姓名論雑考:タイ?カレン民族

吉松久美子

「稲」と「銀」、さて、どちらが男で、どちらが女であろうか。

答えは「稲」が女で、「銀」が男である。

これはカレン人の名前のわけ方である。カレン人はミャンマーとタイの国境沿いに広く分布する民族であるが、このわけ方は彼らの生活様式から生まれている。今では水田耕作も取り入れているが、焼畑と狩猟採集がもともとの生業であった。

女たちは村の近くでタケノコや茸や果実を採集し、仲間と連れだって焼畑の草刈りを行う。作物の世話するのは女の仕事であり、焼畑は女のものである。だから焼畑から収穫される「ブ(稲)」は女の名となるのである。一方、男たちは村から離れ、獲物を追って森へ進み、そして近隣の異民族と産物を交換する。そのときの通貨が銀であった。だから男の名は「ジェ(銀)」となる。

日本では女児の名には「子」を、男児の名には「男、雄、夫」をつけることがあるが、カレン人にも接頭語として男を意味する「パ」と女をさす「ノ」がある。ただし、これは丁寧表現の意味あいが強いために、ときとして略されることもある。こうしてノナブ(稲を信じる女)やノスブ(稲を植える女)、パジェ(銀の男)やパルジェ(銀の石の男)というカレン名ができあがるのである。

カレン人は子供が誕生してもすぐに名前をつけないため、なかには1年間も名なしの子がいる。というのは名前の多くが愛称から転じているからである。もちろん親の願いを託して、パティゲ(賢くなる男)というように命名することもあるが、それは少数派で、ほとんどが赤ん坊をあやしているうちになんとなく愛称が生まれ、それが名として定着していくことになる。

収穫後十分乾燥した稲を丸太をくり抜いたイタに打ちつけて脱穀する

だから男の子でも、笑顔が花咲くようだと「笑う花(ポエ)」と呼ばれ、それに男を示す接頭語のパがついてパポエとなる。また、丸々とした女の子は「丸い顔(プル)」と呼ばれ、それに女を意味するノがついてノプルとなる。しかし、このように愛らしい名前ばかりではない。

例えばノニ。彼女の母親がお産で死亡して貰い乳や米汁でしのぎ、痩せ細ってしわだらけの赤ん坊だった。そこで「しわくちゃ」を意味するニにノがついて「しわくちゃの女」と命名された。また、膀の緒を切ったあとが臭かったので「腐ったお膀」と呼ばれて、それにパがつきパウデ。また、ペニスが瓜のようだったので「瓜のおチンチン」と名づけられたパコディなどさまざまである。

こうしてつけられる名前だが、生涯を通じて用いられるというわけではない。名前は2度、かわる。長子が誕生したときと初孫ができたときとである。長子が誕生するとその長子の名で両親も呼ばれるようになる。つまり、ナブという女の子なら、ノナブの母さん、ノナブの父さんとなり、初孫だったらノナブの婆さん、ノナブの爺さんとなる。

幼名はその時点で消え、この呼び名が村を越えて行き渡る。40人も孫がいるある老婆は、あまりに長い間、幼名が使われなかったために、村人がすっかり忘れてしまっていた。彼らがいかに子孫の誕生を重視するかが、この変更からうかがい知ることができる。

姓をつける

ところが、近代国家に取り込まれるようになると、カレン人も戸籍から自由でいられなくなった。タイ政府は僻地の戸籍を整備するために、私のいた村でも十数年前から住民登録を始め、そこで必要となったのが姓である。カレン人には姓がない。

タイ役人の「父方の名前」という説明に、父の父、つまり父方の祖父の名を姓として届ける者が多かった。私のいた村では最長老の村長が祖父の名をとって「コドー」と届けた。カレン人は母方居住が一般的で、村でも息子夫婦は1軒しかいなかったが、その甥夫婦を含めて村長の妹弟夫婦、娘や姪夫婦も同じ姓を申請したのである。

村では住民票、身分証明書、義務教育登録簿があって、それぞれに登録しなければならなかった。ところが、この三つの台帳に同一名が記人されている者は誰一人いなかったのである。

なぜ、このような事態が生じたか。

まず、意思疎通に問題があった。タイ語とカレン語は異なる言語である。だから役人と村人の意思疎通はおぼつかない。名前の接頭語となるパやノがついたり落ちたりするのは日常茶飯事で、そのうえタイ文字でカレン名を正確に表記できないため、役人によって文字が異なって記入されることになる。そして、記入されたそのタイ文字を村人は読めない。

鳥、ムササビ、コウモリなどの小型動物を狩猟する弓矢。

次に、父系登録が母系のカレン社会になじまないということがあった。結婚後は夫の姓に入っているはずなのに、妻の両親の姓を申請してしまう。

そしてなによりも、村人に姓という観念が欠けていた。つまり、自分の姓などどうでもいいのである。登録時に忘れてしまい、そこで新たに考えて申請することさえあった。

これに加わるのが役所の指導である。登録されたカレン名の判読に手を焼いたタイ役人は、タイ国民としての帰属意識を生むためにも、新生児にはタイ名を、また今までのカレン姓名もタイ姓名へ変更を申しつけた。そこでタイ姓名がさらに加わることになった。

写してきた三つの原簿と開発プロジェクトの名簿を突き合わせながら、私は「何なの、これ、同一人物なんでしょ」と何度も叫んでしまった。しかし、姓名がダラ・コドーであろうと、ノパラ・コドーであろうと、パラ・ギメであろうと、本当はいっこうにかまわないのかも知れない。彼女本人はふくよかな丸顔に白い民族衣裳をまとって、確かにそこで暮らしているのだから。

初出誌情報

吉松久美子 1991「姓名論雑考:5.タイ?カレン民族」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第1号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.83-85.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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