になると農閑期(雨期の3ヵ月間)に出家して、寺院で仏僧として修業、その後還俗する。娘の方でも出家の経験ある若者を「熟した人間」(コン・スック)として配偶者に選ぶことを好む。昔の人と言うのは10人中、9人までが仏門入りを果たしていた。一通りのことにわきまえていた。それだけに、未だ仏門をくぐっていない者、「半人前の人間」(コン・ディップ)に娘をやることを親は嫌ったのである。

日本語には「適齢期」という言葉があり、「もうそろそろ相手を見つけなくては」などと周囲も本人もやきもきするが、タイ語にはそのような言葉はない。以前は、ひとたび青年期に達すれば、慣習に基づき結婚をしないのは大いに恥ずべき事とみなされ、「取り残された者」(コン・カーング)と呼ばれたものだが、しかし今、特に都会では、そのような規制もなく、あくまで自分が主体となってきている。

但し勿論、タイ語には「売れ残り」という俗語があり、日本と同じように、女性が年を取ると結婚相手が見つけにくいことから、早いところ適当な相手を選んだ方がいいという考え方もある。

交際が進んで、二人の意志が固まれば「間を取り持つ人」(タオ・ゲェー・タープターム)を間に立てて話をまとめてもらう。

結婚式

タイの結婚式は仏教とバラモン教の影響を受けた独特のスタイルで行なわれる。中部タイでは「結婚する」を、一般に「テェーング・ガン」という。略して単にテェーングともいう。南タイに行くと、結婚を指して「ガーン・ミィア」(妻ごと)と別の呼び方をしている。そして結婚式のことを「ワイ・ミィア」(妻拝み)という。北タイ、及び東北タイ(イサーン地方)では「アオ・プア・アオ・ミィア」(夫取り・妻取り)という。「アオ・ガン」(取り合う)は一組の男女が夫婦であることを示している。

式は多くの場合、飲食と娯楽が伴う。親戚一同、親しい友人・知人を多数招いて、盛大に執り行う。御馳走を振る舞う(披露宴)のは両者が社会的規範に則り、晴れて夫婦になったことを社会的に確認し、かつ無事、式が済まされたことを社会的に公表し、列席した人々に証人となってもらい、祝福してもらうためのものである。式はだから、当事者の間の単なる私的行事にとどまらず、共同体(社会)全体にとっての一大関心事である。

吉月吉日を求めて;いざ結婚となれば、吉き日吉き月を選ばねばならない。結婚式の日取りは娘の親が僧侶に占ってもらって決めるが、タイでは占星術に深く関わっている。現代の若い人々は余り頓着しないと言うが、一般には陰暦の偶数月が好まれている。偶数月は言葉自体が円満で好ましいとみられるためである。すなわ ち2,4,6,9,12月である。10月に結婚する人はいるが、その数は極めて少ない。またここで、9月があるのは、8月は偶数月だが、雨安居の始まりの月でもあり、挙式は取り止め、代わりに9月、となるためである。9(ガーオ)が発音の類似する他の語の「上昇」の意味への懸詞<かけことば>、縁起かつぎである。12月はあげたが、但しこの月は犬の交尾期にあたり、結婚する人はいない。同じように結婚が禁じられている曜日をあげると火、水、木、土曜日。火、土は「力のみなぎる日」と言われ、この日に挙式すれば二人の間で喧嘩・口論が絶え間なく起こると言われる。木曜は「師の日」。これ以外にも「凶日」、「仏滅の日」は駄目。挙式には「勝利の旗の日」とか、「統率の日」が選ばれる。もしもこれらの日が金曜(ワン・スック)と重なれば、結婚には、益々もって良いとされる。「幸福」(スック)で「快適」(サバーイ)という意味を持つからである。

さて結婚式に欠かせない僧侶の読経だが、普通は8人。新郎、新婦側が各々、その半数の僧を招待する。これより多くても勿論構わないが、場所の関係と準備の都合で、通常は8名に落着くようだ。大事な点は結婚式の場合、数が常に偶数であることである。

田舎の結婚式はだいたい花嫁の家で行われる。当日は、早朝から大変な賑わいである。近所の人々も総出で、家を掃除したり、寺から借りた花茣蓙<はなござ>を部屋一杯に敷きつめ、祭壇を設け、僧侶や客をもてなすための料理づくりと、式の準備に余念がない。僧侶の読経は延々2時間位は 続く。この読経をボリューム・アップした拡声器で村中に流し、今日一日は村中この祝い事一色である。皆で二人の門出を祝福する。

都会でも式は、自宅やホテルにしつらえた祭壇の前で執り行なわれる。

式次第;次に、都会、田舎の両者に互いに共通する式次第を述べる。最初はまず、式の長になるように依頼された身分の高い人が、新郎新婦に吉祥(モンコン)を授けるべく、祭壇の前で線香と蝋燭<ろうそく>に火を点す。次いで、祭壇に安置された仏像を拝む。花嫁と花婿は祭壇の前でひざまずき、合掌する。タイの民族衣装をまとった両者の首には、ジャスミンの花で作られた花輪が掛けられる。長い方が新郎用、短いのは新婦用である。花輪の形が互いに異なるものもある。

次は二つに繋がった吉祥糸(モンコン・フェート)を結ぶ儀式を行なう(糸はあらかじめ僧侶の手で作られたものである)。糸は小さな輪からなり、儀式の長はこの輪を両者の頭の上に載せる。

続いて、法螺貝の器から聖水を注ぐ儀式へと進む。両者の両掌<りようてのひら>に、聖水をかけるのである。ここで始めて、一般の列席の人々が列を作って、順に両名の掌に水を注ぐ。やがて水注ぎが終わると、人々は新郎新婦に口々に祝福を贈る。そののち、式の長は両名の額に祝福の白い香料粉末を塗る。以前は香料粉末を塗ってから聖水かけをしていたが、後世は聖水をかけてから、粉末を塗ることに変わってきた。この白粉だが、塗るのではない。僅かに"斑点付け"にとどめる。普通は三つの斑点を付けるだけである。斑点は一列に並べたり、破風の形に似せて三角に並べたりする。主に親指で付ける。他の指に比べて、不浄な物をつかむことが少ないという配慮からである。

水注ぎでは、両者のどちらに先に水を注いでもかまわない。人によっては頭上に水滴を垂らすこともある。但し一般には、合わせた両掌に水を注ぐ。水は下の鉢の中に落ちる。鉢は水滴が飛びはねない様、花また花で埋められている。見た目にも綺麗だ。法螺貝の中には、時として金葉・銀葉が敷かれている。法螺貝の器を参列の客人に手渡すのは、取り決めはないが、バラモン僧か、占屋術師のことが多い。

「水注ぎ」の儀式は以前は、最初は男性に限られ、女性は男性達が終了するまで待たねばならなかったが、現在ではそのようなこともなくなり、夫婦がそろって順番に法螺貝を持つように変化してきている。

「聖水かけ」(サット・ナム)、「水注ぎ」(ロット・ナム)そして「白粉づけ」に到る一連の行為の意味については、また後に幾分、述べてみたいが、かいつまんで話せば、そもそものいわれは霊験あらたかなる儀式に参列するために、その身を洗い浄めることに端を発している。後年、これが簡略化されて、一つの儀式となったものである。

水注ぎ・白粉づけが済み、二人の頭上の吉祥糸を取り外すのは一般に名誉ある人物である。糸は取り外した後、年長者が糸を繋ぐ霊糸(サーイ・シン)を爪で二つに切り離す。糸は一本なので、切るのはそれほど難しくはない。切りおえると吉祥糸のそれぞれの糸の輪が両名に与えられ、互いに手首に結ぶように言われる(尚、その糸の輪の行方だが後日、手首の糸は、縫い上げるのを手控えられていた敷布団の内部に、そのまま押し込められる。二人は共同で縫い残された布団の綴じ口を丹念に縫い上げていく。この時、二人は晴れて正式の夫婦になったとみなされるのである)。

そしていよいよ最後だが、新郎新婦の二人に互いに手を組み合わさせ、その手をしかと見届けた上で、おもむろに席を起つように命ずる。この時、二人は同時に席を起つべきものとされる。もし、一方だけが先に席を立つようだと、その人の方が将来、より上位に立つとみられ、その災いを避けるためである。あくまで両人は平等である。

盛大な披露宴;式の終了後は、披露宴へと場所を移す。宴は当日の夕方行なわれ、前述の如く、参列者を饗応する行事である。特に、娯楽の少ない村人にとっては、大きな楽しみの一つであり、宴は夜遅くまで若い人々を中心に繰り広げられる。

都会のホテルが会場なら、新郎新婦は花輪を首にかけ、会場の入口で並んで立って、客人や親戚・友人一同を出迎える。招待客は何がしかのプレゼントを手渡し、両名に対し何がしかの祝福の言葉を述べた後、会場に入る。

宴は華やかに着飾った若いカップルを中心に双方の家族や近親者の晴れがましい舞台となる。友人らしい面々が楽器を奏で、飲物、御馳走を味わっての歓談が続く。近年では、新郎新婦が宴会の参会者一人びとりに引出物を配ってまわるのがみられる。

タイでは都会、田舎の区別なく、結婚式に一度に何百人もの客を呼ぶのが普通である。千人を超える結婚式も少なくない。特に都会でのホテルやレストランを会場とした大宴会は経済的にも負担が非常に大きい。しかし仏教を信ずるタイの人々にとって、人をもてなすことは徳(プン)を積むことであり、祝い事、宗教行事は近所総出で行なうのが伝統である。背景には辛い農作業も助け合い、自然の豊かさ、収穫の恵みを近隣の人々と分け合ってきた農民の心がある。

旧来の婚姻習俗について

ここでわずかばかり、旧来の慣習に基づく、今では絶えて見ることもなくなった婚礼の次第を述べて、現代の婚礼との比較をしてみたい。旧来の婚礼は明らかに現在、バンコク等の都会で行なわれているものとは異なっている。ここでは述べる紙幅も余りないが、「水注ぎ」が現代の結婚式の中で中心的位置を占めるのに比べ、“本来の意味での結婚式”とは、タイでは祖霊に対し、婚礼の許可を乞い求める「拝霊式」が相当していた。以前、人々は自分達の住居に祖霊が棲みついたことを信じて疑わず、それ故にこそ、婚礼に際しても、祖霊の加護を乞い、吉祥を願って「求魂式」、「魂結び」を行なっていたのである。

旧来の結婚式次第;伝統的な婚礼の次第はまず、婚礼前日の朝方、男性側が「檳榔子鉢」(カンマーク)と「拝布」(パー・ワイ)を新婦の家まで送り届け、同日の夕刻に僧侶を招いて経文読経を行なう。そして経文読言雨が終わると、すぐに「水かけの儀式」(ピティー・サット・ナム)が始まる。首座の僧侶が新郎新婦に吉祥糸を結び、「カー草」(もしくはマヨムの葉)の束を聖水に浸して、両名に振りかける。次いで、部屋の周り、家の周囲、更には一座の人々にもれなく振りかけるようにする。僧侶が役目を終えると、ここで初めて参列者が新郎新婦に水かけをする。こうして二人は清浄無垢の身で翌朝の結婚式に臨んだ。

元来、この「水注ぎの儀式」は婚礼の前日、つまり「料理が十分に煮えるか煮えきらない日」(ワン・スック・ディップ)に不浄物を取り去り、身を洗い浄めるという役目をもたされていた。それが後には婚礼の当日、それも結婚式の中で行なわれるように変化していった。後世には「聖水かけ」も僧侶の手を離れ、やがては親戚や年長者が「水を注ぐ」役目を負うように変わっていった。水のかけ方も全身ずぶぬれになる程の、ある意味では乱暴なかけ方から、僅かに頭上へ、そして遂にはごく少量を掌にかけるまでに変化していった。

換言すれば、実際に水浴する代わりに、手に水を注ぎ、香油を塗り込む代わりに白粉で両者の額に白い斑点を付けるようになったのである。

翌朝(婚礼当日)は昨夕に読経をした僧侶全員が再び顔をそろえ、新郎の先導役を務める年長者が、新郎を新居へと導くと、新婦側の仲人が新婦を誘って、新郎のすぐ傍らに座らせた。新郎新婦の両人は大匙<おおさじ>の柄をともに掴んで、飯器の中の白米をよそい、僧侶の前に並べられた 鉢の一つ一つに白米を入れていき、功徳積みの布施行を行なっていた。

やがて夜になり、吉祥時間を迎えると「新床造りの儀式」があり、そしてこの後、結婚の儀式の最後を締めくくる新婦の「身柄送りの儀式」(新婦を新居で待つ新郎の許に送り届ける)が行なわれた。

簡単な現代;今なら、バンコク等の都会では、旧い慣習に従えば二日にわたった儀式を、わずか一日で一通り済ませてしまう。つまり当日の朝方、僧侶を招いて読経を済ませ、昼前には新郎新婦が托鉢・布施行と中食を済ませてしまう。首座を務める僧侶が聖水を新郎新婦の身体にふりかけ、終わると白粉づけをする。白粉づけは多くの場合、家長たる親がするが、僧が施すこともある。その場合は、新郎のみ。僧侶は女性 には触れないからである。

僧侶達が引き揚げた後、式の参列者の間で宴会が始まる。新婦の家で式が行なわれるため、料理を出すのは新婦側の務めとなる。

その際、御馳走として、間違っても出してはいけないものがいくつかある。「肉汁」(ゲーン・プアン)、「魚肉入り汁」(トム・ヤム)、「タイ・サラダ」(パック・ヤム)それに「<あつもの>」(ゲーン・ローン)等々……。理由は「下卑ている」、「やきもきする」の意味にとられかねず、名前が良くないと言われているからである。また固い焼きそばも駄目。すぐにポッキリと折れてしまう。また発酵食品も駄目である。

逆に、モヤシを入れた料理があれば、良いと言われる。モヤシは「成長」の象徴でもある。人々の間では「魚汁入り細麺」(カノム・チーン・ナム・ヤー)などが好まれる。細長い麺で、長寿を保ちたいと願う者の意にかなっているためであろう。

婚姻後は

結婚後の住居方式についてだが、地域によって差異はみられるものの、新しいカップルが新郎側あるいは新婦側の家で暮らすかの選択の余地があるのは、都会や町に限られている。都会や町を一歩出れば、新郎たる者はすべからく、新婦の家へ行って暮らす(妻方居住)のが一般的とされている。新婦が新郎の家へ行って暮らすのは、新婦にはとても決まりの悪いことだと見なされている。

タイでは、一般の人々の間には新婚旅行の習慣はなく、式後何日かして、若夫婦は花、蝋燭、線香を用意して、親戚一同、及び日頃、尊敬する人物の許へ、敬意をもって報告に訪れる。めでたい祝福をその身に受けるためである。

参考文献

ピア・アヌマーン・ラーチャトン著、小泉康一訳註『タイ民衆の生活一伝統的世界・近代的世界一』、財団法人日本タイ協会、1982年

ピア・アヌマーン・ラーチャトン著、森幹男訳『回想のタイ回想の生涯中巻』、井村文化事業社、1983年

ピア・アヌマーン・ラーチャトン著、森幹男編訳『タイ民衆生活誌(2)一誕生・結婚・死一』、井村文化事業社、1984年

岩城雄次郎著『日タイ比較文化考』、勤草書房、1985年

綾部恒雄・永積昭編『もっと知りたいタイ』、弘文堂、1984年

初出誌情報

小泉康一 1992「結婚考:7.タイ―新旧結婚式比鮫」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第2号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.98-102.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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