市・市場:ベトナムの市場

岩井美佐紀

1 ハノイの市場―農村との境界のない首都の素顔

誰でもベトナムの首都ハノイを訪れた外国人は、その大都会らしくない素朴な停まいに、どこかなつかしい印象をもつことであろう。ハノイは約300万人という巨大な人口を抱える割には、都市としての機能が極端に未発達であり、特に交通手段などのインフラストラクチャーはほとんど整備されていない。フランス植民地期に建設された、比較的広くてまっすぐなアスファルト道路には、オートバイや自転車に混じって、シクロ(人力タクシー)、牛車、最近では自動車が縦横に走り、けたたましいクラクションの鳴り響くすさまじい交通戦争を引き起こしている。その横をノンと呼ばれる菅笠をかぶり天秤棒を担いだ人々が売り物の名を連呼しながら通り過ぎる。茄で落花生屋あり、茄でたにし屋あり、おこわ屋あり、安仁豆腐屋あり、ぜんざい屋あり、というように。客から声がかかれば、気軽に対応できる簡易な移動式スナック売りである。

幹線道路をはずれ、路地に入ると小規模な簡易市場が立っている。菅笠をかぶり、自転車の荷台の両側につけた金網の大きな籠いっぱいに野菜や果物を積んだ農村の女性たちが小さな路 地を埋めて、客を待っている。その隣では、精肉屋の女性がきれいに部位ごとに肉を切り分け、机の上に並べている。魚の切り身や豆腐を売っている女性たちもいる。午後4時頃、市場は活気を帯びてくる。丁度役所や工場の終業時間となり、仕事帰りの女性たちで賑わう。売る方も買う方も女性が主体である。小学1年生の国語の教科書に「お母さんは市場へ行く」という文章がまず出てくるように、また、ハノイの人々の食文化が外食ではなく、主に家庭料理にあるように、「市場へ行く」という言葉はベトナム人の日常生活には欠かせないものなのである。

このような路地の小さな青空簡易市場は、随所に見られる。もちろんハノイ市内には、屋根付きの比較的大規模な常設市場も60箇所以上あるといわれる。中にはドンスアン市場(1994年9月火災が発生し現在休業)、ハンザー市場、ホム市場など立派なコンクリート建物に収まった大規模な近代的市場もあり、食料品だけでなく、日用品や化粧品、衣料品から布地まで豊富な品揃えを誇っている。しかし、一般の人々はわざわざこれらの近代的市場に足を運ぶことはめったになく、大抵は近場の青空市場で日々の食材を購入する。その日に並べた生鮮品はその日に売るというのが、原則である。「売れ残り」をつくらないために、どの売り子の顔も真剣そのものである。このような活気あふれる市場の情景がどの路地にも展開するところが、農村との境界がはっきりしないハノイの都会らしからぬ素朴な顔であり、不思議な魅力となっている。

2 ハノイの旧市街36通り―都会の中の農村の香り

もともとハノイは、「河内」と漢越語になるように、紅河沿いに広がる内陸都市として古くから農村社会を基盤として成り立つ政治都市であり、海上交通のネットワークを基盤に発達した商業都市とは全く性格を異にしている。ハノイの市場は常に農村から持ち込まれた農産物や手工業品などが集まる場所であった。ハノイ近郊には、鍛冶専門の村や、木工製品専門の村、陶器専門の村がある。また、ザボンや竜眼、ライチーなどを特産物とする地方やゾーと呼ばれる豚肉ソーセージなど加工品やフォー'(米うどん)の乾麺を製造する村も古くから出現した。さらに祝い事や旧正月には欠かせない爆竹(現在禁止)や神社・仏閣で必要な冥器を製造することで有名な村、旧正月の風物詩的存在の桃の花やキンカンの栽培で有名な村も登場した。このように、各種専門化された村の特産品が全てハノイに集合した。植民地期までのハノイでは、このような品物は水路で運搬されていた。例えば、ハノイで最大規模のドンスアン市場は、フランス当局が1889年に建設した運河トーリック川の河岸に広がり、各地の特産品をハノイに集める役割を果たした。このように、ハノイは歴史的に農村と密接な関係にあった。というより、ハノイの社会的・文化的・物質的「都市生活」は全て近郊の農村によって支えられてきたといえる。

さて、ハノイは農村から品物が集まるだけの場所ではなかった。各地方から様々な人々も集まってきた。村の特産品を販売するために市場が立ち、ネットワークが形成された。ハノイのホアンキエム湖から西湖の間に横たわる旧市街は、ハノイ(昇竜)に「昇竜城」を建設した鳳代王朝(グエン朝はフエに遷都)の城下町として栄えてきた。今でもこの市街区には、扱う商品の名前にちなんだ街路が36通りあり、当時の面影を残している通りも多い。例えば、「砂糖通り」と呼ばれる通りは、各種の砂糖や砂糖菓子を扱う中心として繁盛してきたし、ハンザ市.場がある「皮革通り」は牛や水牛の皮およびその製品を陳列し販売する通りであった。また、「銀通り」は、銀鍛冶、装飾品製造、両替業など3つの職業の人々が集っていたとされるが、今でも貴金属を扱う店が軒を連ねている。

ここで大変興味深いのは、品物(職種)別に名付けられた各通りで商いをする職人の出身地が明確に分かれていることである。銀鍛冶業の歴史は黎朝(15-18世紀)までさかのぼり、全ての職人がハイフン省チャウケー村の出身者で占められていた。また、装飾品製造は現在のハノイ特別市タインチ県のディンコントゥオンの人々と、タイピン省のドンサム村の出身者で占められていた。その他、「玉葱通り」には約200年前からハタイ省ニケー村の人々が住み着き、木工旋盤を専業としていたとされ、「線香通り」では、ハイフン省ドンロ村で沈香作りを生業にしていた人々がハノイに持ち込み、事業を起こしたとされる。また、「簾通り」はハバック省の丘陵地域に位置するゾイテー村の人々が約100年前から住み着き、商売を始めた地である。他の通りにも専業の村からハノイに出てきて商売を始めた人々が少なくないが、これらの出身地域は、ほとんどハタイ省、ハイフン省、ハバック省などハノイ近郊地域に集中している。ハノイ特産物は別として、多数は技術を持った専業農村出身者によって商業活動が行われていたといえる。このように、ハノイ商業区は常に農村的要素を内部に包含することによって形成されてきたのである。

そのため、旧市街区の商売人は常に農村と繋がっており、彼らのアイデンティティは何処何処村の出身者という意識が今でも極めて強い。「銀通り」のチャウケー村出身の人々は、最初にこの地で職業を始めた祖先を祀る神社とともに望郷の想いを祀った祠を建て、出身村との精神的な関係を維持している。そして年1度の村祭りには一家で帰郷し、親戚一同が会してご馳走を囲むのが習慣となっている。

3 都市と農村間のネットワークを紡ぐ商業村の発展

以上のように、ハノイを中心とする北部ベトナムにおいて都市と農村は、社会的、経済的にも、文化的にも大変緊密な関係を維持してきた。そして都市と農村を繋ぐ物流ネットワークには、またそれを専業にする商業村が介在し、活躍してきた。最近では、開放経済を標榜するドイモイによって中国国境貿易が盛んになり、多くの中国製品を手がける商業村も登場している。ここでは、商業村を中心に、農村側の事情を歴史的に遡行することによって、北部ベトナム農村の特徴の一面を描いておこう。

ベトナム人研究者の調査によれば、商業村として代表的なブリュウ村(ハバック省)、ダギュウ村、ダンロアン村(共にハイフン省)では、すでに18世紀から19世紀にかけて商業村の性格を有しており、農民は収人の約8割を運搬業で稼ぐ形態を発展させていた。元々北部ベトナム紅河デルタ村落は、自給自足の性格が強く、1つの村に農業、商業、手工業の各要素が存在し、村の市場で物々交換が成立していたとされる。そのうちにいくつかの村に交換範囲が拡人し、市場のネットワークが形成される。定期市が開かれ、各地.方の特産品が広範囲の地域に流れる。このような市場の統合過程の中で、17世紀頃から尊業の村への分化がおこってきたのである。手工業も含めて、農業以外の生業が各村で発達した背景には、紅河デルタ農村の人口過剰と土地の過少状況が挙げられる。1人当たりの土地面積は非常に狭く、農業収人だけでは最低限の生活を保障できなかったためである。

上記した商業村は、以前は小規模な工芸に従事していた。例えば、ブリュウ村では絹織物の染色業、ダンロアン村では赤色染色専門の工芸が盛んであり、ダギュウ村では漢方薬を専門に扱っていた。市場のネットワークが広範囲に形成されると、これらの製品を販売するために村外にでるようになり、最終的に多くの製品を扱うために、自村のみでなく近隣の生産村をも傘下に巻き込み、手広く商売を始めるようになるのである。ハノイの旧市街の「桃通り」は、現在も洋品衣類などを求める多くの客で賑わう目抜き通りだが、植民地以前は絹織物の染色業専門の通りであり、多くの絹製品を扱っていた。月2回定期市が立ち、近隣の村から絹製品や絹地が持ち込まれた。特にダンロアン村の人々はこの「桃通り」に密着しており、村の城隍(守護神)と染色業の始祖を祀った祠堂を建てている。また、ダギュウ村の人々は同様に旧市街の「漢方薬通り」と関係を持っている。このように、商業村の発達はハノイを含めた地域の消費市場ネットワークの形成と発展に大きく関連してきたのである。

4 終わりに

ハノイという都市の市場を農村との関わりで以上のように述べたとき、その都市としての経済機能は依然として未発達であると結論づけられるかもしれない。しかし、ドイモイ以前のベトナム社会は長い間「計画経済」に縛られ、私的な工業・商業活動が発展する余地はほとんどなかった。1985年までは、都市の人々は政府が発行する「配給切符」によって米、砂糖、肉、布地など生活必需品を手に入れていた。都市と農村間の物流システムは国家の管理下に置かれていたのである。都市の市場は全く活気を失っていた。丁度1985年9月初旬、筆者はハノイの旧市街を歩いていた。ごみすらも全く落ちておらず、当たりが静まり返り、まさに死んだ街のようであったことを覚えている。現在の無秩序にさえみえる街の活況からはほど遠い光景である。

今日村の伝統的生業が復活し、手工業や商業専業の村はにわかに活力を取り戻した。さらに、陸を越えて海を越えて大量の外国製品が流入している。ハノイの市場は様々な物で溢れ返っているが、ポットや扇風機、衣料品などは安価な中国製品が席巻している。一方、これらの製品を製造していたベトナムの国営企業は休業に追い込まれ、数万人を抱えるナムディン市紡績工場では深刻な失業問題に苦しんでいる。さらに農産物は生産調整も加工業も未発達のまま放置されており、農民は極端に安い農作物価格を甘受せざるを得ない。自給的要素が強く、閉鎖的だった北部地域は、ドイモイ後急激な経済変化を経験している。2500ドルもする新品のホンダバイクをさっそうと乗り回すジーンズ姿の若者と日銭1万ドン(約1ドル)を稼ぐために汗だらけで必死に天秤棒を担ぐ菅笠の老女の姿は、外国製品がもたらした都市化現象の埋めようのないギャップを露呈している。今日のハノイの市場の活況が我々に語りかけてくるのは、都市・農村間の力関係の決定的変化であり、さらには市場経済の波に乗った村と取り残された村との問に起こる経済格差の拡大である。

参考文献

参考文献

レー・ヴァン・サン「市場へ行くのは人生の楽しみ一市場」坪井善明編『アジア読本・ヴェトナム』河出書房新社 1995年。

初出誌情報

岩井美佐紀1996「市・市場:7.ベトナムの市場」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第6号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.131-134.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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