映画:エジプト映画

四戸潤弥

(1)エジプト人と映画

エジプトの劇場映画は始まってから今年(97年)で102年目を迎える。エジプト映画の歴史は、映画の歴史が始まったのと同じ時期に始まった。フランスに始まった映画の歴史だが、ほぼ同時にエジプトへも紹介され、直ぐにエジプト映画の歴史が始まったのである。

映画は当時の人々にとって衝撃的なばかりか、新しい世界であった。エジプトの大人ばかりか子供の心も捕らえ、魅了していった。チャップリンの時代になって映画はエジプト人の生活の素晴らしい娯楽の1つとなっていった。輸人上映された映画にエジプト人たちは驚き、楽しんだ。その中には大人ばかりでなく、やがて映画監督としてデビューすることになるエジプトの少年たちも含まれていた。彼らは西欧や米国の映画に魅了され、欧米の映画が与えた感銘を心に持ち続け映画製作の世界へと入っていった。

映画を見た感動を当時7歳の子供だった1913年生まれのエジプトの有名な監督、故アブー・サイフは雑誌のインタビューに答えて語っている。

「私はカイロの貧民街プラーク地区で幼年時代を過ごした。プラークには「アリババ」映画館があった。この映画館に初めて入ったのは7歳の時だった。チャップリンの映画が一L映されていた。その日、私は笑った。心の底から笑いが湧き起こっていた。上映が終わると映画館を出た。そして同じ口に映画館へと戻っていった。その日から私は毎日映画館へ足を運んだ。映画は私の血管を流れていた。こうして私と映画との関係が始まっていったのだ。(1)

当時のエジプト映画の内容を見ると、最初は支配階級や金持ちを題材にしたものだった。やがてパシャや金持ちを主人公にした映画から庶民の生活の現実を題材にした映画が製作されるようになった。「それは単に庶民全体を一つのものとして捕らえるのではなく、大衆という枠の中やエジプト社会という枠の中で、若い男女が直而する伝統的社会との葛藤を描くものや、当時エジプトが置かれた困難な政治状況に対する思いを盛り込んだものなどがあったと」アブー・サイフ監督は指摘し、次のように述べている。

「私は貧しい地区で生まれ育った。当時のエジプト映画は短編であった。これら短編映画が伝えるものは、ブルジョワ社会生活と、パシャのf女たちの問の恋物語りだった。私はエジプト映画が大衆の生活とは何の関係もなく、とても遠いものだと感じた。だから私は一般庶民の生活を描いた映画を製作しようとしたのであった。(2)

それでもエジプト映画では庶民生活を描くものばかりでなく、ブルジョワ生活を描くものが続いた。その他には、英国占領下のエジプトという祖国の現実を撮ったもの、伝記物、エジプトの村の支配構造を描くものなどがあった。映画は一方では支配階級や上流、金持ち階級の恋愛を描き続け、他方では大衆とともに時代の雰囲気や問題を供給することで、現実の厳しさと解決への未来を描いていった。

アブー・サイフ監督は、エジプトの大衆小説作家イフサーン・アブドルクッドゥースの小説を割合に多く映画化している。アブドルクッドゥースの小説は、個人の自由を抑えようとする慣習に抵抗する人々の声、特に女性の声を代弁しているので人気が高い。彼の小説の多くは英語に翻訳されている。彼の本は易しい文体で、内容も興味のもてるものである。

(2)映画俳優たち

映画は芸術である。俳優は芸術家である。トップクラスになると訪問国の首脳にも出迎えられるほどである。日本では今年夏、数時間しか滞日しなかったシュワルツネッカーを橋本首相が歓迎したが、こういうことはこれまでなかったことのように思う。エジプトでは悪玉も善玉も演じきるファリード・シャウキや、観客動員数がものすごい、喜劇役者で映画俳優のアーデル・イマームなどはアラブ世界でも有名で地位も高く、国賓として迎えられる俳優である。

国際的俳優では、アラビアのロレンスに出演し、ドクトル・ジバコの主役をやったオマル・シャリーフが有名である。アラブ系の俳優では、エジプトではないが、アルジェリア人を父に持ち、ドイツ人を母に持つフランスのスター、イザベル・アジャー二がいる。彼女の本名はヤースミンで、今年のカンヌ映画祭では審査委員長をつとめた。彼女は1955年生まれで、パリ郊外で成長し、高校時代から演劇部で活躍していた。彼女はフランスのトップクラスの女優である。イザベル・アジャー二のようなアラブ系俳優や、アラブで幼少年期を過ごした国際スターはけっこういる。アラブ人ではないが、往年のイタリアのセクシー女優カルディア・クラディナーレはチュニジアで生まれ育っている。

(3)映画俳優たちの生活

トップスターとなれば大金持ちのように豪華な邸宅を構えることになるが、名声をバネに政界進出するような例は少ない。映画俳優になるためには演劇の基礎が求められ、彼らの多くは演劇で鍛えられる。そのために映画や演劇の世界に入るとそこで生き続けるようである。

エジプトでは喜劇俳優アーディル・イマームのギャラが最高で、映両1本当たり推定で125万エジプト・ポンドである(3)。ただこのギャラはエジプト映画最高の530万ポンドの興業収益をあげた「バヘイト・ワウダイラ」だったと首われている。がそれにしても25%の取り分は大きい。同じく有名な男性俳優アフマド・ザキは映画1本当たり45万ポンドである。女優では大衆女優と言われるナーディア・ギンディが映画1本あたり7万ポンドで最高ギャラである。こうして見るとアーディル・イマームが破格のギャラとういうことになる。

映画のギャラが個人によって差が大きいのは興行成績の収益によるからである。その点テレビのギャラは興行成績ではなく、スポンサーの払いによるから俳優にとっては安定していると受け取られる。さらに興行収益は時間がかかるが、テレビ出演のギャラをすぐに受け取ることができる。こうした事情は映画投資家にも言えることで、映画に投資するよりもテレビドラマに投資する方が収益を期待できるのである。

(4)若き監督たち

映画への情熱は強く、多くの監督たちがヨーロッパや米国の地で映画芸術を学んできている。たた映画芸術を専攻とする大学の学部や大学院の研究科へ留学するのではなく、他の学問を専攻している中で映画芸術に触れ、映画の道へ進んだり、欧米の映画製作現場やテレビ局の番組制作に携わって、実験的な作品を製作し新地を切り開く映画人たちもいる。

エジプトのように演劇や映画などの芸術に熱心で多くの観客を期待できる国を除けば、若き映画芸術家の多くは留学したり、あるいは移住したりして外国で制作しているようである。特に短編や実験的な作品にはそのような傾向がある。彼らは国内よりも国外で評価を得ているが、その理由は彼らのテーマは若い世代に特有なものであるという点から国際的だからである。特定の文化の雰囲気を色濃く持つ映画が外国に理解されるためには、その特異な文化への興味が強いか、ある共通性を多くもたなければ不利である。その点、ヨーロッパとアラブの隣接する2つの世界であり、欧米の中ではアラブ文化への熱狂的な支持者を生みだしにくいし、交流が深いが十字軍の歴史以来、敵対的な歴史を持つ両世界では、欧米から好意的な評価を期待できない。97年のカンヌ映画祭でもアラブ映画の受賞はなかったばかりか、これまで一度もなかったというのも歴史的事情が背景にあるといえる。

とはいっても若き映画人に国境はないから、カンヌ映画祭のような非常に有名なフェスティバルを別にすれば意欲的な製作が行われ、受賞作品も多い。

参考としてフランスの短編映画祭であるクレモント・フィランド映画祭(4)に参加したエジプト人映画監督とアラブの映画監督について触れ、注目されるアラブの映画監督を紹介する。

*サアド・ハンダーウィー(1968年生まれ、エジプト)。カイロ映画高等芸術学院で学ぶ。主要作品には次のようなものがある。

  1. 「ズィヤーラ・フィル・ハリーフ(秋の訪問)」(20分)。95年エジプト国民映画祭第1位、エジプト・イスマイリア短編・ドキメンタリー映画祭審査委員会賞、フランス・モンベリエ映画祭カナール・ブルース賞を受賞した。
  2. 「ヨウムル・アハディル・アーディー(普通の日曜日)」(19分)。卒業作品で、96年エジプト国民映画祭審査委員会賞、パリアラブ世界学院祭最優秀短編賞を受賞した。

*エイリー・ハリーファ監督(1954年生まれ、レバノン)スイスの大学の芸術部映画学科を卒業。卒業作品は「ムルサール・パワー」(20分)である。代表作は、「タクシー・サー,ビス」で、客が精神病院に無理やり運ばれる筋書き。レバノンが大国や近隣諸国に翻弄されてメチャメチャになった状況を寓意的に表現している。同短編は、96年アラブ世界学院祭大賞、96年仏モンベリエ祭大賞受賞、96年スイス、ロカルノ祭大賞受賞と輝かしい成果をあげている。

*ヌールッ・ディーン・アルハマーリー(1954年生まれ、モロッコ)。フランスで薬学を学んだ後、ノルウェーで化学を学んだ。ノルウェー留学中、方向転換し、オスロ映画・テレビ学院で映画製作を学んだ。主要作品には次のようなものがある。

  1. 「アッスィラーウッ・サーミト(沈黙の闘争)」(9分)。92年ノルウエー短編ビデオで第1位、スカンジナビア諸国映画祭第3位に輝いた。
  2. 「ニダーウル・マウト(死の闘争)」(23分)。93年ノルウェー短編ビデオ第1位、スカンジナビア諸国映画祭第2位を獲得した。
  3. 「アルハーティマ(終焉)」(13分)。94年ノルウェー短編ビデオ第1位を獲得した。
  4. 「ムザッキラート・カスィーラ(短い備忘録)」(16分)。95年ノルウェー短編ビデオ第1位、モロッコ・タンジャ国民映画祭新聞・批評部門第1位、カナダ映画祭最優秀監督賞を受賞した。
  5. 「ワラド・ビドゥーナ・ズィファーフ(華燭の宴なき子供)」(17分)。96年ノルウェー・グリムスタード映画祭審査委員会賞を受賞した。
  6. その他の作品には、「アルウフターン(1人姉妹)」、「バーイウッ・スフフ(新聞売り)」(5分)、「フィー・ムハーリブッ・ライル(夜の爪の中で)」(25分)、「アルアーラムル・ジャミール(美しき世界)」(25分)などがある。

*ナースィル・パフティー(生年月日不詳、アルジェリア)。90年ロンドン・マウント・ビュー芸術・ドラマ学院卒。彼はドキメンタリー専門で、テレビで活動しながら、映画、ドラマのシナリオも執筆する。主要作品には次のようなものがある。

  1. 「ミヤーカーリバ」(短編、91年)。
  2. 「ユーリカシャーイルのジンバブエ芸術」(テレビ用、92年)。
  3. 「アッサーイルル・ワヒード(唯一残されたもの)」(テレビ用記録映画、93年)。同作品はミラノ・アフリカ映画祭でキューリ・エミコ賞と、93年イタリア映画祭審査委員会賞を受賞した。
  4. 「フィー・カルブル・ゾルマート(暗い心の中で)」(テレビ用、94年)。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を描いたドキメンタリー作品で、94年スペイン・ビリバオ記録映画祭銀賞、95年イタリア・モンティサンティ国際映画祭審査委員会賞を受賞した。
  5. 「ジュネーブ・ミラートル・アーラーム(ジュネーブ・国際社会の鏡)」(テレビ用、96年)。

(5)エジプトの映画産業

1.エジプト映画産業を取り巻く状況

エジプト映画の95年制作数は15本で、アラブ諸国の中で制作数第1位、全制作数の3分の1を占める(5)。エジプト映画は70年代には年間平均制作数70本だったのが5分の1にまで減少した。理山は2つある。1つはアラビア湾岸諸国(サウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦など)の全般的な投資資本活動の減退であり、エジプトの映画産業もこの影響を受けた。もう1つは劇場映画がテレビなどのドラマやホームビデオなどに押されて不振になったことである。70年代のエジプト映画産業の興隆は、73年に起こった第4次中東戦争でアラブの敵対国への原油の禁輸戦略が実施された結果、アラブ産油国の石油収入の増大した、いわゆるオイルダラーが多くの投資対象を探して動き回っていた時期と対応している。アラビア湾(ペルシャ湾)の産油国は欧米への投資を盛んに行っていたが、同時に同じ言語、同じ文化を共有し、かつ投資国政府への圧力行使も適当にできるアラブ諸国への投資も盛んに行っていた。エジフ.トは好ましい投資対象国であった。しかしこうした状況も80年に勃発し88年まで続いたイラクーイラン戦争での対イラク財政支援とペルシャ湾のオイルタンカーの航行危険などで変化が生まれ始めた。さらに80年代半ばには、クウェート、アラブ首長国連邦、ナイジェリアなどの国が石油を増産し、OPECの生産上限枠協定を破っていく。こうして原油市場は軟化し、サウジアラビアのヤマニ石油相が取ったバスケット方式を契機に原油価格の大暴落が起こり、アラビア湾岸諸国政府は原油収入の減収とともに緊縮財政政策を取るようになった。エジプトの映画産業は豊かなスポンサーを失っていったのである。イラクーイラン戦争が終わると、アラビア湾岸諸国全体に再び好況が訪れた。しかしそれはイラクによるクウェート侵略、湾岸戦争で大きく変化する。そして現在、アラビア湾岸諸国のエジプトへの投資活動は安定している。イラクのクウェート侵略で活動本部を失った企業がエジプトなどに事務所本部を設立する動きが見られるようになった。そして自国での危険を回避する意味でオフィスの拠点をエジプトにも置くといった形でエジプトを位置づけるようになったのだが。映画産業への投資はそれほど回復しなかった。

劇場用映画産業は莫大な資本を必要とする投資事業である。そのためには多数の観客動員数が期待できなければいけない。大作よりもテレビドラマの方が投資資本回収率が高く確実である。こうした事情から映画産業は製作のための資本不足が常態となっている。

(6)アラブ資本と映画産業

映画に投資する資本家は当然国際マーケットで売れる作品に投資するから、作品、俳優、配給などといった様々な要因を考慮に入れる。当然彼らには映画はアラビア語でなければならないといった言語的な制約もなければ、俳優がアラブ人でなければならないということもない。さらに制作場所がアラブ諸国内でなければならないといったこともない。彼らは米国映画や英仏映画の国際マーケットの方が収益がより期待できると考えている。

こうした傾向は最近始まったのではない。エジプトやチュニジアでは政府は巨大なスタジオを建設した。特にチュニジアではブルギバ前大統領時代に、国内というよりは欧米の映画産業を同国内で行うよう誘致するため、同大統領の故郷ムナスタールに広大なスタジオを建設した。さらに映画産業振興のためにサタバーク(チュニジア映画産業制作・投資基金)を設立した。中東諸国で民族独立の指導者だった世代にとって映画は現代人が感じる以上に夢であり、魅力的な娯楽であったのである。

ただ映画は劇場用映画で、アラブ諸国や欧米諸国との合作は含まれていない。後述するが、この他にアラブ資本が欧米の映画産業に投資して制作される映画は含まれていない。また欧米などに留学して映画芸術活動を行っている若い映画監督たちの実験的な映画も含まれていない。

現在も、アラブ資本の欧米映画産業の投資活動は盛んである。英国の故ダイアナ前皇太子妃の恋人とされたエジプト人故イマード・ファーイドは映画「炎のランナー」などに投資家として参加している。

(7)アラブ映画の鑑賞と情報入手法

1.アラブの新聞や雑誌を利用する。

私はアッシャルキル・アウサト(HFII紙)を購読している。この付録に「アルジャディーダ」という週刊誌がある。航空便で毎日送られてくるこの日刊紙は77年頃の創刊で、平易で現代的な文体と、著名なジャーナリストが参加していたことから、当初から評価が高く、国際的な日刊紙としてアラブ世界で位置づけられている。この新聞の文芸蘭には新しい映画のニュース、国際的な映画のニュースが掲載されており、前者はアラブの映画情報、後者はアラブ側が自分たちと世界の映画との関係をどのように見ているかを理解するのに役跣つ。また付録の「アルジャディーダ」は映画スターや芸術家たちの日常生活のレベルまで入り込んで記事を掲載している。このようなものを見ておくと、アラブ映画ばかりか、アラブの芸能ニュースに継続的に触れることができる。年間購読料は375USドルで、支払いは相手銀行振込の電信為替か、バンクチェックを購入して郵送する。電信為替の方が早くて手数料も安い。

購読料は高いかと言えば高いとも言える。だが東京での日刊紙の月間購読料は3925円、年間購読料は4万7100円、ドル換算では392ドル余りである。この金額で、アラブの日刊紙を週刊誌の付録付きで購読して釣りがくる。さらに言えば、[本は物価高の国である。95年の夏が終わっても消費回復の気配が見えないと政府は言っているが、それでも日本の生活費は高い。在日アラブ人たちや訪[したアラブ人たちは日本を「先進工業国」とも言わず、何から何まで高すぎる国「バラド・ガーリー」と言う。バラド・ガーリーを直訳すると、「高い国」で、勿論物価が高いという意味ではあるが、そればりか同じ日本の製品なのに自国に輸入された製品の値段の方が安いという「理解しがたい」実感に納得がいかないらしく、この国を訪れたメリットを引き出せずに、生活をエンジョイできない国と不満が吐き出される。そうした事情を考慮すれば、新聞代も高いが、その値段でアラブの日刊紙と週「lj誌が海外から毎日、配達されるのだから、高い高いと敬遠することもない。

また娯楽に力を入れている週刊誌に「Al-Majallh」がある。前記と同じ会社の出版物であるが、資料として取っておきたいと考えている人には日刊紙よりも週刊誌の方がいいだろう。

その他に芸能雑誌はたくさんある。エジプトは豊富であるが、印刷が現時点では良くない。

2.インターネットを利用する。

インターネットのホームページではアラブの映画情報を入手することができる。アドレスは、http://www.arabfilm.com/aboutafd.htmである(web編注:現在のURLは http://www.arabfilm.com/ 2008年1月10日アクセス)。ホームページを開いているのはAFDで、AFDとは「Arab Film Distribution」の通称である。ホームページには、1)AFDの紹介、2)AFDに納められている映画ライブラリーのタイトルとその内容、3)アジア、アフリカの映画についての本の紹介、4)ホームビデオに仕立て直された映画のコーナーがあり、さらにホームビデオの注文コーナーがあってインターネットを通じて購人できる。AFDは1990年に開催されたシアトルでのアラブ映画祭頃からアラブの映画をライブラリー化しており、その目的はアラブ映画を米国とカナダの映画館、大学、メディアセンターなどで公開し、アラブ映画への理解を高めることである。

ここで同ライブリーにリストアップされているエジプト映画の主なタイトルを紹介する。

11―「Nasser56」(ムハンマド・ファディル監督、96年、上映時間142分)。エジプト革命の指導者で、スエズ国有化政策敢行し、アラブ民族主義の偉大な指導者となったアブドッ・ナーセルの伝記映画である。最近、伝記映画は多くなっている。前記したシャヒーン監督の「アルムハージル」の他に、近代の文学者ハリール・ジブラーン・ハリールの伝記、イスラム教学の偉大な学者で、西欧では哲学者として評価の高い「イブン・ルシド」の伝記、また日本でも翻訳されているアミーン・マアルーフの「レオン・アフリーック」の生涯で、アラブでは「ハサン・アルワッザーンの生涯」とのタイトルとなって公開が予定されている。

2―「Umm Kulthum A Voic Like Egypt」(ミシェル・ゴールドマン監督、96年、67分)。エジプトの国民的女性歌手の生涯のドキュメンタリーフィルムである。彼女の歌のテープはエジプトばかりかアラブ諸国でも売れている。

3―「DaysofDemocracy」(アッティヤ・アルアブヌーディ監督、96年、60分)。95年のエジプトの人民議会選挙での女性立候補者の選挙活動を描いたドキュメンタリーである。候補者は落選したが、エジプト女性の強さを感じ取ることのできる映画である。

4―「Al-lrhab Wal-kabab」(シャリーフ・アリフ監督、92年、105分)。熱心な信者である役人と、役所仕事を、最近のテロ多発状況と組み合わせて描いている。

5―「Al-Aragouize(指人形)」(ハーニー・ラシーヌ監督、89年、100分)。指人形師が息子の教育費を捻出する姿を描いたドラマで、主役は「アラビアのロレンス」で世界スターとなったオマル・シャリーフである。

6―「Dreams of Hindand Camila」(ムハンマド・ハーン監督、89年、110分)。上映当初から各雑誌で評価が高かった。2人の家政婦は主人の虐待に公然と反逆する。カイロの貧しい女性たちの姿を描いている。旅行すれば分かるが、10代の女の子たちが劣悪な条件で家政婦として働いている姿はカイロで容易に見つけることができる。そうした女性たちの抵抗の姿が訴えるものは強い。

3.直接現地へ行って見るか、買ってくる。

この方法は短期訪問の場合には運に左右される。アラブ諸国ではビデオセンターが盛んで、ここで貸し出しも販売もしている。販売しているのはオリジナルと違法コピーである。タイトルも娯楽的なものが多いが、さらに言えば、半数以上が米国、ヨーロッパ、インドの映画である。アラブ映画を総合的に楽しむには少し偏りすぎている.意欲的な新進気鋭の監督による実験的映両などの入手は不可能と思ってよい。ダビングの場合にはちゃんとダビングされているかのチェックも必要である。

現地のテレビで放送されたアラブ映両を見るか、録画する。最新の映画を放映している場合が多いが、タイトルをこちらから選べないのが難である。そういったことから、日刊紙の文芸欄か、映画関係の雑誌、あるいはAFDで状況を把握したりしてアラブ映画に親しむのがよいように思われる。

(8)終わりに

1.エジプトでのエジプト映画論

外国から何かを知ろうとする場合、そして対象となる物が同じように外国にも共通してある場合には総論的になりやすいし、焦点が曖昧になる。それは対象となる分野が同じでも、その一つ一つについて眺める側のそれとは内容そのものが、そしてそれが置かれた状況が異なるからである。エジプト映画というテーマについても同じ事が言える。

エジプト国内で、またエジプトの人々と同じ言語を共有し、さらに映画の内容そのものに決定的に影響を及ぼす人生観の基礎となる宗教を同じくするアラブ諸国でエジプト映画を話題にすれば映画の話題は新作や俳優へとすぐ入っていくことができ、映画そのものの内容と出来不出来、俳優の役における評価、そして少し話題がそれてもエジプト映画産業の収支勘定といった問題などが論じられることになるだろう。それは映画の情報が継続的に提供され、蓄積された情報を前提とした暗黙の了解も多々あるからである。

また言論と表現の自由弾圧といった重要な問題が突然に湧き起こったりして論議が盛んになることもあるだろう。95年のエジプトの有名なシャヒーン映画監督が制作した「アルムハージル」が、イスラム世界に強い影響力を持つアズハル大学から激しい批判を受け、さらにエジプト国民から上映禁止の訴訟騒動まて持ち上がった。この映画は、旧約聖書に記載されているユーセフー族の物語である。イスラム世界では預言者たちの姿を演じることが偶像崇拝に傾きやすいことから禁じられており、さらに映画内容も誤りが多いとされたため、シャヒーン監督のこの映画に対し信仰の面から上映禁止を求める批判の動きが現れた。西欧では言論と表現の自由に宗教的要素も例外でないとの原則があるので、イスラム世界の遅れた側面を挟りだす意味で格好の批判材料を提供することになった。シャヒーン監督はこの映画で宗教的寛容を社会に訴えようとしたと言われている。80年代後半から原理主義者たちが暴力テロに走り、エジプトでは外国人の観光客を銃や機関銃を持って襲撃し、レバノンではイランの支援を受けたヒズブッラーがイスラエルとの国境の南部レバノンを拠点に軍事作戦を展開し、さらにアルジヱリアではイスラム過激派が村を襲い、村民全員を殺裁する事件まで起きてる状況の中で宗教的寛容をテーマとした映画を制作することは勇気あることである。しかしこれは国内から反発を招き、西欧からは映画そのものよりも、映画という表現の自由を弾圧するイスラム世界と理解されてしまう。宗教を根元から問い直すのはいいが、それが適切であったかは意見が分かれる。むしろ、映画はキリスト教世界である西欧での評価を狙ったものと言える。同じように宗教的過激派を批判する映画でも、エジプトの喜劇俳優アーディル・イマームはもっと直接的に「アルイルハーブワルカバーブ(テロとカバーブ)」では、宗教的な教条セ義者を役所の仕事をないがしろにして礼拝ばかりしている姿を滑稽なものとして描いている。カバーブは中東の肉料理である。また彼は劇「ザイーム(指導者)」で中東の独裁政権を批判している。こちらの方は興行成績もよく、観客動員数も多い。もっとも俳優アーディル・イマームの人気に負うところ大であるのだが、映画そのものはユーモアと滑稽にあふれている。彼の笑いは既成権威の中に発見できるユーモアと滑稽にある。既成権威を破壊する滑稽さ、快感さは、日本の最近の笑いの特徴であるが、彼の笑いは既成の権威を直接的に破壊しようとするのではなく、その中に潜む滑稽さを挟りだすのである。それに比べシャヒーン監督は西欧の評価を考慮に入れている監督である。ちなみに彼は今年、フランスのカンヌで開催されたカンヌ映画祭50周年で映画に貢献した監督として特別賞を受賞している。

話を元に戻すと、表現の自由の弾圧問題が湧き起こっても、エジプト国内でのエジプト映画について語る場合には話題が限定されていくことには変わりはない。

2.外国人のエジプト映画理解

ところが外国人を対象としてエジプト映画について伝えようとすると話の道筋は非常にむつかしくなる。日常的な情報の交換もないし、暗黙の了解もない。お互いに自分の物差しで相手の評価をすることになるからである。近代の発明である映画という表現手段ではあるが、映画そのものが、その地域の文化に決定的な影響を受けるために小説と同様に地域性を色濃く持つものだから日本流に解釈する訳にはいかない。日本のテレビドラマ「おしん」はエジプトばかりかアラブ諸国で大人気だったが、それは人生の中で必ず起こる問題という点で共通の基盤に立てる内容だから文化の違いを越えて理解されたのである。だが、何を好むかというような文化的嗜好性についての具体的な内容になると相手の文化への理解なしには対象をきちんと位置づけることはできない。

そうしたことから、外国人がエジプト映画を眺める場合、前記述した話題の他に、1)エジプトの映画産業の歴史と現状、2)配給と上映の問題、3)映画監督たちの紹介、4)映画作品について、5)俳優について、6)映画のテーマと最近の傾向、7)旧世代の映画製作者たちと新世代の映画製作者たち、それに彼らの作品について、8)映画人たちの経済状態、9)映画の輸出問題、10)同じアラビア語を共有する他のアラブ諸国の映画との関係、11)エジプト映画のアラブ世界での位置づけと、国際レベルでの位置づけ、12)アラブ世界で中心的役割を果たしているエジプト映画産業の他のアラブ諸国での貢献度、13)映画人たちの教育機関、留学状況、14)自主作成映画、15)映画産業の投資状況(スタジオ建設、外国映画、アラブ映画への投資)、そして世界的に共通している16)テレビのドラマの興隆と劇場用映画の衰退傾向、17)俳優たちのギャラ、18)外国映画のエジプト映画に対する影響、19)エジプト映画、アラブ映画を鑑賞する方法、などといった様々な要素を入れてエジプト映画を伝えないと全体像は把握できないように思われる。だが、全体像を知らなくても、例えば、「97年のエジプト映画」といったふうに、テーマが限定されれば、書きやすくなる。とういうのはテーマが限定されていれば、読む方に心の準備ができ、前記したような様々な要素については思いを巡らすことなく読み進んでいけるからである。誌面の関係L、すべての要素を入れて論じることはできないから、アラブ映画をいろいろな角度から論じた本が待たれるところである。

〔注〕

(1)Al-Majallah 5月5-11日号、96年、p3。

(2)前掲

(3)N-Majallah 12月8-14日号、96年、p5。

(4)Al-Majallah 3月23-29日号、97年、pp2-15。

(5)Al-Majallah(No.2)5月5-11日号、97年。

初出誌情報

四戸潤弥1998「映画:12.エジプト映画」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第7号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.119-128.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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